case1-6 約束された死
――吐息はもう、白くならなかった。内臓の奥まで冷えてしまって、低体温症の寸前と言える。大量の雪は自由を奪い、命の危機を察知した身体が強い眠気を呼び起こす。
下がろうとする瞼を必死で持ち上げ、腹に力を入れ、彼は叫ぶ。「誰かいないか」――と。
大きな雪崩に巻き込まれてからもうすぐ90分になる。この時間を超えると生存率が大幅に下がる危機的状況だ。
雪崩が起きた瞬間に必死で走って窒息死は免れたが、それでも大自然の暴力からは逃げ切れなかったのだ。
仕事柄、筋肉は一般人よりも多い。しかし、首まですっぽり埋まってしまってはどうにもならない。体が動けば体温を保てただろうが、このままでは凍死してしまう。
雪の冷たさは体に馴染み、感覚がない。震えることも無くなってしまった体は濡れそぼっていた。
(――こんなところでオレは死ぬのか。約束も守れず、追いかけていた犯人も捕まえられず。せっかく……猶予をもらったってのに)
神々廻は自分の頭に浮かんだ言葉に首を傾げた。『猶予』とはいったい何か。『約束』とは、誰としたものだろう。
考え込んだ瞬間に耳の奥に聞こえるのは木々のざわめき。蝉の聲。夏の日差しの中に――……。
それ以上は、何も思い出せない。
やがて瞼が落ちて思考が途切れた。
争う気力もなく、本能のままに小さな声でつぶやく。
「助けてくれ……」
眠ってしまった彼の元へ、誰かがやってくる。鈴の音と雪を踏む音が山の端まで広がっていく。山彦が鈴の音を反響させて、幾重にも重なった。
その人は頭の上に降り積もった雪を避け、腰を屈めて神々廻の顔を覗き込んだ。
「――?」
「だ、れ?たすけ、」
「――――」
「ごめん、聞こえな……」
真っ黒な人影はため息をつき、何かが破裂した音が耳をつんざいた。いや、これは手を叩き合わせた時の音ではないだろうか。
人影が動くたびに涼やかな香りがして、凛とした鈴の音が聞こえる。手先や足の爪先から急激に熱が巡って、意識が浮上していく。
「――起きろ、神々廻直」
「はっ!?」
「おお、目ぇ覚ましたな。術の相性はいいようだ、オレの気配に当てられて伸びたのに」
「相性がいいのに気絶するんですか」
「しゃーないだろ、こういう物に触れたことがないなら魂自体が拒否反応を起こすんだよ。こいつに目印がついてるってのもある」
「……はい」
低く、柔らかな声と鬼一の声が彼の耳に沁みていく。先ほどまでの冷たい気温はなく、暖かな太陽の日差しが瞼の裏にも感じられた。
神々廻は目を開き、目前に並んだ顔を順番に眺めた。
鬼一は眉根を寄せて……これは心配の表情ではなく、不満の様相だ。
横に並んだ白狐は目が榛色をしている。無表情に見えるが、首を傾げた様が妙に愛らしい。
さらに新たなメンバーとして黒猫が加わっている。金色の目は鋭い眼光を発しているものの、桃色の鼻が柔らかそうだ。
最後に……黒い人影が一つ。この人の声を聞き間違えるはずがない。雪崩から救い、麓まで運んでくれた命の恩人なのだから。ずっと探していた彼の顔を見て、瞼が大きく見開かれる。
「か、かっけえ……」
「俺のことか?」
「そうみたいですよ師匠」
「その呼び方、やめねえ?違和感がすごいんだが」
「師匠なのは間違いありませんから」
「し、しょう?アンタが鬼一のお師さんなのか!!」
飛び起きた神々廻は正座になって三つ指をつき、勢いよく額を床につける。『ごん』と鈍い音がして、取り囲んだ面々は苦笑いを浮かべた。
「すいません!俺の命の恩人であり、部下のお師さんの目の前でこんな……カッコ悪い真似して!」
「ほお、俺を覚えてるのか?記憶操作したはずなんだがな」
「記憶、操作?アレっすか、陰陽師の術とかっすか」
「そうだけど……やけに素直に受け入れたな?土下座せんでもいい。待たせて悪かった」
「いえ、あの、恐縮っス」
神々廻は目の前にあぐらを描いて座り、泰然とした様子の『鬼一の師匠』をまじまじと見た。
彼は頭の先からつま先まで真っ黒だ。長い髪を首の後ろでひとまとめにし、緩やかな弧を描く前髪は耳にかけられている。身につけた着流しと羽織は上品な光沢を持ち、胸に家紋のような絵が金糸で刺繍されていた。上背はかなりありそうで、しっかりと芯の通った姿勢が美しい。
キリッと上がった眉とまなじり、澄んだ瞳に陽光が宿る。あの日と同じ色の優しさがすぐそこにあった。
「目もお肌も綺麗っすね」
「……今の所大したストレスもなく生きてるからそうかもな。お前さんに後遺症がなさそうでよかったよ」
「はい!あの時は助けていただいてありがとうございました!お礼がしたかったんで、お会いできて嬉しいです!!!この恩をどうお返ししたらいいか、」
「恩返しなんかいらねえよ、俺がたまたまあそこにいただけ。運が良かったんだ」
「確かにそうかもしれませんけど、重たい男を麓まで降ろしてくれたって聞いてます」
「ガタイがよかろうが痩せてようが関係ねえ。力持ちなんでね」
「うぉ……かっけえ………………!!」
瞳を輝かせていると、鬼一が『いつもの課長じゃない』とこぼした。確かに彼自身もそう思っていたが、恩人に対して無碍な扱いなどできるわけもない。
「なんか、鬼一に聞いてた話とだいぶ違うな?不思議な話もそのまま受け入れてるじゃねぇか」
「こういうキャラなのは知りませんでした。尊敬のあまり全てを受容しているのでしょう」
「ま、二人も出会ったばっかだしな。さて……俺に〝銀の警笛〟をやれって話だったか?」
「あ……ええと、そう思ってたんですけど」
「ん?」
「何ていうか、オレの命の恩人にそんな仕事頼むなんて失礼っス」
「んー、まあタダで手を貸すつもりはねえけど」
流れるような所作で袂からタバコを取り出し、それが咥えられる。触れていない筈のタバコの先端に火が灯り、煙が吐き出された。
煙が中庭に流れる。甘い香りが漂い、神々廻は首を傾げた。
「チョコのニオイ?いや、果物?チョコパフェ……そんなわけないか」
小さなつぶやきを耳にして、黒づくめの彼と白狐はニヤリと笑った。鬼一はさらに不満げな顔になったが、神々廻自身はニヒルな笑いを浮かべる鬼一の師匠から目を逸らせない。
同じ男としての所作振る舞いの美しさ、隙のなさに思わず感心してしまっている。
「神々廻の『超常アレルギー』は仕組まれたもんだ。俺がやった記憶操作の術は、前もって別の術が施されていたから無効化されたみたいだな。
それから、お前さん……あと一年のうちに死ぬぜ」
「え……」
「今は思い出せなくてもその時はやってくる。もう、約束しちまってるから。超常との約束は契約でな、それを解消してやれるかはまだ分からん。
神々廻、お前さんは仕事が面倒で下請けを探してるのか?」
「……いえ、面倒だとは思ってないっす」
「ああ、じゃあ約束の時までに身の回りを整理しようとしてんのか。契約主の力が強くなってるから、無意識のうちに仕事を仕舞おうとしてるんだろう。
一人遺される部下の鬼一が困らないように準備してるみたいだけど、心配はいらん。コイツは元々こっち側の人間として潜入してもらってるから。神々廻の件は予定外だったが、」
「師匠」
「鬼一、ここは言っておいたほうがいい盤面だ。面倒ごとはごめんだろ?
厄介な『約束』が気がかりで、お前さんはここに連れてこられたんだ」
衝撃的な言葉を吐いた彼はもう一度タバコの煙を飲み、静かに吐き出す。そこにはわずかな憐憫の情と、親しげな思いが宿っている。
鬼一が警察に勤めているのが、まるで彼によって指令を与えられたかのような言葉。そして神々廻の事情を知っていて心配していたという事実。
彼女はややあってため息をついた。わずかに耳が赤くなっているのが見えて、神々廻の胸がどきりと音を立てる。
「とりあえず目の前の仕事から片付けようぜ。失せ物探しだよな、佐々木さんちの白くてでかい猫だろ?」
「あ、えと……はい」
何でそれを知っているのか、とか。自分にかけられた術、約束、一年後に死ぬとはなんなんだ、とか。様々な疑問を抱えたまま、神々廻は言葉を失った。
そんな彼に手を差し伸べ、柔らかな笑みを浮かべた鬼一の師匠。肩に黒猫を乗せ、膝の上に白狐を抱えて彼は口を開く。
「俺は白石 直人。陰陽師探偵って名乗ってる、よろしくな」




