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第十一話 猫と魔王・新生編

「どこにいったのかのう……?」

 蒼河家の裏庭から飛び去った黒猫を追いかけたものの、簡単に見失ってしまったエレルインは、ゆっくりと地上に降下しながら途方に暮れた。街行く人々は、彼女のことが眼中にないらしく、空中から降り立っても驚くことさえしなかった。響の反応を見る限りこの世界には魔法は存在しないか、存在しても一般には知られていないようなのだが、あからさまな魔法現象を目の当たりにしてもまったく反応を示さないのはどういうことなのだろう。疑問に思ったものの、エレルインは深く考えないようにした。

 いま考えるべきは黒猫のことだ。

 蒼河家の裏庭に君臨するかのような風格を持ち、思念波を発し、人語を解し、あまつさえ魔王を見下すあの猫のことだ。探しだし、魔王の素晴らしさを思い知らさなければならない。でなければ、魔王としての尊厳が失われてしまう。そうなれば魔界は荒れ、秩序は失われ、この世にまでその影響が出てくるだろう。それは喜ばしいものではない。なにより、響との幸せな生活が壊れてしまう。まだ始まってもいないというのに、だ。

「猫や猫や黒猫やー」

 歌いながら、散策する。手がかりは完全に失せ、どこをどう探せばいいのかわかったものではない。響の居場所なら簡単に見つけ出せるのだが、なんの関わりもない黒猫の居場所など、わかるはずもなかった。といって、諦めて帰るわけにもいかない。

 広い通りを右折して、入り組んだ路地を進む。彼女はもはや勘に任せていた。魔王の勘ならば、黒猫くらい見つけられるのではないか。それは期待ですらないのだが。

 不意に、どん、という物音をエレルインの聴覚が捉えた。なにかの衝突音だ。遠くではない。なぜだか妙な胸騒ぎがしたのは、わざわざ意味のない物音を、魔王の聴覚が捕捉したりはしないからだ。魔王の力は無意識に機能する。

 衝突音がした方向へ走る。

 すると、前方の路地に黒い物体が倒れているのが見えた。あの黒猫なのは、遠目でも確認できる。彼女の視力は並外れていたし、記憶力も尋常ではない。

 駆け寄ると、間違いなくあの黒猫だった。無残な姿だった。

 黒猫は、なにか強い衝撃を受け、跳ね飛ばされたらしい。そして壁に叩きつけられたようだった。即死だったのだろう。出血は止まり、命の音も聞こえなかった。

「わらわのせいか?」

 エレルインは、黒猫の亡骸の側に立ち尽くした。死体はなにも語らない。ただ死んだという事実を伝えるだけなのだ。残っているのは、肉の塊に過ぎない。やがて腐敗し、大地に還る。それが摂理だ。悲しいことではない。恐ろしいことでもない。だれもがいつかは死ぬのだ。あるのは遅いか早いかの違いだけだ。

(なぜおまえのせいになる)

「はわっ」

 頭の中に響いてきた思念波に、エレルインは目を丸くしながら仰け反った。驚きのあまり、喉から心臓が飛び出るかと思ったほどだった。ばくばく鳴る胸を抑えながら周囲を見回すが、なにもいなかった。ましてや黒猫の亡骸は相変わらず足元にあり、微動だにしないのだ。

(どこを見ている……上だ)

「わ、わかっておるわ! ちょっとお茶目な魔王様を演じてみただけじゃ!」

 あきれきった思念波に反論しながら、エレルインは視線を上げた。猫の亡骸の直上に淡く発光するなにかが浮かんでいる。いまにも消失してしまいそうなほどにか弱く、儚い光体。それがなんなのか、直感的に理解する。魂魄。猫の亡骸から抜けだした魂そのものだ。

 魂は、明滅しながら形を変えようともがいているように見えた。猫の頃の形に戻りたいのだろう。しかし、手の形を作ることも、足の形を生成することも、猫の顔を描くこともできないでいた。

(どうやら、俺は死んだらしいな)

 猫の魂は、嘆息したようだった。

「……魂のみとなっても語るか。未練じゃな」

 エレルインは、魂を見遣りながら告げた。動悸は収まり、冷静さが戻ってきている。

 魂とは、生命の根源そのものだ。その生き物の本質であり、すべてだ。肉体は、魂の容れ物に過ぎない。器が損壊されれば、魂が抜けだしてしまうのは当然であり、元に戻ることができないのもまた、必然だった。

 だが彼は、肉体との繋がりが消えることを恐れている。魂魄と亡骸を繋ぐか細い糸を見つけて、エレルインは目を細めた。最初見えなかったのは、そういう可能性を考慮もしていなかったからに違いない。

(そうだ。俺にはまだ死ねない理由がある)

「死ねない理由?」

(俺は……俺に生きる力と名前を与えてくれたひとにもう一度逢いたいのだ。いや、逢わなければならない。逢って、伝えなければならないのだ)

 猫の魂の告白に、エレルインは心を打たれた。力になってあげたい、そんな思いが彼女の口を開かせる。

「そのものはどこにいる? わらわがいますぐ連れてこようぞ」

 いまならばまだ、間に合うだろう。魂が肉体を離れきってはいない。いまなら、伝えたいことも伝えきれる。エレルインならば、それができる。

(わからない)

「そんな……」

 エレルインは肩を落とした。それでは彼の魂を救うことができないのではないか。未練を残したまま消え去るなど、あまりに悲しすぎる。

(風のうわさで聞いたのだ。戦争に負けて、死んだそうだ。二百年以上昔の話だ。たとえ戦争で死んでいなくとも、人間の寿命が尽きるには十分過ぎる年月だ)

「二百年じゃと。おぬしはいったい……」

 半ば呆れ、半ば驚く。猫の寿命など、エレルインたち魔界の住人に比べれば微々たるものだ。一瞬の残光のように儚く、だからこそ使い魔にし、生き長らえさせるのだ。自然の摂理に逆らってでも長く愛でたい、というのは使い魔を使役するものたちの共通認識だ。

(俺にもわからない。ただ、あのひとにもう一度逢いたい一心で生きてきた。死んだものの魂は、長い年月を経て生まれ変わることがあると聞いた。生まれ変わったあのひと逢うために、俺は生き続けた。気づけば、俺は妖怪と呼ばれていたよ)

「妖怪……のう」

(しかし……年老いた。車も避けられなかったのだ。以前ならばあんなものに撥ねられることなどなかった。それがこの有り様だ。せめて、翼さえあれば……)

 空を飛べたら、死のさだめを回避できたかもしれない。そして、もっと長く生きたかもしれない。想い人の生まれ変わりとの再会を果たすほどに。しかし、運命は彼を囚えた。彼は死んだ。もはや魂魄のみの存在となったのだ。あとはこの世から消え去るだけだ。

(このまま死にたくない。俺はあのひとと逢いたい。もう一度だけでいい。逢って、感謝の言葉を届けたいんだ)

 死んでしまったからこそ、猫の未練は烈しい嵐のように吹き荒れていた。だが、魂だけではなにができるわけもない。エレルインに害をなすことも、生き返ることも。

(俺も生まれ変わるのを待つしかないのか)

 猫の魂と亡骸の繋がりがさらに儚くなっていく。未練さえも弱まっている。諦観しているのだ。もはやどうにもならないと、思い込んでいる。

 エレルインは、彼の魂を救ってやりたいと考えていた。それは彼の想いが痛いほどわかるからだ。生まれ変わってでも逢いたいという強い願いは、彼女の心の琴線に触れる。まるで自分を見ているようだった。

 エレルインは、蒼河響にそのような感情を抱いている。いつの間にか、そうなっていた。そう思っていた。強く、激しく、苛烈なまでに。魂約こんやくしたからそう想うようになったのか、そう想う運命だから魂約に至ったのか――彼女にとっては、どちらでもいいことだ。大事なのはいま心の奥で渦巻く感情のほうだ。

 だから彼女は、猫の魂に優しいまなざしを投げる。

「死ねば、いつかは生まれ変わる。されど、おぬしの待ち望むものと再会できる保証はないぞ」

(俺は死んだのだ……もはやそれにすがるよりほかはない)

 弱気な魂に向かって、エレルインは声を励まして告げた。

「わらわがおる」

(おまえになにができる)

 吐き捨てるような言葉にも、エレルインは表情を変えなかった。威厳はなくとも、自分の力は自分が一番良く知っている。魔界六十億土を震え上がらせた力。魔王の力。

 エレルインは、胸を張った。

「わらわは魔王ぞ。死者蘇生くらい容易いものじゃ」

(馬鹿げたことを……)

 猫の魂は最初取り合おうともしなかったが、エレルインが胸を張ったまま眉ひとつ動かさないのを見ると、心が揺れたらしい。

(本当なのか?)

「おぬしに嘘をついても仕方がなかろう」

(……それもそうだな。だが、できるのか? 本当に、よみがえることができるのか?)

「できる。ただし、条件つきではあるがの」

 その条件が飲めなければ、蘇生させることはできない。それは不文律だ。魔王とはいえ、すべての法に背くことはできない。魔王とは魔界の法の支配者であり、体現者でもあるのだ。法に反すれば、皆に示しがつかなくなる。魔界六十億土の統治者として、そこは譲れないところだ。

(なんだ?)

「わらわと契約することじゃ。わらわの使い魔になるという契約をな。それならば、わらわの力で蘇生することができる」

 とはいえ、それは欺瞞のようなものだ。すでに死んだものと契約を結ぶなど、通常ならばありえない。魂と交感することは難しいからだ。しかし、この猫は思念波を飛ばすことができる。それが、この欺瞞を成就させる鍵となった。

(俺におまえのしもべになれというのか)

「誇りに満ちた死か、屈辱に満ちた再びの生か。選ぶのはおぬしじゃ。わらわは強制せぬ。それに、わらわが蘇生させるといっても、元のままというわけにはいかぬからのう」

(……どういうことだ)

「蘇生とは、死のさだめに逆らうということなのはわかろう。運命を歪め、因果律を操作することにほかならぬ。元に戻せば、運命はふたたびおぬしを殺そうとする。世界は歪みを正そうとするからのう」

 この世も魔界もそれは変わらないだろう。世界を運営するシステムが、歪みを修正しようとする。歪みを放置すれば、世界の破綻を招きかねない。自浄作用なのだ。世界はみずからを浄化し、常に健全たろうとする。摂理を曲げるものには容赦などしないものだ。

(では、どうするというのだ)

「世界を欺く」

 エレルインは得意気にいった。

「おぬしの姿形を変え、魂の名も変えてしまえば、いかな世界とておぬしの蘇生を感知できまい。歪みは残るが、最小限にとどめておけば問題はなかろう」

 微々たる歪み。

 たとえば、魔王がこの世に存在しているという程度の。

(魂の名を……変える?)

 猫の魂が、困惑した。当然だろう。そんなものがあるのかと思ったはずだ。魂の名。真の名といってもいい。生命の本質たる魂に刻まれる名前だ。その名前は、何度生まれ変わっても変わらない。どれだけ魂が漂白され、新たな肉体を与えられようとも、それだけは変わらない。

「なあに、たいしたことではない。わらわが仮初めの名を与えようというのじゃ。その間、おぬしの探しびととの絆も弱まるが、世界がおぬしの存在を忘れたときに名前を戻せばよい。何十年、何百年先になるかわからぬがの」

(随分と気の長い話だ……)

「二百年生きてきたおぬしの言葉とは思えぬな」

 半眼で告げると、猫は笑ったらしい。

(確かにその通りだ。しかし、俺が名を忘れたらどうなる)

「心配するでない。わらわが覚えておる。何百年であろうとな」

 エレルインは手で胸を叩いた。記憶力には自信がある。

(随分と優しい魔王だ……)

「わらわを褒めてもなにも出ぬぞ。それより、早く決めよ。おぬしがこの世に留まっていられる時間は、もう少ない」

 魂魄と死体を繋ぐ糸がいまにも千切れそうなほどに、双方の関係は希薄になっていた。糸が切れたとき、死体は完全に物体となり、魂魄はこの世を去る、魂はいつか生まれ変わるだろう。新たな肉体を得た、新たな生命として。

(……魔王よ。いまより俺はおまえのしもべとなろう。そして覚えておいてくれ。俺の名はヤマト。それがあの男が俺に与えた名。おそらくそれが魂の名……)

「ヤマトよ。おぬしの魂の名、わらわの魂に刻んだのじゃ。永遠に忘れぬぞ。そして、契約に従い、おぬしを我が使い魔としよう」

 エレルインが指先で魂魄に触れるというだけの、簡素な契約儀式を済ませる。その瞬間、猫の魂魄はエレルインの支配下に入った。魔王の眷属となった。魔王の法の保護下に入ったのだ。

 エレルインは、両手をかざした。世界に干渉し、運命を引き寄せる。彼の死体と魂の結び付きを強引に太くし、さらに死体に力を流し込む。もはや死んでしまった肉体をそのまま蘇生しても、不完全な、生き物ですらないなにものかになるだけだ。彼女は、彼の死体そのものを生まれ変わらせた。体組織の末端に至るまで、まったく新しい物にしてしまうのだ。

 それは創造に近い。魔王だからこそできる芸当だった。魔界の存在であっても、彼女と同等のことができるものはいないといっていい。できても、ここまで完全な蘇生は不可能だろう。

 圧倒的な力の奔流が、渦となって猫の亡骸を包み込む。魂魄が、もはや亡骸ではなくなったそれに入り込んだ。そこでさらに力を注ぎ、生命力を喚起させる。爆発的な光が、エレルインの視界を灼いた。

 眩い光の中で、新たな生命が誕生したのがわかる。

「おぬしの新たな名は……そうじゃな」

 エレルインは一瞬考えたが、すぐに思いついた。

「ロキ。世界がヤマトを忘れるまで、ロキとして生きよ」

(ロキ……悪くない響きだ)

 光が消え、黒い猫が四本の足で立っていた。緑色に輝く大きな目は、相も変わらぬふてぶてしさを湛えている。体型は随分とスマートになった。これなら車に撥ねられる心配もない。そして背には、一対の翼があった。黒い毛並みに白い翼は、よく映えた。

(これはなんだ?)

 彼は、翼を広げながら尋ねてきた。いままでにない器官を使うのは難しいのだろう。翼がぎこちなく動いた。

「おぬしの望みが具現化したのじゃな。これでどこへだって飛んで行けるぞ」

(飛べる……飛べるのか)

 ロキは、翼で大気を叩いた。すると、一瞬だけ彼の小さな体が浮かび上がった。しかし、すぐに着地する。

(難しいものだな)

「練習が必要じゃのう」

 エレルインが笑うと、ロキはまんざらでもなさそうに喉を鳴らした。



「あいつどこいったんだ?」

 響は、食器洗いをしている最中にいなくなった魔王のことを探していた。裏庭の猫のことを話してから姿を見ていないのだ。心配はないのだが(彼女は魔王だし、セヴァスチャンがついている)、そろそろお昼の頃合いだった。家で食べるなら食べる、食べないなら食べないとはっきりしてくれないと困るのだ。

 母も姉も出かけていて、昼食は、響が用意しなければならなかった。エレルインが家で食べるというのなら、彼女の分も作る必要が出てくる。

 ついさっき、家中を探しまわったがどこにも見当たらなかった。無論、姉の部屋を覗いてはいない。そんな恐ろしいことはできなかった。たとえエレルインを探すためとはいえ、自分の人生を破壊したくはないのだ。

 もっとも、彼女が姉の部屋にいる可能性は低いだろう。姉が起きてきたのは、彼女が消えた後だ。かなではエレルインの姿が見えないことを残念がっていた。

 恐らく、外だ。裏庭に出て行ったきりだった。

 そのまま外出してしまったのかもしれない。

「ならせめて一言いってけよなあ……」

 嘆息して、玄関に向かう。家の周りだけでも、エレルインがいないかどうか探しておいて損はないだろう。

 エレルインのブーツがないことを確認するのは何度目かはわからないが、ともかく靴を履き、ドアを開け、大気をつんざくような轟音を耳にして、

(え?)

 自分が聞いたものに疑問を覚えた次の瞬間、響は前方上空から飛来してくる物体に唖然とした。ゴスロリ少女が、反応すらできないほどの速度で迫ってきていた。

「ただいまなのじゃあああああああああ!」

 エレルインの突貫を腹で受け止めた響は、絶望的な悲鳴を上げながら廊下まで吹き飛ばされた。しかし、少女の体を投げ出すようなことだけはしなかったし、意識を失うこともなかった。が、むしろ意識を失った方がマシだったのはいうまでもない。

 響は、地獄のような激痛の中で、腹の上にちょこんと座った少女を見た。まさに魔王的な笑顔を湛えた少女の姿は、痛みを堪えるに足るものかもしれないのだが。

「おかえり」

 銀髪の美少女の頭の上には天使の翼を持つ黒猫が鎮座していたので、彼は、ついに迎えが来たのかと思ってみたりもした。

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