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ピッ……チャーン……チャーン……チャ……。
「ん……」
岩肌で妙な形に区切られた闇に、遥かな高みからの水音、小さな雫が滴った音が谺して広がった。
ぐったりとしていたユーノは微かに呻いて身動きし、ぼんやりと目を開いた。
「……」
体の下にあるのは、ごつごつとした岩だ。自分の体が不自然な形で横たわっているとも感じる。
そろそろと上げた手で額に触れると、べっとりとしたものが指に絡んだ。見開いた目の前にもってこずとも、それが何だかわかる。血糊だ。かなりの出血の後、時間が経ち、自然に固まり始めた血が塊になりかけて指にへばりついている。
でも、『なぜ』だろう?
「う…」
腰と肩の辺りにずきりと痛みが走る。眉をしかめて痛みの部位を押さえたユーノは、右足が細い水の流れに浸かっていたのに気づいた。引き上げ、のろのろと茶色の衣の裾を縛る。
鈍く痛みを訴え続ける体とは違った、別種の違和感がユーノを悩ませていた。
何か違う。そういった漠然とした思い。
もう一度そっと額に触れた。今は止まっているが、再び出血してくるかも知れない。
衣の片袖に剣で切り目を入れて裂き、額に巻こうとすると、ふいに固いものが指に触れた。それは頭にしっかりと縛り付けられている。今の今まで気づかなかったのは、傷のせいか。
自分の物ではないような指を動かして、紐を解く。血糊で額に張り付きかけていたのだろうか、引きはがす時に鋭い痛みがあったが、それほど傷を抉ったわけではないようだ。
血でぬめりべとべとしている物を、そろそろと水で洗い、目を凝らして見つめた。
微かな光に浮かび上がったのは、濃い緑色の細工もの。紐がついていて、何かの認識票のようにも見えるが、額につけていたのだから装飾品の一種なのだろう。これをつけていたから、額の傷がざっくりと割れず、この程度で済んだものと知れる。
まじまじとそれを眺めていたユーノは、不意に心の中に浮かび上がった問いに耳を傾けた。
(これは、『何』だ?)
再び周囲を見回す。上の方から白っぽい光が差し込んでいる。
(裂け目?)
瞬きして、その光景に眉を寄せる。競り上がった岩肌が狭まり身を寄せ合う彼方、見つめていると、向こうに広い大きな空間がある。灰色に澱む空…重い雲がゆっくり動いている。
(ボクはあそこから落ちたのか)
「落ちた?」
思わず口に出した。
それは今の今まで思っても見なかった考えだった。何となくずっとここにいたような気がしていた……と、それを考え続けているユーノの頭に、もう一つの問いが浮かび上がった。
(ボクは『誰』だ?)
「『星の剣士』(ニスフェル)は?」
「さあ、見てないな」
「隊長は?」
「まだ帰ってないみたいだが」
「ふ…ん」
ユカルは不安な思いを抱えたまま、トシェンから離れた。シートスが『星の剣士』(ニスフェル)に何の用があったんだろう、と考える。
(偵察に『星の剣士』(ニスフェル)の腕がいるとは思えねえし)
何か妙だった。何かが噛み合なかった。コクラノの姿が見えないことも、一層ユカルの不安をかきたてた。何かよからぬこと、少なくとも『星の剣士』(ニスフェル)にとって好ましくないことが、ユカルの知らないところで進んでいるという感覚を捨て切れない。
ついにユカルはきゅっと唇を結び、自分の平原竜の側に寄った。大人しく草を食んでいた相手は、主人の姿を認めて不審気に首を上げ、尖った鼻面を突き出した。
シートス達が出ているのはスォーガの中心の方だと聞いている。
「…よし」
背に剣を負い、荷を確かめる。直接出向いていくつもりになっていた。
本来ならシートスの許可なしに、物見が隊を離れることなど言語道断の行為だったが、今のユカルには、その掟さえも取るに足らぬことのように思える。
(何か、変だ)
勘働きも物見の才能の一つ、ならば従ってもいいはずだ。
怯みかける心を、脳裏に過ったユーノの笑顔が後押しした。
(叱られたら謝ればいい)
愚かな振舞いだという自覚はある。だが、自分の愚かさに気づき、過ちを認め、懸命に償おうとする者を、シートスは無闇に貶めたりしない。
いざ平原竜に跨がろうと顔を振り上げたユカルは、視線の先にこちらへ向かって駆けてくる3騎の武人に気づいた。2騎は平原竜、もう1騎は栗毛の馬だ。
(『星の剣士』(ニスフェル)?)
ほっとして気を緩めかけたユカルは、次の瞬間、今までよりも緊張した。
栗毛の馬の額に、ユーノの呼び名の一因ともなった白い星がない。
(『星の剣士』(ニスフェル)じゃない)
だが、明らかにシートス達とわかる、その2騎の平原竜の近くに、他の馬はいない。
「っ」
矢も盾もたまらず、ユカルは自分の平原竜に飛び乗るや否や、シートス達に向かって駆けた。向こうもすぐにユカルの接近に気づいたらしい。乗り手が誰だか確認する短い沈黙の後、厳しい叱責が飛んで来た。
「ユカル! 物見のくせに勝手に隊を離れるな!!」
びくっ、と体を竦ませながらも、ユカルはなおもシートスに向かって平原竜を駆り続けた。
「ユカル!」
「隊長!」
声を荒げて叱りつけようとするシートスの声に、精一杯の意地で声を張って応じる。
「『星の剣士』(ニスフェル)は一緒じゃないんですか?!」
「何…?」
いつものように、詰りはしないが、十分に骨身に堪えるたしなめを口にしようとしたシートスが、ぎくりとした表情になった。ユカルはますます不安をかきたてられて、平原竜を駆って相手の側まで迫り、そこでようやく、馬に乗っている男に気づいて目を見開いた。
「アシャ…ラズーン…」
「光栄だね。名前を知っていてくれるとは」
にこりと相手が微笑する。息を呑むほど艶やかな笑み、話には聞いていたが、実際に見たのは数えるほど、それもこれほど間近にその美貌に出くわすと、言うべきことばが雲散霧消してしまう。
しかもこの相手は、ただ美しいだけの人形ではない、『太皇』の第一正統後継者に選ばれたほどの才能の持ち主なのだ。
「ユカル」
シートスが、ごほん、とかなり白々しい咳払いをした。我に返ったユカルに改めて口を開こうとする、だがそれより先に、ユカルは迸るまままくしたてた。
「『星の剣士』(ニスフェル)を知りませんか?!」
隊長への敬意、アシャへの礼儀、そんなものを吹っ飛ばしていると気づいている、だがどれほど凄い人物であれ、今のユカルにとっては、ユーノの行方の方が遥かに大事だ。




