1-5
ひどい匂いだった。
ここに近付く前から鼻での呼吸はやめていたが、口で息を吸うたびに、体の中にその匂いが染み込んでいくようで、軽い吐き気がした。
目の前にあるのは、蝿のたかる茶色い泥――ではなく、人間の糞尿の山だった。
ここに来るのも今日で三日目になるが、最初の一歩を踏み出すのにはまだ少し勇気がいる。
堀が完成したため、新たな作業を割り振られることにはなっていたが、本来なら、朱夏がいるのはこんなところではないはずだった。だが仕方がない。こうなることを承知の上で、テジたちとやり合うことを決めたのだから。
テジたちと乱闘になったのは三日前。結局、騒ぎに気付いたのか誰かが呼んできたのか、途中で上官がやって来たことにより、朱夏の仕返しは中断させられた。しかし、制止が入った時にはすでに、テジたちの中で立っていたのはあと一人になっていた。そこまでやったならまあいいかと思う気持ちと、どうせなら最後の一人までという気持ちと半々だったが、今となってはもう何もできない。
その場ですぐに、罰は言い渡された。それが今、朱夏の目前にあることだ。つまり、砦にいる人間たちから出る糞尿の処理をすることである。
寝るのも食べるのも空の下の、朱夏たちのような下っ端は、特に決まった場所もなく砦の外で用を足すが、砦の中にいる者たちは違う。砦のそばには、川から水を引いてきた水路があり、砦の中で用を足すと、そこへ落ちる仕組みになっている。また、その場所に行かず、桶などに用を足すことも多いが、それを捨てるのも同じ場所だ。
ある程度は水が流してくれるが、水路といっても地面を掘って、水が流れているだけの粗雑なものだから、川から流れてくる水量が減れば、ものは溜まる一方だ。今の朱夏の仕事は、それらを桶に入れて別の場所に捨てたり、砦から水路に落ちるその出口の詰まりを掻き出したりすることだった。
唯一よかったことといえば、朱夏がここへ来るその前日に、堀が完成したことである。堀に水を引いてからは、その中に用を足す者が増えたことで、こっちの水路に回ってくるものが減ったらしい。それでも、ひどい匂いと光景であることには変わりなかったが。
朱夏は櫂の柄を握り直すと、汚れがこびりついた砦の壁に近付き、一晩でできたその山に、櫂を寄せて押し出した。前任者――といっても朱夏と同じように何かしらの問題を起こした者だが、その男は朱夏がやって来た時、茶色い水路に素足を突っ込んで作業していた。が、朱夏はまだ、そこまで割り切ることはできなかった。
そもそも始めから、こんなことをしろと言われたわけではない。
三日前の夜、騒ぎを抑えた上官が、朱夏たちに命じたのは別のことだった。
「お前ら、イックグに行け」
朱夏の口の端は、殴られて赤黒く腫れていた。それに加えて、手足にはあちこちに擦過傷。さすがに四対一だと、無傷というわけにはいかなかった。
朱夏の顔から手足の傷に目を走らせ、テジたちも同じように見渡した上官は、有無を言わせぬ口調で続けた。
「そんなに力があり余ってるなら、先に前線に送ってやる。そこで存分に暴れればいい」
イックグというのは、オムジ山脈の中で宋重が拠点にしている、もとはタイゴの集落だった場所だ。
上官の言葉を聞いたテジたちの反応は二つに分かれた。五人のうち二人の表情には喜色が浮かんだが、あとの三人は頬を歪めている。前者は、毎日土を掘ったり丸太を運んだりする退屈な作業から、前線に行くことで解放されると思ったのだろう。後者はその内容よりも、それが罰として言い渡されるのが不服なのかもしれない。
朱夏はといえば、前線送りが果たして自分の利になるのかならないのか、それを考えていた。
「戈一から増援が来てイックグへ向かうのは四日後だ。それまでは……」
口を開いた上官が、まずテジたちを見る。
「お前たちは、牢獄の取り壊しを手伝え」
言い渡されたテジたちの顔が歪んだ。砦内にある北の牢獄はすでに使われておらず、敷地の中でも人の寄り付かない場所となっている。今回の砦の改修によって取り壊され、新たに鍛錬場となる予定らしいが、すでに取り壊した一部の壁の石塊には、苔や血の染みのようなものがこびりついていてかなり不気味らしい。それらを運び出す者の中には、体調不良を訴える者も少なくないという話だ。
次いで上官は、朱夏に視線を移す。
「お前は……西の城壁の外だ」
少し間を置いて口にされた命令に、朱夏は無表情を貫きつつも、内心首を捻った。西の城壁の外に何があるのか、すぐには思い出せなかったからだ。見張りでもさせるのかと思ったが、次に上官が発した言葉は、完全に朱夏の予想を裏切っていた。
「肥溜めの掃除だ」
「は……?」
思わず口がぽかんと開く。
「何だその間抜けな面は」
吐き捨てるように言った上官の顔をまじまじと見、先ほど告げられた内容が頭に染み込んでくる頃には、朱夏は唇を噛んでいた。
横目に映ったテジの顔に、歪んだ笑みが浮かんでいた。
「どうしてあたしが肥溜めの掃除なの?」
「なんですか、だ」
表情を変えないまま、低い声で上官が訂正する。
しかし朱夏は口調を改めないまま、上官を睨んだ。
「納得できない。元はそいつらのせいよ」
顎でテジたちを示したが、その途端、上官の目がすっと細められた。
「不満か?」
「…………」
「答えろ。不満なのか?」
「…………」
テジたちと殴りあった高揚がまたぶり返すのを、朱夏は必死に抑えた。これまでの経緯など一切聞かず、テジたちと同様に罰が下されること自体受け入れがたいのに、その罰が、食事抜きでも休みなしの労働でもなく、肥溜めに行けとは。ある意味、牢獄の取り壊しよりも悪い。
(どうして、あたしが)
テジたちを睨みたかったが、こらえて上官の顔だけを見ていた。受け入れるしかないことはわかっている。上官の右手が、剣の柄に触れていた。武器を持っている上官に逆らえば、この場で斬り殺されてもおかしくはない。
朱夏は怒りを抑え込んで命令を受け入れた。
その翌日から、朱夏は毎日ここに来ている。掘って出す。桶に入れて運ぶ。やっていることは堀を作っていた時と似たようなものだが、その不快指数は比べ物にならなかった。
でも、それも今日で終わりだ。肥溜めの掃除は、イックグに行くまでの言わばつなぎとして言い渡された罰だ。前任者はすでにおらず、朱夏もいなくなれば誰がここの仕事をやるのかとも思ったが、そこまで考えてやる義理はない。早々に思考を切り替えると、テジたちの顔を思い浮かべた桶の中に、櫂ですくった汚物を積み上げていった。
夕食時になると、耶治矛がこちらを見つけて近付いてきた。さすがに肥溜めで作業するようになってからは、毎日汚れを洗い落とすようにしていたが、そのためにこの三日、朱夏が配給食を受け取るのはいつも最後。用意されたものがなくなるぎりぎりになってしまっていた。耶治矛は朱夏を待つことはないが、その姿を見つけると、自分の残りを分けてくれたりした。三日前の夜から、テジたちとは一度も顔を合わせていない。
「よう。仲良くなった蝿とは、お別れしてきたか?」
「…………」
耶治矛の問いに、黙って体の向きを変えると、「おいおい」と、わざわざ回りこんできて正面に座る。今日はすでに食べ終えた後なのか、手ぶらだった。
「冗談だろうが」
その顔が苦笑を浮かべていた。
「耶治矛もあいつらと一緒か」
「一緒じゃねえよ。俺のは親しみがこもってるだろ」
「どうだか」
朱夏は無事に手に入れることができた――しかし少々貧相ではあるふかした芋を口に運んだ。
冷たくあしらったが、耶治矛の言葉に悪意がないのはわかっている。耶治矛は同じ五人組になってからずっと、朱夏を馬鹿にすることも、蔑むこともなかった。
そんな耶治矛との付き合いも、今日で終わりだ。
戈一からの援軍は、今日の昼間、すでに芭胃の砦に到着していた。今夜一晩休んで、明日の朝にはイックグに向けて発つことになっている。朱夏はそれに加わるのだ。そして、テジたちも。ちょっかいをかけてくることはもはやないだろうが、顔を見ていい気分にならないのは確かだろう。別の隊になることを祈るしかない。
「……ねえ」
「何だ?」
もそもそとした芋を飲み下すと、朱夏はこれまで、聞くのを我慢していたことを口にした。もう離れるのだから、多少怪しまれたところでいいかと思った。
「耶治矛は五年前、どこにいた?」
「五年前?」
唐突な質問に、耶治矛は少し考える様子を見せた。
「五年前っていやあ……たぶん……付馬で馬の世話でもしてたかな」
「馬の世話?」
「あん時は戦もなくて、やることがなかったんだよ。いや……戦がないこともなかったか。あん時は確か、列佳との戦が始まる頃だったか? どっちにしろ、付馬に召集はかからなかったからな」
「じゃあどこにかかったの?」
「たぶん……主に南側と、戈一周辺から少しずつ出させたんじゃないか?」
「戈一周辺って? 矢原とか、郷曽とか?」
「あと、埜的とかな」
南と、戈一周辺にある領地は、他にどこがあったか。少なくなくとも、耶治矛は列佳攻めには参加していないということだ。それがわかって、どこかほっとしている自分がいた。
「お前は何してた?」
「え?」
「五年前。お前の五年前っつったら、まだ十歳か」
「…………」
同じ問いを返されただけだが、朱夏が答えを口にするまでには、耶治矛よりも時間がかかった。覚えていなかったからでは、もちろんない。
見渡す限りの黄色い草原。日の光の匂いを運ぶ風。
全身が、焦がれている。
「……父さんと……母さんといた」
「五年前は、まだ生きてたのか」
耶治矛の問いに、こくりと頷いた。
「シッダと、追いかけっこしてた。矢己が来て……」
朱夏はそこで、口を閉じた。
そして――すべてを失った。
黙った朱夏に、耶治矛はその先を聞こうとはしなかった。話題を変えた。
「お前、戦場は初めてだろう」
「うん」
イックグに行っても、最前線に出されるのか、補給や伝令に回されるのかはまだわからないが。
「じゃあ俺からひとつ、助言しといてやる」
いいか、と耶治矛は身を乗り出した。
「危ないと思ったら、迷わず逃げるんだ」
ひどく真面目な顔をして告げた耶治矛に、突っ込んだらいいのか笑ったらいいのかわからず、わずかに首を傾げた。
「それが助言?」
「そうだ」
「冗談じゃなくて?」
「本気だ。だから今まで、俺はこうして生きてる」
「そりゃそう言われたら、説得力はあるけど」
これから戦場に行く人間に、「逃げろ」という助言は、果たしてどうなのだろう。
「お前は功を立てたいわけでも、争いが好きなわけでもないんだろ?」
「そうだけど……」
食いつなげればいいと、以前耶治矛にそう話したのは自分だ。本来の目的を隠すために言った適当な理由ではあったが。
「じゃあ、俺の助言が、お前の役に立つこともあるはずだ」
耶治矛は乗り出していた体を起こす。
一応は心配してくれている耶治矛を安心させようと思ったわけではないが、朱夏は言った。
「大丈夫だよ。死なないから」
「戦場をなめるなよ」
珍しく真面目な顔を続ける耶治矛に、朱夏はぽつりとこぼした。
「耶治矛は優しいね」
「何だいきなり」
朱夏に戦場で死ぬつもりなんてない。ましてやそれが宋重の兵士として、宋重のための戦でなんて、あり得ないことだ。耶治矛に言われるまでもなく、死にそうな事態に陥る前に逃げるだろう。その後また、新たに身を置く場所を探すのは面倒だが、死んでしまっては元も子もない。
実はイックグに送られる前に、ここを去ってしまおうかとも考えた。戦の前線に行ったところで、そこに自分が知りたいことがあるのかと問われれば、必ずしもそうではない気がしたからだ。命の危険がある前線に行かなくとも、他の場所で情報を集めればいいのではないかと。だが、そうはしなかった。
理由は、戦場での宋重軍がどういう思考回路で、どう動くのか、そしてそもそも戦場というもの自体を、見ておくのも悪くないかと思ったからだ。これまで紅里でも利布でも悲惨な光景は見てきたが、どちらも無抵抗な人々が一方的に虐げられるだけであって、国と国が、兵士と兵士がぶつかる場は、見たことがなかった。
宋重へ来た第一の目的は、紅里を襲った部隊を特定し、両親を殺したやつに復讐するためだが、その後、紅里に戻るという最終的な目標のために、列佳の国境を変えなければならないことを考えれば、いつかは戦という道を取ることがあるかもしれない。その時のために、戦というものがどんなものなのか、知っておくことは必要な気がした。イックグに行ってから、どう動くのが一番安全で、かつ周囲に怪しまれないのか、身の処し方は考えなければならないが。
とにかく。
「あたしは死なないよ。やらなきゃいけないことがあるから」
「……そうか」
耶治矛は肩をすくめた。
「そんじゃこれは、餞別だ」
懐を探り、腕を突き出してきた耶治矛に、芋を持っていないほうの手を出した。そこに落とされたのは、朱夏の拳よりも一回り小さい、橙色の実だった。
「何これ?」
「ビンジンだ。知らねえか?」
「知らない」
「うめえぞ」
「っていうかその前に、これどうしたの?」
手のひらの実を転がして、二本の指でつまむ。乾燥させていない生の果物なんて、この砦に来てからの配給食で出たことはない。
「もしかして……」
視線を向けた耶治矛が、にやりと笑う。
あきれた。
「いつかばれるよ」
「果物一つちょろまかしたくらいじゃ、肥溜め行きにはならねーよ」
「あっそう。じゃ、好きにしたら」
突き放すように言ったが、ここでの生活が最低ながらも耐えられるものに留まったのは、耶治矛の存在があったからだろう。
手の中の果実を軽く握ると、もう二度と会うことはないであろう男に、朱夏は心の中でそっと、礼を言った。




