3-10
長い時間ずっと、ラングル川の向こうの地平線を見つめていた。
太陽はほぼ沈み、山も草もその色をかすませて、ただじっと夜が訪れるのを待っている。
朱夏も待っていた。理解が訪れる時を。
だが、いくら考えても、考えるのをやめて頭をからっぽにしてみても、矢己の言うことは理解できなかった。
矢己は、自分とは違うと言った。
朱夏は死んでもいいと思っている。だが自分は違うと。だから、朱夏は駄目で矢己はいいのだと。
(――わからない)
何がいけないのだ。死ぬ覚悟がなくて、一体何ができるというのだ。
繰り返す自問自答に疲れて、朱夏は投げやりなため息をつくと、桟橋の上に仰向けになった。
右手を、こめかみに当てる。額には、あの夜兵士に斬られた傷がまだ残っている。普段は髪で隠れているが、そこには指先ほどの、小さな傷跡がまだあった。きっとこれからも消えないだろう。
いっそあの時、自分も死んでいたらよかったのかもしれない。兵士に殴られた時に、朋朱と一緒に、斬られて。そうすれば、こんな悲しみも、苦しみも、憎しみすら生まれなかった。楽しい思い出だけを抱えて、短くても幸せな人生で終われたのに。
そういえばこれまで、死のうと思ったことはなかった。復讐が叶うなら刺し違えてもいいと思うことはあったが、自ら進んで命を絶とうと思ったことは一度もない。考えてみれば不思議だ。それほど、憎しみが強かったということだろうか。
この憎しみは、異常なのだろうか。普通の人は、忘れるのだろうか。時が経つにつれ、許せるのだろうか。
とてもそうは思えない。
傷跡に触れていた手を、体の横に投げ出した。
――帰りたい、と思った。
紅里のあの家に帰りたい。
父さんと母さんに会いたい。
シッダに会いたい。
紅里の草原で、乾いた風を胸いっぱいに吸い込んで、思い切り競争したい。
「かあさん……」
朋朱の歌が聞きたい。
公衛の穏やかな目の色が見たい。
シッダの匂いを嗅ぎたい。
何もかも、昔に戻りたい。
両目から涙が溢れてきた。
空が滲む。涙が耳に入って濁った音がする。
顔の上で腕を交差させた。
大声を出して泣きたい。
でもそうしたら矢己に聞こえてしまう。あれだけ言ってもどうせ矢己は、畑の向こうで待っている。
けれど矢己だって、朱夏の気持ちをわかってくれないのだ。
喉が痛い。寂しい。苦しい。
夜空に向かってひたすら、朱夏は声にならない声を上げ、泣いた。
どれだけそうしていたのかわからない。
涙が枯れて出なくなった頃、両腕を体の横に投げ出した。頭は妙にすっきりしていた。
いつの間にか、月が高い位置に昇っていた。
帰ろう、と思った。
山の家にではない。
紅里に。
紅里に帰ろう。
ここではもう、何もできない。
これからのことは、紅里に帰って、そこでまた考えればいい。
茗野を助ける手段を。宋重に復讐する手段を。
何もしないなんてことは考えられない。
じゃないとこの憎しみは消えない。
ただ、周りに反対され、途斗とも言い合ったまま別れ、反宋軍に入ることはおそらくもうできないのだから、他の方法を探すしかない。
頬を拭って体を起こすと、桟橋の先端まで行き、そこから足を垂らした。
紅里に帰るには、目の前のラングル川を渡らなければならない。だが、橋がある場所は村の入り口に近く、周りからもよく見える。
朱夏はもう、利布に留まる気は一筋もなかった。止められても、どんな手段を使っても出て行く気でいる。それなら、誰かに見られる危険を冒すより、最初から身一つで川を渡ってしまったほうがわずらわしさがない。
氾濫の時期は過ぎたから、そこまで流れは速くない。真ん中あたりはかなり深いだろうが、少しだけなら息を止めればいい。
帯の上に巻いた飾り紐の結び目を、触って確かめる。心を決めると、そっと桟橋から体を下ろした。一気に腰の辺りまで水に浸かる。水はそこまで冷たくなかったが、体を押す勢いは思いのほか強かった。足を踏み出す度に、少しずつ、下流のほうへ斜めに進んでいく。
半ばに差し掛かるあたりで、すでに水の深さは肩のあたりにまできていた。じっと立っていることができない。少しでも体の力を抜くと、あっという間に流されてしまいそうだった。
大幅に下流に押されながらも足を進めていると、急に体がぐらついた。それまで地面があった深さに、それがなかった。
「……!」
水に飲まれる。体が横になり、勢いに流れされて体を起こすことができない。頭まで水に浸かり、やっと顔を出せたと思ったらまたすぐに沈む。
(まずい……!)
水の勢いに押されながら、必死に体勢を立て直そうとする。
落ち着け。泳げばいい。半分は来ていたのだから、少しだけ足掻けば、足がついて顔が出る場所にたどり着く。とりあえず手を動かせ。足を動かせ。
混乱する頭で命令を出し、何度も浮き沈みを繰り返した。口に水が入り、飲み込み、咳き込んでまた沈む。
苦しい。
咄嗟に矢己の顔が浮かんだ。名前を呼ぼうとして、開いた口に水が流れ込んできた。
しかしその時、必死に掻いていたその腕を、ぐいっと引っ張られた。
顔が水面から出て、求めていた空気にひゅっと喉が鳴る。咳き込み、吐いたぶんの空気をまた吸った。水から出た顔は、二度と沈むことがなかった。
「立て」
しばらく水の中を引っ張られた後で、そう言われた。
「……?」
「自分の足で立て。もうつくはずだ」
水中で流される足に力を入れると、言われたとおり、足の裏は川底を捉えた。深さは胸の下くらいになっていた。
片腕を支えられたまま、自由になる手で顔を拭うと、目の前にいたのは知らない男だった。




