9.最高の暇つぶし
「いってらっしゃい」と指をひらつかせ、青年は早々にどこかへと去っていった。
それを笑顔で見送るやいなや、アンティゴンは半ば引っ張るように、ミーティアを客人用の風呂がある部屋に連れていく。
扉に白い石がはめ込まれたその部屋は、先ほどまでいた部屋のすぐ隣だった。
「こちらのお部屋の手前側は、お着替えと身づくろいができるようになっております」
アンティゴンは、扉のすぐ前に取り付けられた長く重みのあるカーテンを閉めながら言う。
このカーテンは、知らずにだれかが扉を開けたとしても、即座に中が見えてしまうのを防ぐためのものなのだろう。
ずいぶんと細やかな点まで考えられていることに、ミーティアは感心した。
明るく清潔感のある部屋には、品の良い椅子とテーブル、服掛けとハンガー、そして大きな鏡台が置かれている。
「この鏡台の上のものは、すべて自由にお使いいただいて結構です。もし足りないものがあれば、何なりとお申し付けください。できる限り、ご希望のものは揃えるように努めますので」
そうは言うものの、すでに鏡台の上には、人が身だしなみを整える際に必要だと思われるものはほぼ揃っていた。
ブラシや、肌を整えるクリーム、お化粧用の白粉や頬紅、さらには髭剃り用のカミソリまである。
(でも端に置いてある、あれは何かしら……? 風車に形が似ているけど、持ち手がついているわ。置いてある場所から考えて、きっと身づくろいに関係するものに違いないけど……。あっ! そんなことより私、まずしなきゃいけないことがあるじゃない!)
「ここからが大事なのですが——」
「あの! “アンティゴン”様でよろしかったでしょうか?」
本格的な説明が始まる前に、あわててミーティアは口を挟んだ。
「ご挨拶が遅れてしまい、大変失礼しました。私はミーティア・シルフ・モディスゲートと申します。この度は、突然の訪問にも関わらずよくしていただいて……」
「まあ! 私のような者にもわざわざご挨拶いただけるなんて。こちらこそご無礼をお許しくださいませ。
おっしゃられる通り、私はアンティゴンと申します。でも、私への敬称はおやめくださいね。ほら、私は今ご主人様のお世話係でございましょう? その方の客人ならば、当然私を呼び捨てにしていただかないと。そうでないと、雰囲気が出ませんものね」
(雰囲気? そういう問題でもないような気がするけど……でも、要するに敬称は必要ないという意味よね?)
「わかりましたわ。アンズ……あ、アンティゴン、改めてよろしくお願いします」
「ほほほ、呼びづらい名前で申し訳ございません。こちらこそ、全力でお世話させていただきますので、よろしくお願いいたします。
さあさあ、ミーティア様! うちの自慢のお風呂を早くご覧になってくださいませ!」
アンティゴンは、声を弾ませながら部屋の奥にあった引き戸をガラリと開ける。
「わあ……!」
そこにあったのは想像を遥かにこえる、立派で贅沢なつくりの浴室だった。
5、6人は余裕で足を伸ばして入れると思われる浅く大きな木の葉型の湯ぶねには、真珠貝を模した注ぎ口から淡い青磁色をしたお湯が絶えず注ぎこまれている。
溢れたお湯は、少しだけ斜めになった床に沿って端に集まり、そのままどこか外へと流されているようだ。
湯ぶねの横には、小ぶりの丸いテーブルがあり、手おけと、貝殻の形をした可愛らしい石鹸、さらに体を洗うためのスポンジが置かれている。
アーチ型をした木製の高い天井には、太陽と月をモチーフにした美しい模様が刻まれており、そこにぽっかりと丸く空いた天窓からは、ちょうど三日月が顔をのぞかせていた。
「こちらの屋敷では、地中で温められた地下水、いわゆる温泉水をお風呂に利用しております。
いらっしゃったときは、すでに日が落ちておりましたのでご覧になれたか分かりませんが、ここは火山の近くなので、このようなことができるのですよ。
お湯の温度は人肌程度に調整しておりますので、お肌を傷めることなく寛いでいただけるはずです」
「まあ、そうなのですね! ご自分の屋敷に温泉を引いてらっしゃるなんて、他では聞いたことないですわ。こんな素敵なお風呂を使わせていただけるなんて夢のようです……!」
貴族であっても、自宅に専用の浴場をもっているところは数えるほどしかない。
自室で大きめのたらいを使い、お湯をちびちびと注ぎながら湯あみをするのが一般的だ。
ミーティアの暮らしていた城では、さすがに専用の部屋はあったが、そこの設備に関しては他とさして変わりはしなかった。
こんな贅沢に温泉水を利用して、さらに部屋や湯ぶねがここまで美しく整えられたものは、国中探しても他にはないだろう。
「ありがとうございます。これは、ご主人様と私が一緒に造り上げたもので、そのように言っていただけると大変嬉しゅうございます。
本当はたくさんの方にお試しになっていただきたいのですが、出来上がってすぐにご主人様が行方不明になってしまって……。なので、ここを使うのは、あなた様が初めてでございますよ」
そういうとアンティゴンは、なぜか射るような視線をミーティアに投げかける。
「——ミーティア様、あなたがここにいらした理由はわかっております。あなたもご主人様に助けてもらったのでしょう? あの方はお優しいですから。でも、それにつけこむものも少なくないので、私ちょっと心配で」
アンティゴンは、突如変わった空気に困惑するミーティアの頬を長い人差し指でツツとなであげた。
「そもそも、ご主人様が湯あみに拘られるようになったのも、あのような血生臭いことをさせられた悪しき名残でございます。本当にお可哀そうな方……。
残念ながら、私はあなた様がアノ人間たちとは違うという確信を、まだ持てておりません。もし、ご主人様を裏切り利用しようとするなら、私はあなた様を絶対に許さない。————それだけは、お心にお留め置きくださいね」
ミーティアは、地の底から聞こえてくるような凄みのある声色に体がすくみ、自分でも意識せずカタカタと体が震えるのを感じた。
その様子をみてアンティゴンは、にわかにオロオロとしだす。
「ああ、ごめんなさい! 脅すような言い方をしてしまって。そんな顔なさらないで……!
どうもご主人様のことになると、私ったら熱が入ってしまっていけませんね。今日会ったばかりのご令嬢に大変失礼な真似をいたしました。もうこの話は終わりにいたします。本当に申し訳ございません……」
心底申し訳なさそうなその様子に、ミーティアも緊張が少し解ける。
「えーっと、なんでしたっけ。そう! お風呂の使い方のご説明をさせていただかなければなりませんね——」
アンティゴンはわざとらしく、大きな咳払いをして強引に話を戻した。
「湯ぶねには、見ての通り常に新しいお湯が注がれておりますので、なかで石鹸を使うのは難しゅうございます。ですから、先にそとで髪や体を洗っていただいてから、お湯につかるのが一番よろしいでしょうね。
石鹸は二種類ございまして、御髪はこちら、それ以外はこちらをお使いください。スポンジも、固いものと柔らかいものをご用意しました。もちろん、どれも新品でございますよ。それを………………………………………………ああっ!!!」
「ど、どうかされましたか?!」
突然アンティゴンが大きな声をだすので、つられてこちらも声が大きくなる。
「はあああ…………。本当に今日の私は抜けてますね。
ミーティア様、貴族のご令嬢というのは、ご自身だけでは湯あみをなさらないのでしょう……? あなた様は貴族の、それもかなり高位の方とお見受けしました。……恥ずかしながら、私はそのようなことを手伝ったことがなく、考慮にいれるのをすっかり失念していた次第です。
手伝いが必要となると段取りが違ってまいりますよね。ちょっとご主人様に相談してまいります!」
「お、お待ちになってください!」
ミーティアは、今にも走り出さんばかりのアンティゴンの袖を慌てて掴む。
「それでしたら、心配はご無用ですわ。私、自分で全てできますもの」
「————本当でございますか? 私に気を使っているのではなく?」
ミーティアは、不安そうな顔にむけて『大丈夫だ』という気持ちを込めて力強く頷く。
むしろ手助けは、諸事情により絶対にして欲しくない。
「よかった……!」
しおれていたアンティゴンは、途端に晴れ晴れとした顔になり、先ほどまでもすでに早口だったところを、さらに速めてしゃべりだした。
「部屋の手前側に着替えを用意しておきますので、ご入浴後にお召しになってくださいね。——ああ、説明に時間を取りすぎてしまいました。それではどうぞ、ごゆるりと」
「ありがとうございます。ちなみに鏡台の上にある、あの風車のようなものは——」
そういってミーティアが横にいるはずのアンティゴンをみやると、すでにその姿はどこにもなかった。
(……え!? さっきまでここに……)
今までのことがすべて幻だった気がして、ミーティアは立ちすくんだ。
ただ、扉近くに取り付けられていたあのカーテンは、確かにそこを誰かが通ったことを裏付けるように、わずかに揺れていたのだった。
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