10.心と体、引っかかるもの(1)
一人その場に残されたミーティアは、いったん深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
アンティゴンの素早さにはビックリさせられたが、そもそも彼女が出て行ったことに気がつかないほど、自分がぼんやりしていたのかもしれない。
なにしろ今日は——といっても、もはやどこからが“今日”なのかわからないけれども——自分の人生において一番劇的なことが起きた日であるのは間違いないのだから。
(もしかして、これは全部夢? そうではないと言い切れる自信は……正直あまりないわ)
不安にかられ、頬をつねってみる。
「いたっ!」
即座に走る鈍い痛みが、これは現実だと冷静に告げる。
鏡台の前に移動して見ると、頬の方側がやや赤くなっていた。
(自分の顔を見るのは、ずいぶん久しぶりな気がするわ)
鏡の向こうからは、透き通るような茶色の瞳がこちらを見つめている。目にかかる濃く長い睫毛は、眦でピンと跳ね上がり、それが小さめの口と相まって、愛らしい子猫のようだと評されることも少なくない。
胸上まである、瞳の色に薄紅を流したような色合いの髪は、柔らかな質感であるがゆえに癖がつきやすいのが悩みどころ。現に今も、途中で髪挿をとって解いたとはいえ、髪をアップにしていた跡がくっきりと残っている。
(どうしようかしら。できれば髪も洗いたいけれど、乾かすのにも時間がかかるし……)
悩みながら、手で何気なく梳かしあげると、白い細かな花びらが数枚はらはらと落ちてきた。
「……いつの間に」
驚きつつも、庭に入るときにかき分けたユキヤナギのものだと、直ぐに思い当たる。
鏡台に置かれたブラシを手に取り、もう一度丁寧に梳かすと、さらに多くの花びらが舞い落ちてきた。思った以上に多くの花びらが紛れていたようだ。
(これはブラシだけでは取りきれないわ……。うん! やっぱり髪も洗わせてもらおう)
そうと決めたら、急がなくては。
淑女の身支度は、意外と時間がかかるのだ。
「よしっ!」
ミーティアは気合を入れ、首元のボタンを外すことから着手した。
◇
癒しの場へというよりは戦場に向かうような気持ちで挑んだおかげで、そこそこ着込んでいたはずのミーティアの体はあっという間に解放された。
「はあぁぁぁ、生き返るっ……!!」
重いドレスを脱ぎ、コルセットの締め付けが解け、生まれたままの姿になった体は、この上なく伸びやかだ。
軽々とした足取りで浴室に入ると、蒸気がぼわっと体を包んで「ようこそ」と迎え入れる。
ザァァァァという絶え間なく流れる湯の音が、高い天井にこだまし、お湯の内部に抱かれているかのようだ。
(よく分からないうちにここまで来てしまったけれど、せっかくだから楽しまなくちゃ。えっと、まずは体と髪を洗ってから……)
少々悩んだが、柔らかい方のスポンジを使うことに決めた。たっぷりとお湯を含ませ、いい匂いのする石鹸を擦り付ける。クシュクシュと手で優しく揉むと、すぐに虹色の泡がわきたった。
泡を纏ったスポンジを、首元から腕、胸へと丁寧に添わせ洗い上げる。
ピリリリリ……
腹部まで洗い進めたところで、皮膚がスポンジにひっかかる小さな音がした。
「……」
理由は十分すぎるほど分かってはいたが、それでも下を向いて確認せずにはいられない。
「夢、なわけないわね。これがあるんだもの」
ミーティアの胸元から腹部にかけてあるのは————
乙女の体にはおよそふさわしくない、大きくはっきりとした“傷跡”だ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。不定期な投稿で恐縮ですが、引き続きお楽しみいただけると幸いです。




