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「いや…こっちにいないのか?」
(隊長が知らない)
「さっき…」
ひやりとした感覚にことばが途切れそうになったのを、必死に声を張り上げる。
「隊長に呼ばれたと言って出て行ったまま、帰ってこないんです!」
「何? いや、俺は呼んでおらん」
「…っ」
予想はしたが、あまりにも恐れていた通りのことばに、ユカルは怯む。と、
「誰がそう言った?」
ユカルの興奮を一気に押しつぶす殺気を放ってアシャが口を挟み、思わず黙った。振り向くこちらを見返した紫の瞳は、研いだばかりの槍を思わせる酷薄な色、先ほどのにこやかさを微塵も残していない。
「あ、あの…ジャルノンです」
思わず声が引き攣った。答えを間違えれば殺される。そんな無意識の恐怖だ。
「彼は今どこに?」
「それが…」
しまった、それが問題だったんだ、と胸に広がる敗北感に臍を噛みながら答えた。
「コクラノと同様、姿を消していて」
「まずいな」
シートスが苦い顔になった。
「アシャ、実はジャルノンはモスへの投降を疑われていた男なんです。もう少し密通している証拠を掴んで、モス側の方も始末をつけようとしていたのですが」
「…」
アシャが無言で頷いた。瞳はますます暗く冷たい色になる。
「コクラノは、この前、ユーノに恥をかかされている。『星の剣士』(ニスフェル)にいつか思い知らせると公言していました」
「可能性としては」
感情を強いて押さえたのだろう、アシャの声は淡々として厚みがなく、端々が胸に刺さるような鋭さだ。
「ユーノがおびき出されたというのが妥当だな」
「………」
互いに顔を見合わせる。何のために、という問いはない。こういった暮らしをしていれば、そして、人の心の闇に少しでも接することがあるのなら、行方不明になった仲間の運命は嫌というほど思い知る。
「ジャルノンはどっちへ行った?」
「東の方です」
「こちらか……よし」
手綱を引いたアシャはシートスを振り向いた。
「先に隊へ帰っててくれ。俺が探す」
「そういうわけにはいきません」
シートスが渋った。
「これは、野戦部隊の責任だ。私も行きます」
「周囲が落ち着いていない。こんな状況にこれ以上、兵隊だけ置いておくのは…」
「俺が行きます!」
ユカルは声を上げた。訝しげに振り向くアシャと、やれやれと言った表情のシートスに口ごもりながら、それでも主張する。
「俺だって野戦部隊の一員だし……それに……俺……あいつ、じゃない、彼のことが好きですし!」
「彼?」
シートスは一瞬複雑な表情になって首を傾げ、やがて微妙な笑みを浮かべながら、アシャを振り向いた。
「『星の剣士』(ニスフェル)は女性、ですよね?」
「は?」
「ああ…まあ」
「え?」
2人を交互に眺め、やや強張った顔のアシャに、ようやくユカルも冗談ではないとわかる。
「え、あの…女性…って…女? あの、隊長、『星の剣士』(ニスフェル)って、女、だったんですかあっ?」
「あれだけ一緒に居たくせに、気づいてなかったのか」
シートスが呆れ顔で苦笑を浮かべた。
「俺はてっきり、べったりくっついているから、他の奴らからガードしてるとばかり思ってたぞ」
「いや、だって、俺、まさか、あれほどの遣い手が女? いや、そんなだって、あり得ねえ…っ」
うろたえて口ごもり、それでも思い出したのは細身の体や高めの声、ふとした拍子に妙に柔らかく見える仕草や表情にどきりとしてしまった自分の感情、みるみるほてってくる顔が何を意味するのかは、男ならわかること、それでもまだ、ユーノが女であって嬉しかったと口にするにはためらいがある。
「行くぞ!」
「あ、はいっ!」
気がつけば、アシャは既に先に馬を走らせている。シートスが隊を離れるのに同意してくれて、ほっとしながら素早く頷き返して、アシャの後を追う。
「は、あっ!!」
(ち、くしょうっっ…!)
平原竜の掛け声とともに、胸の中で爆発した、不思議に甘い罵倒の種類を思いつくまもなく、あっという間に距離をあけて自分を置き去りにしそうなアシャを、ユカルは必死に追いかけた。
額に布を巻き付ける。右肩が異常に熱っぽい。探ってみると、やはりねっとりとした血糊の感触があった。
だが痛みはあまり感じない。激しい動きをするとそれなりに痛むが、普通の動作には支障がない。頭のどこかと同じように、そこだけ感覚が麻痺しているようだ。血がこれほど流れているのに痛みがないというのは妙な感覚だった。
(一体、ボクはどうして怪我をしたんだろう)
ぼんやりと岩肌に身を寄せもたれかかりながら、ユーノは考える。
(どうして、裂け目から落ちたんだろう)
繰り返す問いは、軽い頭痛とともに、一つの問いに集約されていく。
『ボクは誰なんだろう』
仄かな明るさを頼りに、さきほど、手に掬った水鏡に自分を映してみた。
焦げ茶色の髪は肩のあたりで跳ね返っている。瞳は濃くて暗い色、何色かはよくわからない。顔立ちはどちらかというと意地っ張りの鋭い顔、削いだような頬の線ときつく食いしばったような唇が印象的で、正直美形にはほど遠い。
だが、その鏡像がもたらしたのは虚無だけだった。何も思い出さないし、何の手がかりも与えてくれない。
額の布が僅かにずり落ち、手を上げて結び直そうとし、絡み付く髪がうっとうしくなる。
(邪魔だな)
左手で剣を掴んだ。右手で掴んだ髪をざくりと切る。少しは手当がしやすくなる。そのまま、ざくりざくりと髪を切り落とし、水に流す。短くなった髪の毛が、それ以上上手く掴めず、剣でも切れなくなると、溜め息をついて岩にもたれた。
(疲れた)
重い疲労感、喉の渇きはあるが、水を汲むのも億劫だ。溜め息をつき、目を閉じ………そしてユーノは、己が何者かもわからぬまま、一時の眠りに落ちていった。