第1話 掃立て(はきたて)
八月中旬、正午過ぎ。
都内、某マンションの地下駐車場。
かすかに蝉の鳴き声が響く薄暗い空間に、長い黒髪を垂らした少女がひとり、立っている。
少女が着ているのは、シンプルなデザインの白いワンピース。左肩から斜めに白いショルダーポーチをかけており、水色のサンダルを履いている。足元には、ハンドルを伸ばした状態の白いキャリーケースが置かれていた。
少女の顔立ちは――まだ幼さを色濃く残しているものの、かなり整っている。だが伏し目がちな彼女の黒い瞳には、すべてを諦めているような――陰鬱な暗い光が宿っていた。
少女――古桑ウイが、何かに気づいたように顔をあげる。
ゆっくりと、ウイは近くに停まっている白い高級車のほうを向き、その車の後ろにある壁を――そこで不規則に点滅している青白い電灯を見た。
まばたきをしながら、しばらくその電灯を見つめた後――もう何度目になるか、ウイはあたりを見回した。
いつもはたくさんの車が停まっている地下駐車場だが、盆休みに入っているからだろう、ずいぶんと空きが目立つ。ウイの近くに停まっているのも、白い高級車が一台だけだ。
遠く、車用の出入り口をちらりと見てから、ウイは額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐった。うつむきながら、反対側の手で自分の腰のあたりを探る。
ウイの華奢な指先が、ショルダーポーチの金具に触れた。肩にかけている白い革紐とポーチをつなぐ、金色の金具。
祈るように――あるいは縋るように、ウイがその金具を握りしめた瞬間。
地下駐車場に、エレベーターの到着音が響いた。しばらくして、キャリーケースを引く音と足音がそれぞれ複数、ウイの背後から近づいてくる。
「最後にもう一度だけ確認しておくけど、忘れ物はないね?」
物音に交じって抑揚のない男の声が――父の声がした。
それが自分に向けられた言葉ではないことを理解しているウイは、振り向かないし、返事もしない。
「お母さんは大丈夫だけど、ヨウくんは? お財布とか、携帯電話とか……」
同じように聞こえてきた穏やかな声も――母の声もまた、ウイに向けられたものではない。
ウイはうつむいたまま、ショルダーポーチの金具をさらに強く握りしめる。
「ないよ、大丈夫」
苦笑まじりにヨウが――ウイの兄が答えた。
「でも、本当にバットも持っていくの?」心配そうな声で母が訊く。「せっかくの帰省なんだし、大会も終わったばかりじゃない。ちょっとくらい休んだほうが……」
「母さん。今年の大会が終わったってことは、来年の大会が始まったってことだから。それに、俺たちは来年が――」落ち着いていたヨウの口調が一転、「ウイ!」と明るくなった。
背後から近づいてくる軽やかな足音にウイが身構えていると――すぐ隣までやってきたヨウに、「はい、これ」と頭の上に何かをのせられた。
ウイはショルダーポーチの金具から手を離し、自分の頭上を探る。どうやら帽子のようだが、ウイには少しだけサイズが大きい。帽子のつばを持ちあげながら、ウイは隣を見上げた。
「うん、似合ってる」
キラキラと音が聞こえてきそうなほど爽やかな笑顔を浮かべた美少年と――四歳違いの兄であるヨウと、目が合った。「俺とおそろいね」とヨウが自分の頭上を指差す。
つられてウイが視線をあげると、たしかにヨウも白い帽子を――正面に青色のアルファベットが大きく刺繍された、見覚えのある野球帽をかぶっていた。
「……これ、野球部の?」
ウイの問いに、うん、とヨウがうなずく。「今日も暑くなりそうだから、かぶっといて」
「……あ、」ありがとう、とウイは言おうとして――
――わたしが、埋めてあげればよかった。
フラッシュバックしたのは、赤黒い夕陽に照らされていた近所の公園。
ひどくうるさい蝉たちの鳴き声と、消えてしまった仔猫の死骸。
そして、寂しそうに微笑むヨウの姿――
気まずくなってしまったウイは、そっけなく「……うん」とだけ返事をした。
けれどヨウは、まったく気にしていないとでもいうように笑顔を浮かべたまま、ウイを追い越して白い高級車に近づいていく。
ふわり、と爽やかな匂いがウイの鼻先をくすぐった。制汗剤と柔軟剤が混ざりあった、夏の匂い。思わずウイは、ヨウの背中を目で追った。
今日のヨウはスポーティーな服装で、大きな青いスポーツバッグと白いバットケースの両方を右肩からさげている。そのバッグやケースを車体にぶつけないように右手で押さえながら、ヨウが助手席のドアノブに左手の指をかけた。
ピッ、と車が鳴る。ほとんど同時にドアの鍵がひらく音がした。
ドアノブをつかんだヨウが、車体の後ろを――そこにある壁を見る。トランクをあけて荷物を積むには、少し壁との距離が近い。
「ヨウ」
ウイたちの父――古桑ソウシが、白いキャリーケースを引きながら、ウイには一瞥もくれないままウイの横を通り過ぎていく。
ヨウの父親だけあってソウシは彫りの深い顔立ちで、背も高い。少し神経質そうに見えるのは、ソウシが角張った眼鏡をかけているからか、それとも彼の職業が外科医だからなのか。
白いポロシャツに黒いジーンズという格好のソウシが、「少し動かすから、車から離れていなさい」と運転席に乗り込んだ。
「はーい」
と、ヨウが返事をしながらウイの隣まで戻ってくる。
ウイは、自分の右隣に立ったヨウをちらりと見た。すぐにウイの視線に気づいたヨウがこちらを向き、「ん?」と優しく微笑みかけてくる。端整な顔立ちから繰り出されるその笑顔は、まるで少女漫画の世界から飛び出してきたヒーローのようだった。
実際、ヨウはとんでもなくモテる。
少し童顔ではあるものの、目鼻立ちがはっきりした顔で顎も細い。背も高く、ショートヘアの髪もサラサラだ。
幼い頃から野球漬けで、高校の野球部でも一年生からレギュラー。練習熱心なのだが、心配性な母の指導もあり日焼け対策はバッチリで、ほとんど日に焼けていない。
そのルックスの良さから、登下校中に写真や動画の撮影を求められるのは日常茶飯事で、複数の芸能事務所からも声をかけられているらしい。さらには学業も優秀で、男女問わず誰にでも優しいときている。
「どうしたの?」
ヨウに訊かれ、ウイは何も答えずに目をそらした。
あらら、とヨウが笑う。
つい感情的な態度をとってしまう自分の幼稚さが恥ずかしくなり、ウイは目を伏せた。
「ソウシさんがもっと早くに言ってくれれば、荷物だけでも先に送れたのに」
ウイたちの母――古桑ミツが、冗談めかした口調で言いながら、ヨウの右隣で立ち止まった。
おずおずと、ウイはミツを――兄の向こう側に立つ母を見る。ミツは聖母のような微笑みを浮かべながら、ヨウだけに慈愛の眼差しを向けていた。
鮮やかな青のロングスカートに純白のオーバーブラウス、そこにデニムジャケットを羽織ったミツは、二児の母とは思えないほどスタイルが良く、若々しい。
長く黒い髪も艶やかで、よく手入れされているのが一目でわかる。左耳で輝いているのは、ソウシから結婚指輪と一緒に貰ったという真珠のイヤリングだ。
「急に決まったことなんだし、仕方ないよ」
ヨウの声に、車のエンジン音が重なった。
動きだした白い車体をウイは一瞥し、地下駐車場の出入り口へと――そこから差し込んでくる陽光へと目をやった。
数時間後、ウイは自分のキャリーケースとともに石畳の上に立っていた。灰色の石畳は表面が滑らかで、かなり横幅が広い。大人が五人は横に並んで立てそうだ。
ウイが見つめている先――数メートル向こうには、石畳と同じように横幅の広い石段がある。石段の角度はゆるやかだが、全部で四、五十段ほどはあるだろうか。
あの石段をあがっていった先が――灰色の石垣の上で白い塀に囲まれているところが、ソウシの実家であるという。
新幹線と在来線、タクシーを乗り継いで遥々やってきただけあり、ソウシの故郷はかなりの田舎だった。四方を山々に囲まれた盆地で、広々としているが何もない。
タクシーでの移動中も、車窓から見えたのは、やたらと広い田んぼと古民家ばかりで――いや、ひとつだけ気になる建物はあったのだが――
「だけど、本当に良かったの?」ミツの声にウイが振り向くと、ちょうどミツがタクシーの後部座席から降りてくるところだった。「こんなに急に、二日も泊めてもらうなんて」
「母さんも孫に会いたがっていたし、そもそも今回の帰省は母さんが言いだしたことだからね」助手席に乗っていたソウシは、誰よりも早くタクシーから降りていた。今は、タクシーの運転手とともにトランクから一家の荷物を降ろしている。「おっと、もちろんミツさんにも会いたがっていたよ」
「あら、緊張しちゃう」
と、微笑んだミツだったが、一番最後にタクシーから降りてきたヨウを見るなり心配そうな顔になった。「ああ、ヨウくん。ちゃんと日焼け止め塗った? やっぱり、お母さんも手伝ったほうが――」
「大丈夫、ちゃんと塗ったから」ヨウが苦笑まじりに、「ありがとう、母さん」とミツに日焼け止めの容器を渡した。「父さん、それ持つよ」と青いキャリーケースを手にしたソウシのほうへと歩いていく。
「頼む」
「はい、これ母さんのでしょ」
「ありがとう、ヨウくん」
すでに自分のキャリーケースをソウシから受け取っていたウイは、ひとり家族から離れた場所で――道路と石段をつなぐ石畳の上で、ショルダーポーチの金具を握りしめた。目の前の現実から逃れるように、空を見上げる。
酷暑だった。
どこまでも澄んだ青空には、今日も雲ひとつ浮かんでいない。こうして立っているだけでも、ジリジリと肌が焼けていくような感覚がある。太陽はかなり傾いているものの、まだまだ空は明るい。
やがて青空のまぶしさに耐えきれなくなり、ウイはまばたきをしながら地上へと視線を戻す。かさ、と物音がした。
音が聞こえたほうを――横を向く。ちょうど日陰になっているところに――石畳の脇に、一本の低木が生えていた。その低木の葉に、何かがくっついている。
薄い黄色の――繭のようだ。
ウイは吸い寄せられるように、その繭へと右手を伸ばして――
「ウイ?」
ヨウの声に、ウイはびくりと身体を震わせた。
ヨウのほうを向くと、いつの間にか荷降ろしがすべて終わっていた。タクシーのトランクはしまっており、初老の運転手もすでに運転席の近くに立っている。
「本日は、御利用ありがとうございました」白い手袋をはめた手で制帽の向きを整えた運転手が、「それでは失礼します」と一礼した。
「ありがとうございました」
ソウシとミツ、そしてヨウが運転手に頭をさげる。やや遅れて、ウイも離れた場所から「……ありがとうございました」と会釈した。
青空の下、タクシーの音が遠ざかっていく。
「行こうか」
と、ソウシが石段をあがり始めた。当然のように、両手にひとつずつ――夫婦二人分のキャリーケースを同時に運んでいる。
「ウイ、それ貸して」
と、ヨウがウイの返事を待たずに、左手でウイのキャリーケースを運び始めた。自分のスポーツバッグとバットケースは右肩にさげたまま、軽い足取りで石段をあがっていく。
もう、とため息をついたミツが、ソウシとヨウを追って石段をあがり始めた。両親に置いていかれないように、ウイも石段に足をかけた。
誰もいなくなった道端で――ぶるり、と黄色の繭が震える。
一度、
二度、
三度と、徐々に震える間隔は短くなっていき――
ず、と繭を突き破って現れたのは――
赤黒く、
ねばついた、
人の――




