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紅里の風  作者: 泉 五月
第一章
17/55

3-10

 

 長い時間ずっと、ラングル川の向こうの地平線を見つめていた。

 太陽はほぼ沈み、山も草もその色をかすませて、ただじっと夜が訪れるのを待っている。


 朱夏しゅかも待っていた。理解が訪れる時を。

 だが、いくら考えても、考えるのをやめて頭をからっぽにしてみても、矢己しきの言うことは理解できなかった。

 矢己しきは、自分とは違うと言った。

 朱夏しゅかは死んでもいいと思っている。だが自分は違うと。だから、朱夏は駄目で矢己はいいのだと。


(――わからない)


 何がいけないのだ。死ぬ覚悟がなくて、一体何ができるというのだ。

 繰り返す自問自答に疲れて、朱夏は投げやりなため息をつくと、桟橋の上に仰向けになった。

 右手を、こめかみに当てる。額には、あの夜兵士に斬られた傷がまだ残っている。普段は髪で隠れているが、そこには指先ほどの、小さな傷跡がまだあった。きっとこれからも消えないだろう。


 いっそあの時、自分も死んでいたらよかったのかもしれない。兵士に殴られた時に、朋朱ほうしゅと一緒に、斬られて。そうすれば、こんな悲しみも、苦しみも、憎しみすら生まれなかった。楽しい思い出だけを抱えて、短くても幸せな人生で終われたのに。


 そういえばこれまで、死のうと思ったことはなかった。復讐が叶うなら刺し違えてもいいと思うことはあったが、自ら進んで命を絶とうと思ったことは一度もない。考えてみれば不思議だ。それほど、憎しみが強かったということだろうか。

 この憎しみは、異常なのだろうか。普通の人は、忘れるのだろうか。時が経つにつれ、許せるのだろうか。

 とてもそうは思えない。

 傷跡に触れていた手を、体の横に投げ出した。


 ――帰りたい、と思った。

 紅里こうりのあの家に帰りたい。

 父さんと母さんに会いたい。

 シッダに会いたい。

 紅里の草原で、乾いた風を胸いっぱいに吸い込んで、思い切り競争したい。


「かあさん……」


 朋朱ほうしゅの歌が聞きたい。

 公衛こうえの穏やかな目の色が見たい。

 シッダの匂いを嗅ぎたい。

 何もかも、昔に戻りたい。


 両目から涙が溢れてきた。

 空が滲む。涙が耳に入って濁った音がする。

 顔の上で腕を交差させた。

 大声を出して泣きたい。

 でもそうしたら矢己しきに聞こえてしまう。あれだけ言ってもどうせ矢己は、畑の向こうで待っている。

 けれど矢己しきだって、朱夏しゅかの気持ちをわかってくれないのだ。

 喉が痛い。寂しい。苦しい。


 夜空に向かってひたすら、朱夏は声にならない声を上げ、泣いた。




 どれだけそうしていたのかわからない。

 涙が枯れて出なくなった頃、両腕を体の横に投げ出した。頭は妙にすっきりしていた。

 いつの間にか、月が高い位置に昇っていた。


 帰ろう、と思った。

 山の家にではない。

 紅里こうりに。

 紅里に帰ろう。

 ここではもう、何もできない。


 これからのことは、紅里に帰って、そこでまた考えればいい。

 茗野めいのを助ける手段を。宋重そうじゅうに復讐する手段を。

 何もしないなんてことは考えられない。

 じゃないとこの憎しみは消えない。

 ただ、周りに反対され、途斗とととも言い合ったまま別れ、反宋はんそう軍に入ることはおそらくもうできないのだから、他の方法を探すしかない。


 頬を拭って体を起こすと、桟橋の先端まで行き、そこから足を垂らした。

 紅里こうりに帰るには、目の前のラングル川を渡らなければならない。だが、橋がある場所は村の入り口に近く、周りからもよく見える。

 朱夏しゅかはもう、利布りぶに留まる気は一筋もなかった。止められても、どんな手段を使っても出て行く気でいる。それなら、誰かに見られる危険を冒すより、最初から身一つで川を渡ってしまったほうがわずらわしさがない。

 氾濫の時期は過ぎたから、そこまで流れは速くない。真ん中あたりはかなり深いだろうが、少しだけなら息を止めればいい。


 帯の上に巻いた飾り紐の結び目を、触って確かめる。心を決めると、そっと桟橋から体を下ろした。一気に腰の辺りまで水に浸かる。水はそこまで冷たくなかったが、体を押す勢いは思いのほか強かった。足を踏み出す度に、少しずつ、下流のほうへ斜めに進んでいく。

 半ばに差し掛かるあたりで、すでに水の深さは肩のあたりにまできていた。じっと立っていることができない。少しでも体の力を抜くと、あっという間に流されてしまいそうだった。

 大幅に下流に押されながらも足を進めていると、急に体がぐらついた。それまで地面があった深さに、それがなかった。


「……!」


 水に飲まれる。体が横になり、勢いに流れされて体を起こすことができない。頭まで水に浸かり、やっと顔を出せたと思ったらまたすぐに沈む。


(まずい……!)


 水の勢いに押されながら、必死に体勢を立て直そうとする。

 落ち着け。泳げばいい。半分は来ていたのだから、少しだけ足掻けば、足がついて顔が出る場所にたどり着く。とりあえず手を動かせ。足を動かせ。

 混乱する頭で命令を出し、何度も浮き沈みを繰り返した。口に水が入り、飲み込み、咳き込んでまた沈む。

 苦しい。

 咄嗟に矢己しきの顔が浮かんだ。名前を呼ぼうとして、開いた口に水が流れ込んできた。

 しかしその時、必死に掻いていたその腕を、ぐいっと引っ張られた。

 顔が水面から出て、求めていた空気にひゅっと喉が鳴る。咳き込み、吐いたぶんの空気をまた吸った。水から出た顔は、二度と沈むことがなかった。


「立て」


 しばらく水の中を引っ張られた後で、そう言われた。


「……?」

「自分の足で立て。もうつくはずだ」


 水中で流される足に力を入れると、言われたとおり、足の裏は川底を捉えた。深さは胸の下くらいになっていた。

 片腕を支えられたまま、自由になる手で顔を拭うと、目の前にいたのは知らない男だった。



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