12 失意の雨
意識はどこか、遠くに漂っている。それは熱に浮かされたときのようにふわふわしたものじゃなくて、霞がかったようにぼんやりと虚ろなものだった。
それなのに、あたしの身体は足を動かし続けている。どこに向かっているのかもわかっていないくせに、一度も止まることもなく。まるで機械仕掛けの人形みたいだと、ぼんやりとした頭でそう考えながら。
何度も色のついた影とすれ違うけれど、それが人なのか動物なのか、それともただの建物や電柱だったりするのかさえ理解することもないまま。
ただぼんやりと歩き続けていたあたしはふと、足を止めた。視界のあちこちで色鮮やかな塊がいくつも揺れ動いている。
それが傘なのだと、相変わらず虚ろなままの頭でも思い至れた。どうやら雨が降っているみたいだと、ぼんやり考える。
どうりでずっと視界が煙っているままなはずだ。さっきから身体に当たり続けているものは、どうやら雨粒らしい。ようやく傘を忘れてきたことに気づいたけど、別にどうでもいい。全身がずぶ濡れになっていることも、どうでもいい。
なにも考えられないままのあたしは、だからなにも気にせず再び歩き出す。
やがて傘の群れの姿がいきなり消えると、あたしの周りを同じように進んでいた臙脂色の集団が一列に並び始める。その列にあたしも自然に並ぶと、身体が勝手に手に持ったバッグから取り出した小さな機械を、黒い塊の上にかざす。
そのまま列の流れに乗って緑色の大きな部屋に入り込むと、すぐに部屋が動き出した。
ゴトゴトと音を立てて走り続ける部屋は、途中で止まるたびに開いた穴からあたしと同じくらいの大きさの影が出入りする。そして何度目かに部屋が止まったところで、あたしはその開いた穴から部屋を抜け出した。
なにも考えず、ただあたりまえのように。
それからあたしは同じようにぼんやりと、でも少しも迷うことなく足を動かし続けた。そうして、気づけばあたしの目の前に一軒の大きな家が姿を見せる。
見慣れた赤色の屋根に立派な家庭菜園と化している庭を視界に収めたあたしは、躊躇することなくその家の門を押し開ける。そのまま玄関も開けると、チャイムも鳴らさず中に入り込んだ。
「お帰りなさい、夏凛。――って、びしょ濡れじゃない!? いったい、どうしたの? 傘は持ってなかったの?」
「……ただいま、お母さん。えっとね、持ってたんだけど、帰る途中で傘がなくて困ってたお婆ちゃんがいたから、あたしの傘を渡しちゃったんだよね。それで、もう濡れちゃったからいいかなーって、そのまま帰ってきちゃった」
玄関であたしを出迎えるなり驚いた顔を見せたお母さんに、あたしは適当なでまかせを口にする。本当は単に傘を学校に忘れたまま帰ってきただけなんだけど、正直にそう言って余計な心配させたくないからね。嘘はダメだけどこの場合は仕方ない、うん、仕方ない仕方ない。
「まったく、この子は……。親切なのはいいことだけど、もう少し自分のことも考えなさいね。どこかのお婆ちゃんが濡れずに家に帰れても、その代わりにあなたが風邪を引いたらなんの意味もないじゃないの」
あたしの演技に無事騙されてくれたのか。お母さんはあたしの嘘に呆れて小言を言いながらいったん奥に引っ込むと、バスタオルを持ってきてくれる。
「とりあえず、これでちゃんと身体を拭いてから、シャワーを浴びて身体を温めてきなさい。お母さん、その間に暖かい飲み物用意しておくから」
「はーい、わかりましたー。よろしくね、お母さん」
受け取ったバスタオルで簡単に頭と身体を拭ってから、靴を脱いだあたしはそのまま奥の脱衣所に向かった。
びしょ濡れの制服に下着もみんな脱いで、ポケットの中身をちゃんと取り出すと、そのまま洗濯機に放り込む。すっぽんぽんになったあたしは、そこでくしゃみをひとつしてしまったので、慌ててお風呂場に逃げ込んだ。
シャワーのコックをひねり、頭から熱い水流を浴びる。
その焼けつくような熱で、あたしの心を凍てつかせていた氷が溶けたのか。
気づけば、シャワーの水流に混じって、あたしの頬を流れるものがあった。
「あはっ、なにやってんだろあたし。どうして、今頃……っ」
土砂降りの中びしょ濡れで歩いてるんだから、別に泣いていたって誰にも気づかれるはずもなかったのに。家に帰ってシャワー浴びてる最中に、思い出したように涙が出てくるなんてわけわかんない。
他の誰にも気づかれなくても、あたしにはすぐ気づかれるくせにね。ホント、バカみたい。
「ああもう、なんなの、なんなのっ。ねぇ、誰か教えてよ。なんでこうなったの。なんでよ……っ」
あたしはただたまたま見つけた曲が気に入って、それをみんなにも聴いてもらいたいなーってそう思っただけなのに。ただあたしにもなにかできるかなってちょっと歌ってみただけなのに、どうしてこんなことになったんだろう。
――誰かを踏みにじるつもりなんて、これっぽっちもなかったはずなのに。
『私があの曲にどんな思いを籠めたのかも知らないくせに、あんな最低で低俗な歌詞をつけて、誰でも見えるようにネットに発表するなんて――っ』
沓掛さんの怒りに満ちた言葉と表情が、頭から離れない。離れてくれない。
だから、その痛々しい面影を真っ黒に塗り潰してなかったことにしようと、あたしは彼女への文句を口に出していく。
「……最低で低俗な歌詞って、なによ。沓掛さんだって、あたしがどれだけ頑張ってあの歌詞書いたのか、知らないくせに。勝手なことばかり言わないでよ。あたしだって、本当に、頑張ったんだからさ……」
時間だけならそれほどはかかってないにしても。歌詞作りをしていた間は本当にそれだけに集中していたし、自分のありったけを注ぎ込んだつもりだった。
だから、たとえ作曲者本人からしたら気に入らない歌詞でも、その努力自体は否定しないで欲しかった。
「下手くそな歌で、悪かったわね。これでもあたし、カラオケで平均95点くらいは余裕で行くんだから、馬鹿にしないでよ……。そりゃあ、プロとは比べものにならないだろうけど、ただの素人なんだから、それくらい大目に見てくれたっていいじゃん……」
罵倒じみた呟きが、口からこぼれ落ちる。もちろん、みんなあたしの本音だ。心から思ってることなのは間違いない。間違いない、けど。
その呟きはすべて、口に出したそばから消えていく。まるで泡になった人魚姫みたいに。
だって、そんな言葉すべて言い訳だから。あたしは悪くないって、逃げてるだけの言葉だから。
本当はあたしにもわかってる。全部あたしが悪いんだって。あたしの浅はかな行動が沓掛さんを傷つけて、始音を存在ごと消してしまったことを。
「っく、ごめ、なさい、沓掛さん……ゴメンね、っ、始音。みんな、あたしがっ、悪い、んだよね……っ」
嗚咽混じりの謝罪がこぼれ落ちるけど、そんなもの彼女に届くわけがない。みんなあたしの独り相撲だ。でも、考えてみればあたしと沓掛さんはいつもそうだったのかもしれない。ずっと届かない手を伸ばし続けていただけだったような――
「でも、『あなたみたいな人』だなんて、ひどいよ……。そんなこと……言わないで欲しかった、聞きたくなんて、なかったのに……。沓掛さん、だけには……っ」
思い出されるのは、中学のこと。たった一年だけ、彼女と同じ時間を過ごした日々のこと。
あの時のあたしにとって、沓掛紫苑は目の上のたんこぶであり、どうしても追いつけない目標のようなものであり、そしてなによりも憧れの存在だった。
だからあたしは、沓掛さん相手にも機会を見つけては何度も話しかけるようにしていた。孤高を貫く彼女の目が、こっちを向いてくれることだけを願って。王様の前で戯ける道化師みたいに。
だけど、そんなあたしの努力は一度も実を結ばなかった。転校していくまでの一年の間、彼女の目があたしを見ることは一度もなかったのだ。
――そして、せっかく再会できたというのに、沓掛さんがはじめてあたしに向けたまなざしは怒りと敵意に満ちたものでしかなかった。
その事実があたしの心に刃を刺す。抜けない刃が作り出した傷が、あたしに消えることのない痛みを与えてしまう。その痛みが、抗えない苦しみを。
耐えきれず、あたしはそのままタイルに膝をついてしまう。泣きじゃくるあたしの頭から降りかかるシャワーの温もりと、足に伝わってくるタイルの冷たさの異なるふたつの感覚が、ひとつしかない心をぐるぐるとかき混ぜてくる。
――そうして、どれくらいうずくまったままだっただろう。
「…………っ」
ずっと人工の雨に打たれるままだったあたしは、のろのろと頭を上げた。目を閉じて頭上を仰ぎ、熱い水流で頬の汚れを洗い流す。
本当に、どれくらいシャワーを浴び続けていたのかはわからないけど。いつの間にか冷えた身体はすっかり温まっているみたいだった。気づけば、冷たかった足下のタイルも温かくなっている。
のろのろと立ち上がったあたしは、そのままシャワーの当たらない位置に移動すると、犬みたいに頭をぶんぶんと振り回して髪の水分を払い飛ばした。
それからほっぺを思いっきりはたくと、
「勇気凜々夏凛ちゃん、ファイト、オー――ッッッ!!!」
いつもの合い言葉を叫んでみる。……少しだけ、すっきりした。
それを確認すると、あたしはコックをひねってシャワーを止める。とりあえずなんとか気分は切り替えられたから、このまま外に出ても問題はないはず。お母さんに心配させることはないからと、そのまま外に出た。
確かにあたしの浅はかな行動が他人を傷つけてしまったけれど。それをやり直すことも、なかったことにすることもできないけれど。
それでも、まだ心のどこかに諦められない――あたしを? それとも彼女を?――気持ちがあるのも確かだから。
「……『どんな思いを籠めたのかも知らないくせに』、だったっけ。いいじゃん、だったら知ればいいんでしょ。沓掛さんがどんな思いで、あの曲を作ったのかをさ」
不敵に笑ったつもりで、握り拳をてのひらに打ち付ける。まるで、宣戦布告したような気分で。
それから、「くしゅんっ」とくしゃみをひとつしてしまう。
「……湯冷めでもしたかな」
そんなことを呟きながら、あたしは慌ててバスタオルで身体を拭いて、お母さんの用意してくれた服に着替える。だけど、どうやら手遅れだったらしい。
翌朝になってしっかり熱を出してしまったあたしは、結局丸一日寝込んでしまうことになったのだった――(チャンチャン♪)




