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「……ここにもいない、か」
野戦部隊隊長、シートス・ツェイトスは難しい顔で、草の上の野営の跡を見つめた。
黒く短い髭に囲まれた顔には、厳しいものが漂っている。
「隊長!!」
ドスッ、ドスッ、と疲れた平原竜の重い足音を響かせて、部下の1人が偵察から戻ってきた。
「どうだった?」
「それがおかしいんですよね。ガデロの奴らどころか、ここ数日、辺りをうろついていたモス兵士の姿もありません」
「ふうん」
シートスは髭に指を当て、考え込む。
「どうなったんですか? 『運命』の奴ら、スォーガから手を引くつもりなんでしょうか」
「そうは思えんな……ん?」
視線を上げて、シートスは赤茶色の草原を蹴散らしてくる一騎の武者に気づいた。栗毛の馬をひたすらに駆り立ててくる。かなり至急の用件と見える。
「隊長…」
部下が緊張した気配で剣の柄に手をかける。
「…いや」
シートスは馬上できらりと光ったものに気づいて眼を見開いた。笑みが零れる。
「大丈夫だ、敵じゃない」
「お知り合いですか」
「知り合いも知り合い…あれは、アシャだ」
「え!」
部下は高名な男の名に姿勢を正し、平原竜の手綱を握り直した。
騎馬の男の姿は、それほど待つまでもなく目の前に拡大されてきていた。鈍い日の光を浴びて、なお華やかに輝く金褐色の髪は、細い革ひもで留められている。その下にあるのは、馬の勢いに不似合いな優しい顔立ち、深く澄んだ紫の瞳は激情に炎とならんばかりなのが妙な不安定さをもたらしている。
「珍しい格好をしてるな。あの髪型はあまり好きじゃなかったはずだが」
「あの」
「ん?」
「あれ……男……でしょうね、やっぱり」
部下のぼんやりとした呟きにシートスは苦笑いした。
「それをあの方の前で口にするなよ。半殺しにされるぞ」
「はっ、はいっ!」
「シートス!」
突然響いた鋭い声に、部下は怯えた顔を一層強張らせた。何せ、名にし負う野戦部隊隊長を、シートスなぞと心安く呼びかける男を相手にしようというのだ。
「シートス!」
「お久しぶりです、アシャ・ラズーン」
「挨拶など後回しだ」
アシャはひどく苛立った声で応じた。上気した頬に、意図したわけではないだろうが、この上もなく悩ましい色を浮かべてことばを継ぐ。
「野戦部隊に『星の剣士』(ニスフェル)というのがいるそうだが」
「ええ、いますよ」
シートスは呆気にとられた。彼の知っているアシャというのは、『氷のアシャ』の噂通り、常に冷静沈着、どんなことにも動じない男で、シートスはアシャに感情の起伏があるのかと訝ったことさえあったのだ。それが、たかが『銀の王族』1人の行方にこれほど動揺している。
「『星の剣士』(ニスフェル)がユーノと名乗っているというのは本当か」
「ええ。セレドのユーノ、『銀の王族』で視察官はあなただと言っていました」
「そうか…」
アシャの顔に心底ほっとしたような表情が浮かび、彼は少し緊張を解いた。ぱさりと額に乱れかかった金の髪をかきあげながら、ようやく、シートスが自分に向けている奇異の眼に気づく。
「あ、その」
アシャはうっすらと赤くなって、ことばを重ねた。ただでさえ華やかな顔が、炎の色で開く花のように悪目立ちするのに、側に居た部下が礼儀もわきまえずにごくりと唾を呑む。だが、その反応に構わず、アシャは不安げに問いかけてきた。
「ユーノは無事なのか?」
「無事も無事」
シートスは微笑しながら平原竜の向きを変えた。呆然としている部下に、ついてこい、と眼で合図する。そのシートスに馬を並べながら、アシャはようやく落ち着いてきたようだ。
「あなたも聞いた通りですよ。『星の剣士』(ニスフェル)。『星の剣士』、の名前の方が恥じるでしょうな」
「…」
淡く微かな、どこか誇らしげな笑みがアシャの唇に滲んだ。
「それに、あの子の剣は何ですか? 『銀の王族』があれほどの剣を使えること自体が驚きだが…」
「どのように見える?」
「そうですね」
シートスは考え込んだ。頭の中にこれまで戦って来た相手を浮かべてみる。だが、どれもユーノの剣の冴えに重なる者はいない。シートスは軽く首を振って、ちらりとアシャを見やった。
「強いて言えば、あなたの……視察官の剣に似ている」
「…」
「もっとも、『銀の王族』のように優しくか弱い一族が、視察官の守備即攻撃の荒々しい剣を身につけられるとは思いませんが」
「そうだ、と言ったら」
「え?」
「視察官の剣を未完成ながら身につけた『銀の王族』だと言ったら?」
「……あなたが教えられたんですか」
シートスはアシャの悪戯っぽい眼が含んでいる問いに応えた。
「…道理で、並の野戦部隊じゃ敵わないはずだ」
「…」
ふっと悔しいほど魅力的な笑みがアシャの唇から零れた。教え子に対する自信と信頼、育て上げた存在の評価に満足した顔、今まで見たことのない大人びた微笑。
側に居た部下がもじもじと体を動かす。どうやら、その男もユーノに手合わせ願って、見事一本取られた口らしい。
「『銀の王族』が、視察官の剣を、ね」
繰り返しながら、シートスはユーノが初めて彼の前へ姿を現した時のことを思い出していた。
追い詰められた緊張感漂う黒い瞳、戦場ばかりを見てきているような振舞い、野戦部隊のふてぶてしい男達にもたじろぐことなく、ことばの端に宮廷生活を思わせる上品さが漂うのに、質素な天幕の生活も黙々と耐え忍んだ。
(なるほど)
シートスは平原竜の上に体を安定させながら考えた。
(アシャに見込まれた剣士ならば、それも頷ける…しかし)
ふと閃いたことばを口に乗せる。
「アシャ、『星の剣士』(ニスフェル)は、『あなたにとって』何か特別な人間なのですか?」
視察官の剣は特殊な剣だ。単に才能だけでは身に着けられない。感覚から組み直されると聞いたことがある。
だからこそ、それを視察官以外が使えるようにはならないとされる。生徒の教師への強い信頼、教師の生徒に対する深い理解、それらがうまく重なって初めて教えられる類のものだとも。
それだけ手間暇かかる難しい仕事、言い換えれば、それほど誰かに自分の全ての時間を注ぐような接し方をするアシャを、シートスは知らない。
(子ども? まさかな)
親子の絆ならあり得るかも知れない、だが、そんな絆自体がまずあり得ない。
「………」
沈黙があった。
駆け続ける草原、地平の彼方へ向けていた目を、緩やかにこちらに回してきたアシャが、低くぽつりと口にする。
「そうだ」
く、っと引き締められた唇が、先ほどまでの興奮を消し去っていた。削いだような線の頬、暗く陰った紫色の目の語る想いをシートスは読み取る。
「失うわけにはいかない、ですか」
「…」
(たとえ自分が側に居なくても、その命を守り切るために)
その想いの深さに価するのは、おそらく、世界でただ一人の存在だから。
「よろしい。では急ぎましょう」
「ああ」
怯えがちな2頭の馬と、重い地響き立てる2匹の平原竜は、速度を上げて野戦部隊の野営場所を目指した。




