11 始音の正体
玄関を出て見上げた空は、これ以上ないほど黒く曇っていた。
「そっか、もう梅雨入りしたんだっけ……」
面倒だなぁと思いながら、傘立てから赤い傘を一本引き抜く。それからあたしは、普段より重く感じるバッグと傘を手にして、いつもどおりに登校するのだった。
駅までの道のりも、電車の中の光景も、駅から学校までの道のりもみんないつもどおりで、そのことがあたしの気分をさらに重くさせてしまう。なにも変わらない現実こそが、逆にあたしの取り返しようのない失態を突きつけてくるみたいで。
――結局、始音のアカウントも『SIN/KAI』の動画も、あたしは見つけることはできなかった。
本気で全部削除されてしまったのか、それとも名前を変えただけで実はこっそりネットのどこかにあるのか。せめて後者を望みたいところだけど、あの文面を見る限り前者の可能性以外はありえないとしか思えない。
いずれにしろはっきりしているのは、『SIN/KAI』のことをみんなに知ってもらうということが不可能になった、ということだ。
「はーぁ、ホント、なにやってるんだろうねあたし。バッカみたいじゃん」
みたいじゃなくて、ホントのホントにバカだったわけだけど。
自己嫌悪をため息にして吐き出しながら、あたしは使わないままだった傘はそのまま昇降口の傘立ての隙間にねじ込むと、下駄箱で靴を下履きに履き替える。それから重い足取りのまま廊下を歩いて、教室の扉の前でちょっと立ち止まってしまう。
少し間を置くように一度深呼吸してから、ゆっくりと教室の扉を開けた。
「……おはよー」
重い気分を抱えたままのせいで、挨拶もおざなりになってしまう。でも、さすがに昨日の今日でショックが残ったままなのだから、許してくれないかな?
「おはよー、夏凛。……えっと、大丈夫? なんかすごくへこんでるみたいだけど」
「あー、うん、大丈夫……じゃないかな? ちょっとやらかしちゃったので、反省中デス。なので、しばらくへこんでるかもだけど、気にしないで欲しいかな」
あたしの様子がいつもと違っているから、なのかな。おっかなびっくりって感じで聞いてくるゆっこに、あたしは空元気を振り絞ってへらへらと答える。できるだけ、たいしたことがないんだと見えるように。
「……それって、やっぱり、あの動画が、消えてることに、関係ある?」
「そうそう、いきなり消えてたから、ビックリしたんだけど。いったいなにがあったわけ?」
「あー、うん、それなんだよねー。ふたりとも、聞いてくれる?」
ミクも加わっての質問に、あたしも吐き出したい気持ちはあったのでかいつまんで事の経緯を語ってみる。
あたしの例の動画が他人の楽曲を勝手に使っていたこと。その楽曲の持ち主からDMが来て、著作権違反を咎められたこと。持ち主に謝罪しようとしたところ、アカウントが全部削除されていたのでできなかったこと。仕方ないので、DMで要望されたとおりにあたしの例の動画を削除したことを。
あたしがすべてを語り終えると、黙って聞いていたゆっこが顔に苦笑を滲ませていた。隣のミクはいつもどおりの無表情だけど、そのどんぐり眼が少し呆れているように見えるのはあたしの気のせい、だといいな。
「あー、なるほど。それはやっちゃったねー、夏凛」
「うん……やっちゃいました」
「だったら、動画を消すのも仕方ない? のかなー」
首をひねりながらつぶやくと、ゆっこはすぐに唇を尖らせる。
「でも、その始音だっけ? その人もちょっと身勝手だよねー。夏凛の話くらい聞いてくれたっていいのにさぁ」
「あはは、うーん、そう、かなぁ……」
ゆっこがあたしの味方をしてくれるのは嬉しいけど、この場合はあたしに全面的に非があるわけだから、そんな風に言われちゃうと正直ごめんなさいって気分になってしまう。
「ま、あたしがへこんでるのはそーゆーわけです。自業自得だから、あんま気にしないでちょーだいね。後は、あの動画の拡散ポストだけは、みんなにも消してもらわないと、かな」
「……ねぇ、夏凛」
とりあえず結論をつけようとしたあたしに、ミクが話しかけてくる。
「夏凛は……その始音て人と、話したい、んだよね……?」
「え? あー、まぁ、そうなんだけどさー」
楽曲使用のお願いはともかく、せめて謝罪だけでもしたいところは間違いない。でも、問題は、その手段が見つからないことなんだけど。
「ぶっちゃけどうしようもないからさー。垢もみんな消されちゃったし、正体にも心当たりはないしね。だから正直諦めかけてるんだよね、これが」
そう思ってため息をつきつつ肩をすくめるあたしに、
「……正体、見つけられ、なくもない……かも」
ミクが相変わらず表情は動かさないまま言ってくる。その日本人形みたいな外見もあいまって、なんだかお告げを受けたみたいな気分になった。
「え? どーゆーこと?」
「夏凛の、動画……別に、バズっても、ないはず、なのに……始音は、どうやって、知ったの?」
「え? それは……どう、やって、なんだろうね?」
あたしのwhispersのアカウントのフォローワーは、ほとんどが鳩ヶ谷生のものでしかない。だからいいねやリポストがいくら増えたところで、それはあくまで身内の間だけのはず。なにか特別な――それこそバズったりとか――ことがない限り外側から認知されないのは、それこそ『SIN/KAI』の再生数が証明している。
だとしたら、始音があたしのことに気づけたのは、どういうことなんだろうか?
「……答えは、簡単。始音も、鳩ヶ谷の生徒、だってこと。じゃないと、気づける、わけない……」
「――っ!?」
まさに、青天の霹靂だった。
始音が鳩ヶ谷の生徒――つまり、あたしの同級生や先輩だったりする可能性なんて、これっぽっちも考えていなかったから。でも、ミクにそう言われると、途端にそれしかないと思えてくる。
「そっ……か。うん、確かに、それアリかも。とゆーか、それしかないって感じだよね。そう考えたら、希望、出てきたかもだよ。うっっわー、ありがとね、ミク。これで始音見つけられたら、全部ミクのおかげだから、ご褒美考えといていーよ。あたしでできるなら、なんでも叶えてあげるからさ」
「……うん、任せて。ちゃんと、考えて、おくね……」
喜びのあまりミクの両手を握りしめぶんぶん振り回しながらそう言うと、ミクはくすりと唇の端を少しだけ吊り上げて笑ったみたいだった。
とりあえず、そこで予鈴が鳴ってしまったので、お開きになる。
自分の席に戻るミクたちを感謝のまなざしで見送りながら、あたしはさてと考えにふけることにした。
ミクのおかげでどうにか始音を見つけられる目途は立ったけれど、まだ方針が決まっただけで具体的な手段は決まっていない。だから具体的なやり方を決めないとなんだけど、さて、どうしたものか。
鳩ヶ谷の生徒だけに可能性が限定されても、まだ四百人以上いるわけだからどうにか絞らないと、だよね。でも、外見も年齢もわからないし、始音って名前にしても本名じゃなくただのHNの可能性だってあるわけだから、そこから攻めるのはちょっと決め手に欠けてしまうだろう。
だとしたら、残る手段で思いつくのは彼女――鳩ヶ谷の生徒なら女子で決定済み――がピアノを弾けるという事実。それもかなりの腕前なのはわかっているから、生徒たちに聞き込みをすれば容疑者はすぐに見つかるんじゃないだろうか。
そう推理を組み立てたあたしは、名刑事よろしく聞き込みをすることにした。
まずは吹奏楽部の一年生を見つけて、ピアノが弾ける生徒を炙り出す。後はそこから攻めていけば、きっとすぐに始音までたどり着けるはずだと。
そんな希望的観測を抱いて、あたしは意気揚々と動き出す。
けれど――結果はまさかの空振りだった。
「うう、なんでよ。なにがいけないってのよ……」
机の上に突っ伏したまま、あたしは負け犬の遠吠えのように情けない呻き声を上げていた。
午前の休み時間を利用して見つけ出した吹奏楽部の一年生に話を聞き、わざわざアポイントを取ってもらって鍵盤パートの先輩たちに集まってもらい、いっしょにお弁当を食べながら始音について心当たりがないか聞かせてもらったというのに。
こっそりスマホに保存していた『SIN/KAI』の動画まで聴いてもらったというのに、結局みんな心当たりがないだなんてショックすぎて。
あえて好材料を探すとすれば、自分たちはとてもこんなに弾けないくらいにうまいのは確かだから、ピアニストとしてすでに有名でもおかしくないしたとえばコンクールの優勝者とかを当たってみるといいかもと、助言をくれたくらいだろうか。
それにしたって、始音のピアノの腕がプロ級だと最初から思っていたあたしとしては、ただ自分の鑑識眼が正しかった保証がされただけにすぎないから、結局なんの成果にもなってはいないのだけど。
それでも、先輩たちがどうにか絞り出してくれた助言だと思えば、無碍にできるわけもない。
「望み薄だけど、一応コンクール、当たってみるかなぁ」
呟きながら、あたしは机から身体を起こした。
伝手が特にあるわけでもないけど、空振り覚悟で当たってみるのも悪くないと、そう考えて。
とりあえず、音楽の先生に聞いてみればいいのかな。宮坂センセ、今なら職員室よりも音楽室かなぁ。
あたしはそんな風に当たりをつけると、スクールバッグを手に放課後の教室を後にした。
一年の教室と音楽室は棟が分かれているから、結構距離が離れていたりする。
なので、音楽室に着くまでの間に階段や廊下をランニングしている運動部の部員たちとすれ違うことで、もう雨が降っていることがあたしにもわかった。
雨が酷くならないうちに帰れるかなぁ、そのためには宮坂センセちゃんと音楽室にいてくれるといいなぁ、と。
ぼんやりそんなことを思いながら、あたしは音楽室の扉に手を掛ける。
そして、完全に開ききらないうちに気づいた。ピアノの音が、中から漏れてきていることに。
「……これって」
そして、さらに気づく。流れているピアノが奏でる旋律が、『SIN/KAI』のものであることに。
「――っ!」
その瞬間、考えるよりも先にあたしは扉を開け放っていた。同時に、ピアノの音が止まる。
どうやら、中にいたのはひとりだけらしい。ピアノの前に座っていた生徒が、驚いたようにこちらを見つめていた。長い黒髪に、芸術品のように整った顔がよく見える
あたしはその顔に見覚えがあった。
「……ひょっとして、沓掛さん?」
「? ――もしかして結城さん、ですか?」
結果、お互いに苗字を呼び合うことになる。
そう、音楽室でピアノを弾いていたのは沓掛さんだったのだ。
中一のたった一年だけともに過ごした彼女は、どうやら同じ高校に進んでいたらしい。
その理由はわからないけど、それでも臙脂色のブレザーに赤と黒のチェック柄のスカートの鳩ヶ谷の制服を身に付けた沓掛紫苑は、あの特別な雰囲気をまとったままでいるように見えた。
……ん? 紫苑? しおん? ……あれ?
「……もしかして、沓掛さんが始音ってこと?」
「? ええと、結城さん、なにを言ってるのでしょうか。確かに私の名前は紫苑ですけど……」
再会の挨拶もなしに、胡乱な会話が繰り広げられてしまう。けれど、今のあたしは礼節なんて簡単に吹き飛んでしまうくらい、思いがけない発見に心を奪われてしまっていたのだからしかたない。
「そう、紫苑だよ。そっか、なんで気づかなかったんだろう。始音=紫苑なんだって」
「あの、結城さん……? いったいなにを?」
「沓掛さん! ……ううん、始音って呼んだ方がいいのかな。ええと、とにかく始音? が『SIN/KAI』の作者、ってことでいいんだよね?」
あたしが勢い込んでそう聞いてしまった瞬間、沓掛さん(始音?)の表情が一気に強ばった。
「どう、して、それを……っ!?」
彼女のその態度こそ、自白そのものだった。どうやら沓掛紫苑=始音なのは、間違いないみたいだ。
「あはは、それに気づけたのはピアノの音が聞こえたからなんだけど。すぐに『SIN/KAI』だってわかったのは、あたしがKarinだから、かな」
なんとなく頬をポリポリと掻きながら、あたしは自分の正体を正直に話す。あたしが勝手に彼女の曲を使って、歌ってみた動画をwhispersに投稿した犯人だってことを。
「あなたが、Karin……? ……そういえば、結城、夏凛と言いましたわね。なるほど、そういうことでしたか」
あたしと同じ結論に達したのだろう。一瞬訝しげに眉根を寄せてから、すぐに納得したように頷いてみせる沓掛さん/始音。
「……それで、そのKarinさんが私になんのご用でしょうか。あなたの動画のことでしたら、もうすでに私の要望は伝えているはずですけれど」
例の赤い布を鍵盤の上に置き、そのままピアノの蓋を閉めた始音が険しい顔をしてこっちを睨みつけてくる。あからさまな敵意に気圧されはしたものの、それでもあたしは彼女の目をまっすぐ見つめ返すと、静かに口を開いた。
「うん、始音からのDMはちゃんと届いてるし、あたしの動画もちゃんと消してあるから、そこは安心してほしいかな」
「……そうですか。でしたら、それで結構ですが。まだ、なにか?」
硬い口調のままつっけんどんに聞いてくる元クラスメイトに、あたしはゴクリと一度唾を飲み込んでから、
「それで、ね。あたしが頼めた義理じゃないのはわかってるんだけど。あの『SIN/KAI』の動画、今は消されちゃって見えなくなってるみたいだけど、あれ――もう一度あげてもらえないかなって思ってるんだよね。……どう、かな?」
心からのお願いを口にしてみる。
それがあまりに思いがけないものだったのか、虚を突かれたようにぽかんと口を開けてしまう始音。お澄まし顔しか見たことがないあたしにとっては、とっても新鮮な表情だった。
「どういう、ことでしょう……? あなたの動画を使用できるようにして欲しいということなら、私が許すかどうかはともかく、理解はできますけれど。私の動画を再投稿して欲しいというのは、よくわかりません。『SIN/KAI』がもう一度見えるようになることに、あなたになんの意味があるのですか?」
「あはは、うん、そうだよね。意味わかんないよね」
あたし自身もよくわかっていないんだから、他人である始音が理解できるわけないよね。でも、理解して欲しいし、理解できるようにするのがあたしの役目、なのかも。
「でも、それがあたしの本音なのは間違いないから、始音にはそれをお願いしたいんだ。だって、あの曲――『SIN/KAI』はその価値がある曲だってあたしは思ってるから。もっと大勢の人に聴いてもらいたいし、聴かせるべきだって。あたしが歌を作ってwhispersに動画をあげてみたのも、それが理由だったんだから」
早口でそこまで一気にまくしたてる。あれ、これってもしかして告白っぽくない? なんてことを思いながら。
「だから、お願いします始音――沓掛紫苑さん。あたしのためでなくてもいいから、『SIN/KAI』をもう一度あげ直してもらえませんか?」
あたしは彼女に向かって頭を下げた。深々と、普段お辞儀してるのよりもさらに腰を曲げて。
「…………どうして、あなたみたいな人がそんなことを」
「え?」
やがて沓掛さんがぽつりと漏らした呟きに、あたしは反射的に頭を上げてしまう。
本当に特別な女の子は、どうしてかひどく途方に暮れたような顔をして、あたしのことを見つめていた。
「えぇと、それって、どういう――」
「……あなたがあの曲をどう思っているかは、わかりました。どうしてそうなったかは、理解できませんが」
疑問を覚えたあたしの言葉を、沓掛さんの言葉が遮る形になる。沈黙するあたしの代わりに、始音が淡々と続けてくる。
「その上で、私の回答は否です。私は二度とあの曲を表に出すつもりはありません」
「ちょ、なんで――」
「結城さんとは違って、元々私はあの曲を不特定多数の人に知られたいと、聴いて欲しいとは思っていませんから。そんな価値があるとも思いませんし」
「……っ!?」
『SIN/KAI』の価値を自分から否定する発言に、あたしは思わず歯噛みしてしまう。
「なによりも、迂闊にWetubeに私の曲を置いたままですと、なにをされるかわかったものではないようですので。私の許可を得ることもなく、勝手に歌詞をつけられたあげくに下手くそな歌を歌われたりもするようですし」
「……うぅっ」
なにげに歌そのものをディスられてしまったけど、言ってることは間違ってないからぐうの音も出せやしない。
「ですが、私が一番許せないのは――」
そんなあたしをぎろりと、まるで殺意でも籠もっているような目で睨みつけると、
「あなたがあの曲にあんなふざけた歌詞をつけてしまったことです。私があの曲にどんな思いを籠めたのかも知らないくせに、あんな最低で低俗な歌詞をつけて、誰でも見えるようにネットに発表するなんて――っ。私を馬鹿にしているとしか思えません! 身勝手にも程があるでしょう! あなたみたいな人に、そんなことをされる筋合いなんて、これっぽっちもないはずですのに――っ!」
それまで溜まっていた鬱憤を一気に吐き出すように、沓掛さんがあたしを罵倒してきた。
その言葉の内容に、なによりも彼女がはじめて見せた激情に圧倒されて、あたしは言葉も出せないままただ立ち尽くす。
「――ですから、あなたがどれほど私に頭を下げたところで意味はありません。私があの曲を表に出すことは二度とありませんから、諦めてください。いいですね」
最後通牒のように言い切ると、沓掛さんはピアノの脇に置いてあったスクールバッグを手に取った。そのままあたしの脇を通り抜けて、出口に向かって歩いていく。
その途中――
「結城さんは、二度と私に話しかけないでください。それと、音楽室にも授業以外で近づいてこないように。それだけはお願いします」
あたしのそばを通り抜けざまに、そんな言葉だけを最後に残して。
そのまま音楽室を出ていく沓掛さん。
一人残されたあたしは、その後もしばらく立ち尽くしていた。どうしてこんなことになったんだろうと、そんなことをぼんやりと思いながら。




