3-9
次の日、途斗は仲間と共に利布を発った。
途斗の出立に、朱夏はもう自分を連れて行けとは言わなかった。そもそも、見送りにすら行かなかった。矢己に声をかけられても、自分の敷布の上に丸まったまま、何も答えずにじっとしていた。
ずっと、同じことを考えていた。
昨日の夜から寝ずにずっと、真尾良に少しは食べなと無理矢理スープの器を持たされた時も、矢己が呼びに来た時も。
それでも答えが出なくて、わからなくて、何度も叫びたくなった。
ついにじっとしていられなくなって、夕方、ふらりと家を出た。
家の密集する山肌を抜け、人の通る場所を避けると、朱夏の足はどんどん茂みを分け入り、山を下り始めた。人と顔を合わせたくなかった。わざと獣道を選び、決して速くはないが休むこともなく歩き続けた。
朱夏が山を下りきった時、すでに西の空には赤みが差していた。まだ片付け切れていない黒い残骸のある村の中をゆっくりと歩き、シグルの畑を通り、ラングルに張り出すいつもの桟橋にたどり着いた。
その先端に立った時、ようやく口を開いた。
「……いつまで張り付いてるつもり?」
話しかけてはこない。前を向いていて見える距離にも入ってこない。だが、気配でわかる。振り返ればそこにいる。昨日の夜からずっと、矢己は朱夏のそばにいる。
「ねえ」
朱夏は振り返った。その声には多少の苛立ちを含んでいる。
「……途斗から、伝言」
「聞きたくない」
「茗野は必ず助けるから、朱夏は」
「聞きたくないって言ったでしょ!」
矢己の言葉を遮ると、体全体で拒否するように振り返っていた体を前に戻した。
三年前、自分に勝てば仲間に入れてくれると途斗は言った。しかし昨日、朱夏に平和に暮らせと、つまりはっきりと、もうその気はないと言ったのだ。
――いや、最初からその気はなかったのだ。途斗は茗野に言われて、渋々あの条件を出してきた。ただ、それでも、まだ望みはあると思いたかった。途斗が勝負を断らない限りは、いつか認めてくれる時が来るかもしれないと思っていた。
だが、それは違った。
家が焼かれても、途斗の態度が変わっても、ラングルの流れは変わらない。目の前を流れていく水のうねりに話しかけるように、朱夏は口を開いた。
「あんたも……あたしには、茗野を助けに行く資格がないって思ってるの?」
背後の矢己は少しだけ近付いてきて、それでもまだ腕の届かない距離で止まった。
「資格があるかないかは別にして……途斗に任せたほうが助かる可能性は高いと思う」
矢己の言葉を、鼻で笑った。
「はっきり言えばいいじゃない、途斗みたいに。足手まといになるだけだって」
「そこまでは思ってない」
「じゃあ何であたしが行っちゃいけないの?」
「だからそれは……」
「あたし、そんなに間違ったことしてる?」
言葉を遮って振り返ると、矢己はまるで自分が苦しそうな顔をして唇を引き結んだ。なんで矢己がそんな顔をするのかわからない。苦しいのは、悔しいのはこっちだ。
「確かに、茗野が連れていかれたのはあたしのせいだってことはわかった。あたしが出て行かなければ、茗野は今もここにいた。けどそしたら、途斗がいなくなってたわけでしょ?」
そうだ。あのままだと、確実に途斗は連れて行かれていた。
たとえ朱夏が茗野の本当の立場を知っていて、反宋軍の、途斗と茗野の約束を知っていたとしても、途斗が連れて行かれるというなら、やっぱり朱夏は今日と同じ行動を取るだろう。そして。
「連れて行かれたのが途斗でも、きっとあたしは助けに行くって言う。そしたら今度は、誰が駄目って言うの? 茗野? それとも別の誰か? ……でもどうせ、きっと誰だって、駄目って言うんでしょ?」
一晩考えて、そういう結論に達した。ここでは誰も、朱夏のやろうとすることを認めてはくれない。
「要するに、あたしには何もするな。ここでじっと、大人しくしてろってことよね」
「…………」
「昔のことは忘れて、国を治めてるのが宋重だろうが、反宋軍が負けようが、紅里に二度と帰れなかろうが、ここで静かに暮らしてろってことなんでしょ」
「朱夏……」
「ねえ、矢己」
反論させるつもりはなかった。
「親を殺した人間を殺したいと思って、何が悪いの? 大切なものを奪ったものを憎んで、何が悪いの?」
それは当たり前のことだ。残された者の当然の権利だ。
「あたしは、あいつらを憎むこともしちゃいけないの? 父さんや母さんを殺されたことや、村のみんなを殺されたことや、シッダを傷つけられたことや草原を焼かれたこと……全部忘れて生きろっていうの?」
「朱夏」
「じゃあ何で途斗は戦ってるの? 何で反宋軍があるの? みんな憎いから、こんな想いを抱えてるから、戦ってるんじゃないの? 違うの?」
シグルの畑が風に鳴る。そのざわめきが、そのまま朱夏の心のざわめきだった。
「みんな、朱夏が心配なんだ」
「じゃああんたは何でいいの? あたしのことは心配して、あんたのことは誰も心配してないっていうの? そんなわけないよね」
「俺は男だし……」
「でも年下じゃない」
「朱夏より強い」
「あたしだってまだ強くなる」
朱夏は間髪入れずに矢己に詰め寄った。
「そもそもあんたが反宋軍に入った理由は何なの? あの日あんたは一緒にいたけど、あんたは何も失っちゃいない。あんたが一緒に戦っていいのに、あたしは何でいけないの? 意味がわかんない。言ってよ。ねえ、説明して!」
矢己の胸を思い切り叩いた。
復讐できるなら、刺し違えたっていい。
その強い気持ちは、何より戦力になるはずだ。それなのに、なぜ。
「……憎むなとは言ってない」
自分の胸を叩いた朱夏の拳を見下ろして、矢己はぽつりと言った。
「ただみんな、朱夏が危険なことに突っ込んでいくのをやめさせたいだけだ」
「じゃあ何で、あんたのことは止めないのよ。危険なのは同じでしょ?」
「俺と朱夏は違う」
「どこが!」
「…………」
矢己は黙った。
「どこが違うっていうの! 説明してみなさいよ!」
引き下がる気はなかった。納得ができない。
なぜ自分だけが駄目なのか。
誰よりも強い動機があるのに、その自分が認められないのか。
胸に押しつけた拳が、矢己の呼吸を伝えてきた。やけに静かな呼吸だった。その呼吸が、一瞬止まる。
矢己を見上げる。
黒に近い紺碧の瞳が、じっと朱夏を見下ろしていた。その口が、動く。
「朱夏は復讐できるなら、死んでもいいと思ってる」
深い紺の瞳は、凪いでいた。
「……俺はそうじゃない。だからだ」
説明はそれですべてだと言うように、矢己はもう口を開かなかった。
矢己の胸に置いていた拳が震える。
「それの……、何が悪いの……?」
「…………」
「それくらいの覚悟がなくて、何ができるっていうのよ!」
どん、と矢己の胸を叩いた。
「ここが、熱い……痛いの、ずっと……! あの日の炎が、ずっと、ここで燃えてる。殺せって。許すなって」
何度も何度も、矢己を叩く。
「死んでもいい。それでもいい、復讐できるなら!」
矢己はずっと、叩かれるままになっていた。
なんで何も言ってくれないのか。
わかる、と。
朱夏が正しいと、何でそう言ってくれないのか。
「ねえ、矢己……。あんたならわかるでしょ?」
すがる様に、胸の上で服を掴んだ。
返事はなかった。
見上げると、また同じ表情だった。
息苦しそうな。
同じ光景を見た矢己なら、わかってくれると思っていた。
だから嫌々ながらも、剣の相手をしてくれるのだと。小言を言っても、結局は止めないのだと思っていた。
だが、本当は違うのか。
ここにきて、朱夏を突き放すのか。
唇を噛んだ。
誰もいない。この憎しみをわかってくれる人がいない。
あの日一緒にいた、矢己すらも。
掴んでいた服を放すと、矢己の胸に置いていた手を下ろした。
「……あっちに行って」
「…………」
「行って!」
「……もう帰ろう」
赤く染まった空は、東のほうから翳りつつあった。少しもしないうちに、あたりは暗くなるだろう。
「朱夏」
矢己は、手を差し出してきた。
朱夏はその手を見下ろして――そして、拒んだ。
「……一人にして」
両手を体の横で握り、俯いた。
誰ともいたくない。これまでは例外だった矢己ですら、もう心を許せる相手ではない。
矢己はしばらく沈黙した後、小さく息を吐いて、そっと手を下ろした。
「畑の向こうで待ってる」
「もう帰って」
「…………」
「あんたいつから、あたしのお守りになったわけ?」
「朱夏」
「あっちに行って。帰って……早く!」
頑なに追い払おうとする朱夏に、矢己はそれ以上何も言うことなく、黙って踵を返していった。




