第七話:計算外の「熱」
1. 現場の指揮官
サイラスは、領主の屋敷から、港湾都市のスラム街を見下ろす高台に立っていた。もちろん、感染リスクを考慮し、マーガレットとは距離を置いている。
泥と瓦礫が散乱する隔離地区。通常の人間なら尻込みするような場所で、マーガレットは黒い布で口元を覆いながら、的確に指示を飛ばしていた。
彼女の周りには、領主の役人ではなく、ガーネット商会の屈強な船乗りたちと、熱病に怯えながらも彼女の言葉を信じるようになった住民たちが集まっていた。
「薬草は、まず子どもたちに。大人はこの防護服の布を二重に! 熱があっても、動ける者は物資の運搬を手伝って! 無料で治すわけではありません。これは将来、あなた方が商会に返す『借』です」
彼女の言葉は徹底して「商人」のものだった。温情を見せつつも、それはすべて回収されるべき「投資」だと明確に伝える。 しかし、その声には、疫病の恐怖を打ち消すほどの力強い熱が宿っていた。
2. 論理と焦燥
サイラスは双眼鏡越しにその光景を見つめながら、頭の中で再計算を繰り返した。
(彼女のやり方は、依然としてリスクが高すぎる。彼女自身が感染すれば、私との契約も、東方貿易も全てが水泡に帰す)
だが、彼は動けない。
(私の論理では、即座に彼女を捕らえ、王族の責務として隔離させるのが正解だ)
彼が切り捨てた場所で、マーガレットは「多数の命」と「王国の信用」を同時に救うという、彼の計算では不可能な偉業を成し遂げようとしている。
(私が恐れているのは、条約の破綻か? それとも……)
双眼鏡を覗く手が、微かに震える。
(……もし、彼女が倒れたら?)
その思考が頭をよぎった瞬間、サイラスの冷静な胸に、熱病のような激しい焦燥が襲いかかった。
それは、兄たちが戦場へ向かうのを見送る時とは違う。弟のアレクセイが裏の仕事を担う時とも違う。 家族の安否は「国益」という論理で許容できる。しかし、彼女の安否は、彼自身の存在基盤を揺るがす恐怖だった。
3. 計算に現れた「愛」という誤差
サイラスは双眼鏡を下ろした。
(私は、いつから彼女を『利用価値のある駒』として見ていない?)
彼女の行動は非効率だ。だが、その非効率な行動が生み出す「信頼」と「忠誠心」は、彼の外交辞令百回分よりも遥かに強力な資産となっていた。
そして、その資産の担い手であるマーガレット自身が、今、危険に晒されている。
(計算できない。私は彼女の価値を、無限大として設定し直さなければならないのだろうか?)
サイラスは、自分の心の中で芽生えた感情を、認めたくないがために、「計算上の新しい変数」として捉え直そうと試みた。 だが、その変数には「愛」という名前しか付けられないことを、彼はもう自覚していた。
「……無茶だ。早く戻って来てくれ、マーガレット」
彼は、誰にも聞こえないほど小さな声で、初めて「契約」や「論理」ではない、「個人的な願い」を口にしたのだった。




