第九話:論理の終焉
1. 成功と、予感
貿易条約の調印式は、東方皇国の宮殿で厳重な警備のもと行われた。 サイラスとマーガレットは、領主や重鎮たちと共に円卓を囲む。
サイラスは、契約書にペンを走らせるマーガレットの横顔を一瞥した。 その瞳は自信に満ち、この場で最も冷静だった。彼女の「投資」が成功したことで、王国の国益は約束された。
(これで、私は王族としての責務を果たせる。兄上たちに顔向けができる)
しかし、彼の脳裏を支配するのは、「仕事の成功」ではない。
(私は、この女のいない未来を、もう計算することができない)
サイラスは、自分の論理をひっくり返し、愛を貫くことを心に決めていた。この契約が終われば、正式に彼女を妻として、愛で繋ぎ止めると。
そして、領主とサイラスが最終のサインを終え、グラスが掲げられようとした、その刹那――。
2. 炎上する宮殿
ドォォォォン!!
宮殿の奥から凄まじい爆音が轟き、大広間の豪華なステンドグラスが、激しい音を立てて砕け散った。
炎と黒煙が立ち込め、広間は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄と化す。
「敵襲だ! 反乱軍が攻めてきたぞー!!」
「西の蛮族たちと売国奴を討て!」
開国に反対する過激派による、周到に準備されたクーデターだった。
サイラスは、反射的にマーガレットの手を掴み、テーブルの下に押し込んだ。
「マーガレット、離れるな!」
護衛の騎士たちが盾となるが、多勢に無勢。宮殿は、反乱軍と火災によって、次々と崩壊していく。
サイラスは、彼女を抱え、最寄りの非常用通路へと逃げ込んだ。
3. 瓦礫の回廊
逃げ込んだ先は、長大な石造りの回廊だった。
しかし、度重なる爆撃で天井が崩れ、回廊の奥にあるはずの隠し通路の入口は、巨大な梁と瓦礫によって完全に塞がれていた。
「くそっ……!」
サイラスは護衛と共に瓦礫を退けようとするが、崩落は止まらない。
後方からは、彼らの居場所を察知した反乱軍の兵士たちの足音が迫る。前は瓦礫。横は火炎。逃げ場はない。
護衛騎士の一人が、血の気の失せた顔で叫んだ。
「殿下! 通路が狭すぎます! 瓦礫を退かす時間もありません! 私の防護魔法で、お一人なら強行突破が可能ですが……!」
騎士の視線は、サイラスと、彼に寄り添うマーガレットを一瞥した。 通路は一人で体を滑り込ませるのが精一杯の幅しかない。そして、強行突破には一瞬の猶予もない。
騎士の言葉は、冷酷な真実を突きつけた。
「第三王子殿下、貴方様の命こそが王国の全てです! 貴方の正妃であり王室御用達の商会長とはいえ、今この場で命の重さを天秤にかけるのは、国家の政策として当然の判断かと!」
それは、騎士の忠誠心から出た言葉であり、同時に、サイラスがこれまで王国の政策として推進してきた「功利主義」の論理そのものだった。
王子の命は、商会長の命より重い。
論理的に考えれば、答えは明白だった。
4. マーガレットの「損切り」
サイラスが、血の気が引いた顔でその論理を消化しようとした瞬間。 彼は、繋がれていた手を、振りほどかれた。
マーガレットは、サイラスの冷酷な教えを最も忠実に実行しようとした。
「……サイラス殿下。行ってください」
彼女は、「ガーネット商会会長」の顔で、静かに微笑んだ。
「これは『損切り』です。私一人の命で、王国の第三王子と、調印済みの条約が守れるなら、安いものですわ。……貴方との仕事、本当に楽しゅうございました」
彼女はサイラスの背中を押し、炎の壁の方へ一歩下がった。
彼女は、「彼を生かす」という、究極の自己犠牲を選んだのだ。
サイラスは、自分が最も愛する者を、自分の信条(功利主義)によって失おうとしている現実に直面した。
「――ふざけるな……!」
彼の頭の中で、積み上げてきた数式が、ついに砕け散った。




