エピローグ:別れ
「ここ、お花置いておくから」
「ああ、有難う」
「具合はどう?」
「悪くはないな。一ヵ月もすれば退院できると先生も言っていたから」
「そう……良かったわ」
窓の外では、しんしんと雪が降っている。私は目線だけ動かして、加奈の姿を視界に捉えた。
「まさか、大晦日にこんな場所で過ごすことになるとはな」
「それはこっちの台詞」
「……すまない。迷惑かけて」
「ほんとよ。貴方にはきっちり反省してもらわないと」
加奈はうっすらと微笑んだが、目の下にできた隈が痛々しい。ここ数日、碌に眠れていないのだろう。私なんかよりむしろ、彼女の方が入院した方が良さそうだ。
あの夜、康に頭部を殴られた私は病院に救急搬送された。幸いなことに、特に後遺症が残るようなこともないという。医師が言うには、殴られたかけた際に反射的に頭を避けたことで、打ち所が悪くならずに済んだらしい。凶器がステッキという比較的軽いものだったことも不幸中の幸いだった。
一方で背後から不意打ちを受けたミヨ子は未だに昏睡状態が続いているそうだ。安城が毎日彼女を見舞っていることは、加奈から聞いて知っていた。
「考え直しては、もらえないだろうか」
「……ごめんなさい。それは無理よ」
「そうか。そりゃあそうだよな。あんなことがあったんだ」
私は力なく頷くしかなかった。加奈は相変わらず、泣き笑いのような表情のまま俯いている。
雪が降り積もる音が聞こえるような静けさが、この病室には横たわっている。
「……っと」
「え?」
「もっと早く、私に相談してくれれば良かったのに」
「本当に、お前の言う通りだ」
「馬鹿ね。怖かったの?浮気していると勘違いされることが」
「それもある。でも、それだけじゃない」
「浮気よりも知られて怖いことなんてないでしょ。何言ってるのよ、貴方」
「昔の自分――妻や子どもに暴力を振るっていた自分が知られるのが恐ろしかった。君だけじゃない。息子にも――康にも知られたくはなかった」
「私も、あの子には話すべきだった。貴方とも、もっとしっかり話すべきだった。そして貴方とあの子も、もっと分かり合うべきだった。表面上だけじゃなく、互いの芯の部分まで。こうなることが……分かってさえいれば……!」
その後の言葉は続かなかった。病室に響く加奈の嗚咽は、私の後悔を一層引き立て、やがて空気の中へと霧散していった。
ひとしきり涙を流した後、彼女は吹っ切れたように立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ帰るわ」
「そうか。次は――」
「実は、もう来ないつもりなの。あの子のこともあるし、これから忙しくなるから」
「……そうか」
「ごめんなさい。引越しの準備も済んでるから、気遣いは不要よ」
加奈は先ほどとは一転して笑顔を見せた。目にはまだ涙が滲んでいたが、その表情は晴れやかだった。
強いな、君は。
心の中だけで、そう呟く。
私は弱かった。加奈よりも、康よりも、誰よりも。
そのせいで、再び全て失った。
去り際、彼女はもう一度私を振り返った。
「でも不思議ね。何だか貴方、吹っ切れたような顔してるわ。まさか私と別れて清々してるっていうの?」
「冗談はやめてくれ。……でもまぁ、過去には踏ん切りがついたかな。少し代償が大きすぎたが」
「そう。何はともあれ良かったわ。じゃあ今度こそ」
「ああ。良いお年を」
「貴方こそ」
加奈は去っていった。後には何も残さず、気持ち良いくらい清々しく。
人気のない病室から、私は再び窓の外を眺めた。宵闇の中、部屋の中の灯りに照らされて、舞い散る雪たちが刹那姿を見せる。その儚い散りざまに、何故か心がきりきりと痛んだ。
康はまだ十七歳だ。少年法が適用されるため、死刑はない。
……だから何だ。裁きは法にのみ則って執行されるわけではない。今後あらゆる場面で、前科のついた康は苦労することになる。傷害事件の犯人としてのレッテルは一生ついて回る。加奈だって、加害者家族としての地獄のような責め苦を味わうことになるだろう。
首元に突き刺さるようなあの視線は、興信所ではなく息子から放たれたものだった。いつかミヨ子と入ったファミレスで、偶然姿を見られたらしい。確かに、ガラの悪い連中が入ってきた時があった記憶がある。あの中に息子も混じっていたとは、思いもよらなかった。
あの雨の日、康にも事情を話していれば、こんなことにはならなかったかもしれない。幾ら後悔しても、胸の内には茨の棘が食い込んだままだ。
安城も、二度と私とは口をきいてはくれまい。私も被害者とはいえ、ミヨ子が意識不明の重体に陥る一端は私も担っている。最大の親友だった男の目には、今や私の姿は憎むべき悪魔としてしか映っていない。
ミヨ子にしても、まさかこんなことになるとは想像もしていなかっただろう。自分が殺害のターゲットになり、あまつさえ頭を鈍器で殴られるなんて。その上彼女は未だに暗闇の底で深みから抜け出すことはできていない。……一生、陽の光を見ることが叶わないかもしれない。
誰もかれも傷を負った。それも、生半可ではない痕の残るようなひどい傷を。
私にしても、全てを失った。
家族を失い、親友を失った。恐らく職場も解雇されるだろう。
……それでも、過去からは解き放たれた。
何だか貴方、吹っ切れたような顔してるわ
その通りだ、加奈。
今まで、ずっとその幻影に怯えてきた。自分を憎んでいるんじゃないかと。恨みながら死んでいったのではないかと。
だが、それは私の勘違いだった。これほど大きな代償を払わなければ気づかないほど、私に親としての素質はなかったらしい。
皮肉なボタンの掛け違い。守りたかった息子は私を憎んで凶行に走り、見殺しにした娘にはすんでのところで助けられた。
見守ってくれてたんだな。ずっと。
気づいてやれなくて、済まなかった。
「……有難う、真希」
目を閉じると、目蓋の向こうで彼女がにっこりと微笑んだ。
これにて漸く完結です!ここまで読んで下さった方、お付き合い頂き本当に有難うございました。
少し分かりにくい部分もあるかと思うので、余計なお世話かと思いますが幾つか補足をさせて頂きます。わざと表現をぼかしたり、謎のまま残してある部分についても言及してしまうので、そういった「種明かし」を好まない方はこの後書きを読まない方が良いかと思います。
まずは「私」をつけ狙っていた視線の正体ですが、実は2人います。
最初の第5話や第9話での粘着質な視線はミヨ子のものですが、第12話からは「鋭い」視線に変化します。これは息子の康の視線です。このエピローグにも書いていますが、第12話でファミレスにてミヨ子と話す「私」を目にした康は、以後私の後をつけるようになります。彼の「私」に対する態度が徐々に変化していくのも、「私」が妻以外の女性と何度も出会っている場面をその目で目撃しているからです。
続いて、第11話での最後に「私」が康に投げかけた質問です。これは、康がガラの悪い連中と付き合っている理由にも関係しています。
結論から言えば、「自分と母親を捨てた父親を許す気はあるか」というのが康への質問の趣旨になります。「私」は過去に娘の真希を見捨てたことを負い目に感じており、真希は自分を恨んでいるのに違いないと思っています。しかし、仮に康の答えが「父親を恨んでいない」というものであったなら、もしかしたら真希も、私を恨んではいなかったかもしれない――主人公の弱さが生んだこの質問への康の答えは、残念ながら「私」をますます追い詰めるような内容だったわけですが。
そして康の人間関係ですが、彼が昔から付き合っている連中は、皆「親に捨てられた」経験をもつ子どもたちです。性格上のそりが合わなかったとしても、やはり同じ傷をもつ仲間たちといる時間は、康にとっては安らぎを与えていたのかもしれません。
そして最後に、真希の亡霊についてです。
真希は出現当初から「私」を指差し大声で何やら叫んでいるわけですが、これは「私」を恨んでいるわけではなく、「私」に背後に迫る危険を知らせようとしてくれていたわけです。前段の説明の通り、私をつけていたのはミヨ子と康の2人ですが、ミヨ子は何をしでかすか分からない危うさがありますし、康は自分を捨てた父親を非常に憎んでおり、実際に「私」をステッキで殴りつけてきます。
ミヨ子に姿が見えていなかったのは、彼女が親として認められていなかったためです。自分のことしか考えないミヨ子と異なり、「私」は弱い人間ではあるものの、愛情をもって真希に接してきました。皮肉なことに「私」はそのことを理解するまでに大きな代償を支払っていますが、「私」がもう少し勇気を出してさえいれば、こんな結末にはならなかったかもしれません。
最後になりますが、肚落ちしないような部分があれば、是非ご質問頂ければと思います。私の答えられる範囲内でお答えさせてもらえればと思います。
有難うございまいsた。




