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紅里の風  作者: 泉 五月
第二章
46/55

1-3

 

「おー、壮観壮観」


 堀に満ちていく水を眼下に、隣の耶治矛やちむが口笛を吹いた。朱夏しゅかもその隣にしゃがみ、同じようにかさを増していく水を眺めていた。

 朱夏を含め多くの人手を用い、ただただ土を掘り続けて十日以上。十分な深さと幅を得た堀に、今日初めて川の水を引いたのだ。水は堀の泥で濁り、きれいとは言いがたいが、砦として一段風格が上がったのは確かだった。堀の上には、ついさっきまで土を掘り返していた男たちがずらりと並んでいる。その顔に浮かぶのは、ようやく単調な作業から解放された安堵感や達成感、それでも拭いきれないわずかな疲労感、様々だった。朱夏自身が抱いたのは、これで一つ、宋重のためになることをしてしまったという徒労感だ。

 そんな中、堀を見下ろす男たちの向こうに嫌な姿を見つけて、朱夏は顔を眼下の堀に戻した。テジたちがこちらに向かって歩いてきていたのだ。気付かずにそのまま通り過ぎることを願っていたがしかし、それは叶わなかった。


「よお」


 かけられた声と同時に、どんと背中を押された。

 咄嗟に腕を前に出すが、目前に手をつく地面はない。しゃがんでいた足下のすぐ先は、堀の急斜面だった。


(落ちる……!)


 しかし、自分では止めようもなく傾いた体を――襟首を、がっと掴まれた。


「ぐっ!」


 自分の体の重みで、喉が詰まる。

 そのまま後ろに引っ張られて、一瞬前までしゃがんでいた場所に引き戻された。引き戻したのは、隣にいた耶治矛やちむだった。

 元いた場所で尻餅をついた朱夏の襟首から手を離すと、耶治矛は背後に立っていたテジたちを見上げた。


「お前ら、力加減の仕方もわかんねえのかよ」


 怒っている風でも、責めている風でもない。ただ呆れてたしなめているような口調だった。押した張本人であろうテジは、悪びれる様子もなく、にやにやしている。


「悪ぃ悪ぃ。加減したつもりだったんだが、こいつが思いのほか軽くてよ」


 朱夏は喉に食い込んだ服を引っ張り、咳払いをした。耶治矛やちむの反応が遅れていれば、間違いなく朱夏は、今頃頭から泥水の中に突っこんでいただろう。それを思うと、いつにも増して腹が立って、反応すまいと決めていたのに、テジを睨んでしまう。そんな朱夏の視線を受けたテジは、それでもにやけた表情を崩さない。その背後の取り巻きが、一様に同じ表情をしているのが、余計に神経を逆撫でする。


「そう睨むなよ。悪かったって言ってるだろ? それに、落ちたところで水の中だ。死ぬわけじゃねえし」

「じゃあ、あんたが落ちてみれば」

「おいおい、怒るなって。次からは気を付けるからよ」


 自分から仕掛けたくせに、煽るだけ煽って、テジはじゃあな、と取り巻きを連れて去っていく。

 その背中を見送った耶治矛が、朱夏を振り返った。


「次が、またあるみたいだぞ」

「…………」


 しょうもねえやつらだな、と耶治矛やちむがぼやく。

 本当に、うんざりする。どうしてあんな馬鹿がいるのだろう。

 もしも堀に落ちていれば、全身泥水に浸かり不快な思いをするのはもちろん、目上の者に見咎められれば、何か罰を与えられていたかもしれない。テジはもちろん、知らぬふりをするか、その前にこの場を離れていただろう。

 それがわかるから、反応すれば喜ばせるだけだとわかっているのに、今日はつい言い返してしまった。


「気を付けたほうがいいかもなぁ」

「何を?」


 まだ服が食い込んだ感触が残っている喉をさすっていると、耶治矛やちむが言葉の割にはのんびりした口調で続ける。


「最近あいつら、口だけじゃなく手が出てきてるだろ。これからもっとひどくなるかもしれねえぞ。暴力はもちろん……そうじゃないのもな」

「そうじゃないの?」

「ああ」

「そうじゃないのって?」

「俺に言わせるなよ」


 口を閉じた耶治矛やちむに、朱夏はしばらく考えたが、結局は首を捻った。そんな朱夏の顔を横目で見て、耶治矛がため息をついた。


「……お前、まだ半分子供だけど、一応女だろうが」

「…………え?」


 その言葉で、耶治矛が言わんとしたことはわかったものの、自分の身に置き換えた明確な想像にはつながらず、その横顔をまじまじと見つめた。


「それ本気?」

「お前……危機感ねえな」


 やれやれ、と肩を落とす耶治矛やちむの態度は、朱夏からすれば少なからず心外だった。

 なぜなら、殴られるのはともかく、耶治矛が言う「そうじゃないの」――つまり、自分が「女として襲われる」という可能性は、これまで考えたこともなかったからだ。

 確かに最近は、言葉でのからかいに加え、いきなり肩を抱いたり、背中を叩いたりという体への接触も増えてきた。不必要に距離を縮められたり、強い力で叩かれたりするたび、酔っ払いだと思えばいいと自分に言い聞かせてはいるが、宜安ぎあんの店で相手をしていた酔っ払いとは似ても似つかぬ図々しさと悪意の混入に、朱夏の中の苛立ちのかさは日に日に増している。だが、テジたちのそれは、決して朱夏の体そのものに何かを期待しているわけではないだろう。そうすることが、朱夏の神経を逆撫でするとわかっているからやっているだけだ。だから、その手段としてこれまでの行為が暴力に変わることは容易に想像ができても、朱夏を「女」と見なした上での嫌がらせに発展するという可能性には、今いちぴんとこなかった。

 しかし、耶治矛やちむはそうではないらしい。

 片方の膝から下を、堀の斜面にぶら下げた耶治矛を見る。


「こんなこと、あんたに聞きたくもないんだけど……」

「じゃあ聞くなよ」

「あたしでも、そういう対象になるの?」

「結局聞くのかよ……」


 耶治矛やちむはため息をついた。

 元々これまでの生活で、自分の性を意識することもあまりなかったが、男と女の体が違うことは当然知っているし、その違う部分を見せることが恥ずかしいと思う程度の恥じらいはある。宜安ぎあんの酒場では看板娘と呼ばれ、「女の子」であることが彼らの懐に入りやすくしたのは事実だが、軍隊の――戦いの場においては、逆にそれだけでなめられることもある。今まさに、テジたちが朱夏をそう扱っているように。

 それでもまさか、自分を「女」と見なした上での嫌がらせをしてくるやつが出てこようとは思っていなかった。キスパでろくに狩りができなかった時に比べれば、体にも多少の肉は付いたし、男女間の営みに関して何の知識もない子供でもない。今の環境も以前身を置いていた宜安ぎあんの酒場も、周りは男だらけでそういう話題を耳にすることは少なくなかった。だが朱夏は、自分の体に平均的な女性らしさが備わっているとは思っていなかったし、それ以前に、今は小汚い。周りの男たちと同じく、ここに来てからは一度も体を洗っていないし、用をたす後ろ姿を見られることなんてしょっちゅうだ。そんなことで恥ずかしがる神経を持ったままなら、到底やっていけない。

 それなのに、やつらがからかい以上の意味で、朱夏に手を出してくることがあるのだろうか。


「まあ、俺からすりゃ、妹と同じ年頃のお前にちょっかいかける気にはなんねえし、第一俺はもっとこう……ぼいんとしたのが好きだしな。……睨むなよ。俺の好みを言っただけだろ」


 耶治矛やちむは朱夏の視線を避けるでもなく、言い返す。

 朱夏は自分の体つきに対して女らしさは求めていないし、どちらかといえばもっと男らしい逞しさが欲しいと思っている。だから耶治矛に冷めた眼差しを送ったのは、朱夏の体に女らしさが足りないと言われたことに対してではなく、まじめな話をしているのに、耶治矛の口元が緩んだことにいらっとしたからだ。おそらく、その好みの女の体でも想像したのだろう。


「だけどなあ……ここには女自体少ねえし。お前みてえな、ちょっとまだ小せえかなってのでも、対象に入るやつはいるだろうな」


 耶治矛は背後で地面についていた手を体の前に持ってくると、手のひらに付いていた土を落とす。


「まあ、あいつらをかばうわけじゃねえが。あいつらは、あれでも行儀がいいほうだと思うぞ。宋重の軍じゃあまり見たこたねえが、本当に下種なやつらなら、お前なんか入ったその日におもちゃにされて、ぽいだ」


 想像したくもない場景に、眉間にしわが寄る。耶治矛も朱夏のその表情には気付いているようだったが、そこで話をやめることはなかった。


「でも、これまでそうしなかったところを見ると、あいつらにとってもお前は対象外だし、そこまでしてお前をいたぶるつもりもなかったんだろ。ただこれからはどうなるか……。これまでのお前の態度が、逆にやつらの嗜虐心をくすぐっちまってるって可能性もある」

「じゃあ何、やり返したほうがいいってこと?」


 これまで我慢していたことが無駄だったというような耶治矛やちむの意見に、声を尖らせる。しかし耶治矛は、土を払った手で首を掻くと、変わらない口調で返してきた。


「それも、どうだろうなぁ」

「何で」

「テジ一人ならともかく、取り巻き含めて全員、お前一人で相手ができんのか?」

「…………」

「俺は矢原やばるの試験でお前の立ち合い見てるから、お前が見た目よりもできるやつだってのは知ってる。でも、男五人を相手にってなると、ちょっと苦しいんじゃねえか?」


 耶治矛の言うとおりだ。さすがに自分一人で、大の男五人に対抗するのは厳しいかもしれない。


「逃げたくなったか?」


 顔をしかめたままの朱夏に、耶治矛やちむが尋ねる。


「何でよ。あいつらが何をしてきたって、ある程度のことは我慢できる」

「…………」

「それにここに来てから、自分でさえ、自分が女だってことはほとんど忘れてたくらいなんだから。あいつらだって、よほど頭がおかしくならなければ、あたし相手に盛ってなんかこないでしょ」


 朱夏の言葉に、耶治矛が何か言いたげな顔をした。


「何よ」

「別に……女の身で兵士になることが悪いとか言うつもりはねえけどよ」


 耶治矛はそう断った上で、言いにくそうに続けた。


「お前はまだ女っつーより、女の子だが……。むかつくことはむかつくし、恥ずかしいことは恥ずかしいだろ。そういうことを無理矢理無視すれば、自分じゃ気付かねえうちに、自分を追い込むことになるぞ」

「何か、まともな大人みたいなこと言うね」

「まともかどうかはともかく、お前よりは大人だよ」


 耶治矛やちむは照れ隠しなのか、それとも本当にかゆいのか、頭をがしがしと掻く。


「それに、自分が女だと自覚しとくことで、避けられる危険もある。お前がどれだけ男っぽく振舞ったとしても、お前が女かどうかを決めるのはお前じゃない。周りの目だからな」

「…………」


 確かに、耶治矛の言うことにも一理ある。

 それでも、女だと意識すれば気にすることは余計に増えるし、今の朱夏にとっては邪魔なだけだ。今は自分の性を意識しないほうが、はるかに過ごしやすい。それで心の均衡を崩すほど、やわじゃないとも思っている。

 さすがに、本当に襲われたりする事態になれば、黙って耐えてやるつもりはない。万が一見咎められて罰を受けることになっても、あんなやつらに蹂躙されるよりはましだ。当初の「目立たない」という目標からははずれることになるが、そこまでくれば仕方がない。


(でもそうなった時は必ず、テジに言い逃れはさせない。自分と同じか、それ以上の罰を負わせてやる)


「……何考えてる?」

「え?」

「怖ぇ顔してるぞ」


 だるそうな瞼は何も見ていないようで、わずかな変化を見逃さない。耶治矛にはまるで、朱夏の考えていることがわかっているかのようだった。弟妹が多いことが、耶治矛に人の心の機微に対する鋭さを与えたのだろうか。

 もしもあいつらに殴られたら、耶治矛は今日のように、朱夏を助けるだろうか。

 ついさっき、耶治矛のおかげで堀の泥水に落ちなかったことは感謝している。だが今後も、こういうことが続くのだとしたら。

 これからも、耶治矛と関わることがいいことなのか悪いことなのか、今の朱夏にはわからなかった。


「ま、年長者の意見だ。受け入れるかどうかはともかく、覚えとけ」

「……わかった」


 そろそろ、水の引き入れも終わりそうだった。

 よっこらしょ、と立ち上がり伸びをする耶治矛のはるか向こうで、空が赤くなり始めていた。




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