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紅里の風  作者: 泉 五月
第一章
16/55

3-9

 

 次の日、途斗ととは仲間と共に利布りぶを発った。

 途斗の出立に、朱夏しゅかはもう自分を連れて行けとは言わなかった。そもそも、見送りにすら行かなかった。矢己しきに声をかけられても、自分の敷布の上に丸まったまま、何も答えずにじっとしていた。


 ずっと、同じことを考えていた。

 昨日の夜から寝ずにずっと、真尾良まおらに少しは食べなと無理矢理スープの器を持たされた時も、矢己が呼びに来た時も。

 それでも答えが出なくて、わからなくて、何度も叫びたくなった。

 ついにじっとしていられなくなって、夕方、ふらりと家を出た。

 家の密集する山肌を抜け、人の通る場所を避けると、朱夏の足はどんどん茂みを分け入り、山を下り始めた。人と顔を合わせたくなかった。わざと獣道を選び、決して速くはないが休むこともなく歩き続けた。


 朱夏が山を下りきった時、すでに西の空には赤みが差していた。まだ片付け切れていない黒い残骸のある村の中をゆっくりと歩き、シグルの畑を通り、ラングルに張り出すいつもの桟橋にたどり着いた。

 その先端に立った時、ようやく口を開いた。


「……いつまで張り付いてるつもり?」


 話しかけてはこない。前を向いていて見える距離にも入ってこない。だが、気配でわかる。振り返ればそこにいる。昨日の夜からずっと、矢己しき朱夏しゅかのそばにいる。


「ねえ」


 朱夏は振り返った。その声には多少の苛立ちを含んでいる。


「……途斗ととから、伝言」

「聞きたくない」

茗野めいのは必ず助けるから、朱夏は」

「聞きたくないって言ったでしょ!」


 矢己しきの言葉を遮ると、体全体で拒否するように振り返っていた体を前に戻した。

 三年前、自分に勝てば仲間に入れてくれると途斗は言った。しかし昨日、朱夏に平和に暮らせと、つまりはっきりと、もうその気はないと言ったのだ。

 ――いや、最初からその気はなかったのだ。途斗は茗野に言われて、渋々あの条件を出してきた。ただ、それでも、まだ望みはあると思いたかった。途斗が勝負を断らない限りは、いつか認めてくれる時が来るかもしれないと思っていた。

 だが、それは違った。


 家が焼かれても、途斗ととの態度が変わっても、ラングルの流れは変わらない。目の前を流れていく水のうねりに話しかけるように、朱夏は口を開いた。


「あんたも……あたしには、茗野めいのを助けに行く資格がないって思ってるの?」


 背後の矢己しきは少しだけ近付いてきて、それでもまだ腕の届かない距離で止まった。


「資格があるかないかは別にして……途斗に任せたほうが助かる可能性は高いと思う」


 矢己の言葉を、鼻で笑った。


「はっきり言えばいいじゃない、途斗みたいに。足手まといになるだけだって」

「そこまでは思ってない」

「じゃあ何であたしが行っちゃいけないの?」

「だからそれは……」

「あたし、そんなに間違ったことしてる?」


 言葉を遮って振り返ると、矢己しきはまるで自分が苦しそうな顔をして唇を引き結んだ。なんで矢己がそんな顔をするのかわからない。苦しいのは、悔しいのはこっちだ。


「確かに、茗野が連れていかれたのはあたしのせいだってことはわかった。あたしが出て行かなければ、茗野は今もここにいた。けどそしたら、途斗がいなくなってたわけでしょ?」


 そうだ。あのままだと、確実に途斗は連れて行かれていた。

 たとえ朱夏が茗野の本当の立場を知っていて、反宋はんそう軍の、途斗と茗野の約束を知っていたとしても、途斗が連れて行かれるというなら、やっぱり朱夏は今日と同じ行動を取るだろう。そして。


「連れて行かれたのが途斗でも、きっとあたしは助けに行くって言う。そしたら今度は、誰が駄目って言うの? 茗野? それとも別の誰か? ……でもどうせ、きっと誰だって、駄目って言うんでしょ?」


 一晩考えて、そういう結論に達した。ここでは誰も、朱夏のやろうとすることを認めてはくれない。


「要するに、あたしには何もするな。ここでじっと、大人しくしてろってことよね」

「…………」

「昔のことは忘れて、国を治めてるのが宋重そうじゅうだろうが、反宋軍が負けようが、紅里こうりに二度と帰れなかろうが、ここで静かに暮らしてろってことなんでしょ」

「朱夏……」

「ねえ、矢己」


 反論させるつもりはなかった。


「親を殺した人間を殺したいと思って、何が悪いの? 大切なものを奪ったものを憎んで、何が悪いの?」


 それは当たり前のことだ。残された者の当然の権利だ。


「あたしは、あいつらを憎むこともしちゃいけないの? 父さんや母さんを殺されたことや、村のみんなを殺されたことや、シッダを傷つけられたことや草原を焼かれたこと……全部忘れて生きろっていうの?」

「朱夏」

「じゃあ何で途斗は戦ってるの? 何で反宋軍があるの? みんな憎いから、こんな想いを抱えてるから、戦ってるんじゃないの? 違うの?」


 シグルの畑が風に鳴る。そのざわめきが、そのまま朱夏の心のざわめきだった。


「みんな、朱夏が心配なんだ」

「じゃああんたは何でいいの? あたしのことは心配して、あんたのことは誰も心配してないっていうの? そんなわけないよね」

「俺は男だし……」

「でも年下じゃない」

「朱夏より強い」

「あたしだってまだ強くなる」


 朱夏しゅかは間髪入れずに矢己しきに詰め寄った。


「そもそもあんたが反宋軍に入った理由は何なの? あの日あんたは一緒にいたけど、あんたは何も失っちゃいない。あんたが一緒に戦っていいのに、あたしは何でいけないの? 意味がわかんない。言ってよ。ねえ、説明して!」


 矢己の胸を思い切り叩いた。

 復讐できるなら、刺し違えたっていい。

 その強い気持ちは、何より戦力になるはずだ。それなのに、なぜ。


「……憎むなとは言ってない」


 自分の胸を叩いた朱夏の拳を見下ろして、矢己はぽつりと言った。


「ただみんな、朱夏が危険なことに突っ込んでいくのをやめさせたいだけだ」

「じゃあ何で、あんたのことは止めないのよ。危険なのは同じでしょ?」

「俺と朱夏は違う」

「どこが!」

「…………」


 矢己しきは黙った。


「どこが違うっていうの! 説明してみなさいよ!」


 引き下がる気はなかった。納得ができない。

 なぜ自分だけが駄目なのか。

 誰よりも強い動機があるのに、その自分が認められないのか。

 胸に押しつけた拳が、矢己の呼吸を伝えてきた。やけに静かな呼吸だった。その呼吸が、一瞬止まる。

 矢己を見上げる。

 黒に近い紺碧の瞳が、じっと朱夏を見下ろしていた。その口が、動く。


「朱夏は復讐できるなら、死んでもいいと思ってる」


 深い紺の瞳は、凪いでいた。


「……俺はそうじゃない。だからだ」


 説明はそれですべてだと言うように、矢己しきはもう口を開かなかった。

 矢己の胸に置いていた拳が震える。


「それの……、何が悪いの……?」

「…………」

「それくらいの覚悟がなくて、何ができるっていうのよ!」


 どん、と矢己の胸を叩いた。


「ここが、熱い……痛いの、ずっと……! あの日の炎が、ずっと、ここで燃えてる。殺せって。許すなって」


 何度も何度も、矢己を叩く。


「死んでもいい。それでもいい、復讐できるなら!」


 矢己はずっと、叩かれるままになっていた。

 なんで何も言ってくれないのか。

 わかる、と。

 朱夏が正しいと、何でそう言ってくれないのか。


「ねえ、矢己しき……。あんたならわかるでしょ?」


 すがる様に、胸の上で服を掴んだ。

 返事はなかった。

 見上げると、また同じ表情だった。

 息苦しそうな。

 同じ光景を見た矢己なら、わかってくれると思っていた。

 だから嫌々ながらも、剣の相手をしてくれるのだと。小言を言っても、結局は止めないのだと思っていた。

 だが、本当は違うのか。

 ここにきて、朱夏を突き放すのか。

 唇を噛んだ。

 誰もいない。この憎しみをわかってくれる人がいない。

 あの日一緒にいた、矢己すらも。


 掴んでいた服を放すと、矢己の胸に置いていた手を下ろした。


「……あっちに行って」

「…………」

「行って!」

「……もう帰ろう」


 赤く染まった空は、東のほうから翳りつつあった。少しもしないうちに、あたりは暗くなるだろう。


「朱夏」


 矢己しきは、手を差し出してきた。

 朱夏はその手を見下ろして――そして、拒んだ。


「……一人にして」


 両手を体の横で握り、俯いた。

 誰ともいたくない。これまでは例外だった矢己ですら、もう心を許せる相手ではない。

 矢己はしばらく沈黙した後、小さく息を吐いて、そっと手を下ろした。


「畑の向こうで待ってる」

「もう帰って」

「…………」

「あんたいつから、あたしのお守りになったわけ?」

「朱夏」

「あっちに行って。帰って……早く!」


 頑なに追い払おうとする朱夏に、矢己はそれ以上何も言うことなく、黙って踵を返していった。




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