1-1 芭胃
「おーい。休憩だ」
遠くで聞こえた声に、朱夏は曲げていた腰を久々に伸ばした。
「やっとか」
「全然進んだ気がしねえな」
口々に言いながら、少しずつ離れたところで作業していた男たちが、持っていた道具を放り出したり、伸びをしたりしている。
朱夏も持っていた鍬を足下に突き立てると、両手の指を組んで頭上に伸ばした。朱夏のちょうど目の高さに地面があった。前に休憩した時は肩のあたりだったから、多少は進んでいるみたいだが、深さも幅も、まだ全然足りていない。
朱夏は今、自分で掘った穴の中にいた。正確には、未完成の堀の中だ。周囲には、朱夏と同じ作業をしている男たちがたくさんいる。ここ数日、朱夏はずっと、土を掘り返している。
「おら、飲むか」
頭上から降ってきた声に振り仰ぐと、穴の縁に耶治矛がしゃがんでいた。その手に木の椀を持っている。土で汚れた腕に水の滴が伝い落ちていた。
「いい。まだ自分のがある」
朱夏は穴から出ないまま答えると、自分の腰に下げていた木の水筒を持ち上げた。栓を抜いて傾けると、水が喉を通り、体の中に染み渡っていくのがはっきりとわかる。耶治矛も持ってきた椀の水を自分で飲み干すと、口元を拭ってぼやいた。
「にしても、こーも毎日穴掘りじゃ、退屈だよなあ」
「文句言ってもしょうがないでしょ」
「そりゃわかってんだが……こういう単調な作業は、俺ぁ向いてないんだよ」
「そんなの知らないよ」
朱夏は水筒を腰帯に結び直すと、その場に座り、自分が削ったむき出しの土壁に背中を預けた。休憩はそう長くない。休める時に、体を休めておかなければ。
朱夏たちのように堀づくりに回された者の他にも、橋をつくる者、壁の補強をする者、食料を保管する貯蔵庫の増築をする者など、今砦の中では、いたるところで大勢の人間が働いていた。
万理を旅立ち、列佳をも後にした朱夏は今、宋重の西端、芭胃の砦にいた。宋重の西端といっても、少し前までは別の国の領土だったところだ。
国境を越える商隊と一緒に、列佳の西の隣国、計磨を経由して宋重に入った朱夏は、宋重の軍の登用試験を受けて、兵士になっていた。
まず第一に、五年前のあの日、紅里を焼いた部隊を特定したかったからだ。それを知るにはやはり、当事者である軍に入り込むのが一番手っ取り早い。それに、もし宋重の軍の指揮系統や弱点が少しでもわかれば、いつか列佳と宋重が戦になった時に、役立つことがあるかもしれないと思ったからだ。
軍に関係する場所で――たとえば城や、軍関係者の屋敷の下働きになることも考えたが、そういう場所で働く人間は、たとえ下働きでも身元がしっかりしていないと雇ってもらえない。宋重に朱夏の身元を保証してくれる知り合いはいないし、そもそも正直に列佳出身だと言うつもりもなかったため、口だけで説明する偽の経歴が、どれだけ信用されるのかが疑問だった。
一方で、宋重の軍においてその門戸は広かった。年に一、二回、各地で登用試験があり、その参加資格は特に設けられていない。年齢も性別も、出自さえ問われないのだ。しかし、入った後の世界は徹底した実力主義らしいというのも、同時に耳にした噂だった。
試験を受けに行った朱夏は、その性別と年齢からだいぶ珍しがられたが、門前払いされることもなく、試験への参加を認められた。そして、合格した。
試験といっても、大して厳しい選抜があったわけではない。参加者同士を戦わせ、二回勝ち上がった者は自動的に、負けた者でも試験官が見込みありと判断すれば採用となった。ある一定の基準が設けられ、体力的、技術的にそれを上回っているかどうかを見られるのかと思っていたが、そういうものは一切なかった。
試験においてはただ一つ、相手を死に至らしめないという決まりのほかには、武器も戦い方も問われなかった。一対一の戦いにおいては、キスパの山の中で、下央や微申に嫌というほど鍛えられている。始まる前こそ多少の不安はあったが、それほど手こずることもなく、朱夏は二回勝つことができた。朱夏の見た目に、相手が油断したことも一つの要因かもしれない。侮られることは不快だったが、結果を見れば腹を立てるより、むしろありがたいと思うべきかもしれなかった。
試験は宋重の城都、戈一にそう遠くない矢原で行われたが、そこで採用された者はみな、現在の戦の最前線にほど近い、芭胃の砦に送られた。列佳との戦から五年、宋重の目下の標的は、西に位置するタイゴという山岳国家だった。
タイゴとの戦の前に、宋重は隣接していた安芭という国を滅ぼしている。属国となった列佳とは違い、国の存在そのものを消された安芭だったが、その敗戦間際、安芭は幼い王子を城の外へ逃がしていた。その王子が向かった先が、タイゴである。宋重はタイゴに王子の引き渡しを求めたが、タイゴ側がそれに応じなかったため、今度はタイゴとの戦が始まったらしい。
タイゴはキスパ山脈よりも一回り小さなオムジ山脈に根付いた民族国家で、国が擁する兵士の数はそう多くないが、その地形を生かした戦術で、宋重の大軍相手に一年近く戦を続けているという。長期化する戦に、補給の利便性や兵士の増員を考えた宋重は、元々あった古い砦を強化し、新たな拠点とすることにした。それが今、朱夏のいる芭胃の砦だ。安芭が滅ぼされる前は、安芭とタイゴは目立った交友もなければ争いもない、ある意味平和な関係だったようだ。つまり芭胃の砦は、形だけで大した役割は与えられていなかったらしく、あちこちが古いまま修繕されていなかったり、いざ実戦となると守りに不安な部分が多数あった。
タイゴとの戦が長引いている原因の一つは、タイゴが北の山脈に位置しているということが大きい。夏の終わりに戦が始まり、冬を迎える前に、宋重は南の裾野にあるタイゴの集落の一つを手中に入れ、山中に拠点を得た。が、冬になると雪と寒さのせいで、休戦を余儀なくされた。しかし、タイゴ側はそうではなかった。彼らは雪の降る山中を自在に動き回り、宋重の斥候をことごとく排した上、山のいたるところに大量の罠を仕掛けていたのだ。雪が解けていざ本砦へと意気込んだ宋重側は、その罠に大いに気勢をそがれることとなったのである。
さすがにまた一年と戦を長引かせたくはないのだろう。朱夏のように芭胃に送られた兵士たちは他にもたくさんいた。その一部は、さらに前線の山中の集落に向かったようだが、朱夏たち矢原から来た新兵の多くは、芭胃で砦の修繕と強化を命じられた。そんなわけで朱夏は、ここ数日、ずっと堀を掘っているというわけだ。
芭胃の砦には元々城壁はあったが、堀はなかった。そこで、壁の外に堀を廻らせ、川の水を引くことで、さらに要塞としての機能を高めるらしい。今のところ、タイゴ側に山を出て宋重を攻撃しようとする気配はないらしいが、今後タイゴだけでなく、西方に向けて睨みをきかせるためにも、砦の強化は必要なのだろう。
「しかしよ」
頭上から声が降ってくる。
顔を上げると、他に話す相手がいないのか、空の椀を持った耶治矛がまだ堀の縁にしゃがんでいた。
「お前だって、穴掘るために兵士になったわけじゃねえだろ」
「食べるものがもらえるなら、あたしは穴掘りでも何でもいいよ」
「っかー、冷めてるねえ」
耶治矛がつまらなそうに言う。
朱夏は自分が兵士になった理由を誰かに聞かれた時、いつも食いつなぐためだと説明していた。親はすでに死んだと言うと、相手もそれ以上深くは聞いてこない。朱夏と似たような理由で兵士になる者は決して少なくなかったし、いくつか情報を与えれば、あとは相手が勝手にこれまでの境遇を想像してくれる。茗野の噂の時と一緒だ。
十五歳の少女という点では、兵士たちの中で朱夏はかなり珍しく、最初こそ話しかけてくる男たちも多かったが、朱夏がそっけない態度を取り続けていると、次第に話しかけてくる者も減ってきた。宜安の酒場の時とは違って、朱夏はここで、誰とも親しくなるつもりはなかった。
しかしそんな中でも、変わらず声をかけてくるのが耶治矛だった。耶治矛は宋重の中でも、北のはずれの小さな村の出身らしいが、兵士になったのは家を出て、自分の分の食い扶持を減らすためだったらしい。耶治矛には、年の離れた四人の弟と妹がいるそうだ。今はもう、村を出て十年になる。――ということを、朱夏が聞いてもいないのに話してきた。ちなみに、何で朱夏を構うのかという理由については、
「やっぱ小っちぇー弟と妹がいるからかなぁ。なんつーか、お前みてえなの、ほっとけねえんだよなあ……親心っつうの?」
などと言っていた。二番目の弟が、朱夏と同じ歳らしい。ちなみに耶治矛は老けているのかどうかわからないが、どう見ても三十ぐらいだ。引っつめ髪に、面長でいつもだるそうに開かれた目は、とても兵士として十年生き延びたようには見えないが、現にこうして五体満足でぴんぴんしているのだから、それなりにうまく切り抜けてきたのだろう。ただ、十年もやっていてまだ兵士になりたての朱夏と一緒に堀を掘っていることを思えば、あまり優秀とは言えないのかもしれない。そのあたりは、詳しく聞いていないからわからないが。
「退屈なら、前線行きに志願したらいいじゃない」
「馬鹿やろう。俺なんかが前線行ったら、一瞬で消されちまうっつーの。お前タイゴなめてんだろ。うち相手に一年も互角に戦ってる化物の集団だぞ」
「じゃあ何がしたいの」
「前線まで食料運ぶとか、砦の補強にしたって、食料倉の増築のほうとかな」
「盗み食いしたら三日間縛り付けられた後、堀づくりよりつまんない重労働が待ってるんじゃないの?」
「そこはお前、十年の経験が生きるとこだろ。そうやすやすと気付かれるようなまねはしねえよ」
「あんた……一体十年何してきたの?」
朱夏が呆れると、褒めてもいないのに耶治矛が得意げに笑った。
休憩が終わってからも、黙々と土を掘り、掘った土を運んでを繰り返しているうちに、いつのまにか日暮れを迎えていた。
配給場所に並び、日が沈みきる前にその日の夜ご飯を受け取る。所々に焚かれる火の周りに集まって、それぞれの身の上話や、怖いもの知らずが披露する上官の物真似を聞きながら、少ない食事を胃に収める。
兵士となった者は、普段から五人組を組まされていて、作業にあたる時も戦をするときも、その五人組が行動の基本となる。ただ、このように組を作るのは、指揮系統を整理し、作業の効率や戦時の生存率を上げるためであって、決して互いを見張らせ、誰かが逃げたり失敗した時に連帯責任を取らせるというような鎖の意味はない。入る門戸が広ければ、去る門も開けっ放しというのが、宋重軍の極めて特殊な特徴だった。なぜなら、逃げる者を引き止めたところで、軍には百害あって一利なし、というのが宋重の考え方だからだ。恐怖や怠惰は伝染する。弱い者は去ればいい。ただ、一度離れた者は、二度と受け入れない。
人数が欠けた組は、他の同じような組と合わせて再編成されることもあれば、新たな人員補充があるまでそのままのこともあった。だが、元々離反率はそう高くないらしい。なぜなら第一に、宋重の兵士は、志願兵の割合が高かった。徴兵された者ももちろんいるが、宋重は今やちょっとやそっとじゃ傾かない強大国であり、働けばそれなりの見返りが与えられる保障がある。死にさえしなければ、食いっぱぐれることもない。第二に、去る理由が何にせよ、その後自分に向けられる侮蔑や同情を思えば、去る足も鈍るというものだ。万が一にでも敵国の間者と疑われ追われるようなことになれば、それこそ命はない。
作業時間以外の行動まで義務付けられているわけではないが、作業内容や行動範囲が同じため、自然焚き火を囲むのも、その五人が揃うことが多い。気温が下がる夜は、焚き火の周りに多くの人間が集まってくるが、同じ焚き火を囲むのは、その五人を含め、だいたいが見知った顔になっていた。
「しけたメシだなあ」
「前線のやつらは、もっといいもん食ってんだろうな」
「でも、食えたところで明日は死体かもしんねーぜ」
「あー……酒が飲みてえ」
ぶつくさと愚痴をこぼす男たちの会話を聞きながら、朱夏も木の皮のような干し肉を食べていた。焚き火の火からは遠く薄暗いが、気配を消して周りの話に耳をそばだてるのには、それぐらいの距離がちょうどいい。
「今日補給から帰ってきたやつらの話が聞こえたんだけどな。前線に行ったやつら、しょっぱなから苦戦してるらしいぞ」
「まあ、タイゴのやつらにとっちゃ、オムジの山は自分の庭みたいなもんだからな」
「でも、この一年でそれを重々わかった上で、タイゴ攻めを再開したんじゃないのか?」
「やつらの力がまだ想像を超えてるってことだろ」
「戦士は厄介だよなぁ」
「戦士?」
「ああ。あいつらは、戦で戦う男たちのことを、兵士じゃなく〈戦士〉って言ってんだ。その中でも一目置かれてるのが、長の息子のヨルヒと、甥のマッカルってやつらしい。実際この二人が指揮する隊があちこちに出没しては、こっちの軍をめちゃくちゃにしてくれてるらしいからな」
民族国家であるタイゴは、その頂点に立つ者を王ではなく単なる〈長〉と呼ぶらしい。そして長になれるのは、戦士全員から認められた〈大戦士〉だけだという。
「でも、それを言うなら、うちも今回〈不死身の男〉が来たから大丈夫だろ」
「〈不死身の男〉?」
「知らねえのか?」
尋ねた男に、その名を口にした男が説明する。
「〈不死身の汪路〉。二度も瀕死の重傷を負って生死の境をさ迷って、二度とも生き返ってきたって男だ。将軍の地位をもらうのも近いって言われてる。今回から、タイゴ攻めに参加してるって話だ」
「へえ。そりゃいいや」
「それにこの砦の補強が終われば、いずれ俺らもイックグに行くことになるだろ」
「やっと腕の見せ所かよ。毎日毎日堀の中で、腐っちまうとこだったぜ」
「お前なんか行ったところで、一瞬で戦士とやらにやられちまうぞ」
「何ぃ? 言うじゃねえか。賭けるか?」
「馬鹿。死んじまったらお前のぶん、誰が金を払うんだよ」
火を囲んだ男たちが、野太い笑い声を上げる。
タイゴの戦士は冬でも上半身裸らしい、マッカルの胸板は厚い筋肉に覆われ矢を通さないらしい、などと、どう考えても度を過ぎた誇張と思える噂話に話の矛先が向かうにつれ、朱夏の意識も焚き火の会話から離れていった。
周りの会話を聞くともなしに残りわずかな干し肉を租借していると、足下に影がかかった。
「よお。まだへばってなかったのか」




