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第72話:覚悟の説得(一ノ瀬直也)

 扉が静かに閉まった。

 部屋の中に残ったのは、住田会長と、オレだけだ。


 窓の向こうには夕暮れの大手町。

 西日が経済連ビルの分厚いガラスを透かして、薄い橙の光が会議机の縁を照らしていた。


 しばしの沈黙。

 互いに、呼吸の音さえ聞こえるほど静かだった。


 オレは口を開いた。


「実は――洋上風力発電の件ですが、

 ご存知のように、政界から “GAIALINQとマージできないだろうか” という

 ご相談を非公式に頂いている状況です」


 会長は、深く頷いた。

 その表情には、疲労と苦渋がにじんでいた。


「……ご迷惑をおかけして、本当にすまない。

 ただ、こうなってしまうと、これまでのしがらみがある。

 そう簡単に身動きが効かないのだよ」


 その声には、責任ある者の重さがあった。

 誰かを責めるでもなく、

 ただ、事実だけを正直に口にする声音。


 オレはゆっくりと、会長の目を見た。


「会長。率直に申し上げます。

 先日、北京の中南海にある中国の要人――相当の高位にあった方で、現政権の顧問格でもある方のご親族の方から、重要な情報を伝えられました」


 会長の眉がわずかに動く。

 オレは言葉を続けた。


「中国側が、洋上風力発電に関する政界絡みの重要な “証拠” を、既に保持しているとのことでした。


 これは、そう遠くないうちに、いずれ何らかの形でメディア等に流布される可能性が高い――私はそう懸念しています」


 空気が一瞬、重く沈んだ。

 室内の時計の針の音が、やけに大きく響く。


「更にこのやり取り自体を……既に、警察当局も把握しています。

 先程私の秘書として御紹介した篠原瑠衣は、私の大学時代の後輩でもありますが、同時に、警察庁官房に所属するキャリア官僚でもあるのです」


 その一言で、会長の顔色が変わった。

 愕然としたまま、言葉を失っている。


「ご存知だと思いますが、GAIALINQは日米政権による手厚い公的支援を受けております。

 そのおかげもあり、プロジェクトもだいぶ進展してまいりました。


 特に、米国の現政権からの強い後押しを頂いております。そうした背景があればこそ、五井物産は総額40兆円以上の規模のプロジェクトに対する投資を迅速に決定させて頂けたのです。


 そして実は、日米のJVを統括するSPVを日本に設置する事も、他ならぬ現大統領ご自身によりご了解を頂いたという経緯がございます」


 オレは、懐から黒いレザーのカードホルダーを取り出した。

 中には、星条旗を刻印したメタル製のコインと、英字コードの入った金属タグが収められている。


「――これは?」


「チャレンジコインです。

 昨年8月、サンフランシスコでの式典の直前、米国大統領ご本人から直接、これを私は授与いただきました。

 そしてこちらが、シークレットサービスへの連絡コードです」


 住田会長は息を呑んだ。

 長い沈黙ののち、低く、言葉を絞り出すように言った。


「……君は……本当に、そこまで米国側の信任を受けているのか……」


 オレは頷いた。


「もしこのまま、GAIALINQに対して不合理な形で事業マージの話が進められるようであれば――私はこの連絡コードを用いざるを得なくなります。


 まして、その洋上風力発電に絡む政界利権の情報を中国が得ていて、更にそれを彼らにとって都合のよい形で政治的に利用しようとしている状況が明らかになれば、米国側が日本の政財界の自己統治能力、そして秘密保持能力に対して、非常に大きな疑念と不信感を抱かせてしまう事になるのは自明だと思われます。


 ですから私はそうなる前に、率直のこの状況を大統領に申し上げて、米国からの圧力によって、この状況を打開していただけるように、お願い申し上げなればなりません。


 私は日本の政財界全体が米国からそのように見られる事に、一人のこの国を愛する者として忸怩たる思いを抱きながらも、残念ながらCOOとして、GAIALINQへの米国政権からのご信任は維持しなければなりません。


 その為に、苦渋の決断をしなければならない、今まさに、その瀬戸際にあるのです。


 ですが――できれば、そんなことはしたくない。

 そのようなことを、させないでいただきたいのです」


 会長の手が、机の上で小さく震えていた。

 長いキャリアの中で、これほどの “厳しすぎる現実” を突きつけられたことは、おそらく一度もなかったのだろう。


「……しかし、では、どうすればいいのだ」

 あえぐような声だった。


 オレはまっすぐ答えた。


「会長。

 ここは会長ご自身に、お覚悟を決めていただきたいのです。

 ――事業撤退方針そのものを、御社――五菱商事自身の決断によって、電撃的に対外公表ください」


 住田会長の瞳が揺れた。

 長い沈黙のあと、深く背もたれに体を預ける。

 指先で額を押さえ、ゆっくりと息を吐いた。


「……なるほどな。

 君は、そこまで腹を括っているのか」


「はい。

 GAIALINQを守るためでもありますが、同時に――これは御社を、五菱商事を守るためでもあります。

 そして、あるいは日本の政財界全体をも……」


 その言葉に、会長はしばらく目を閉じていた。

 そして、やがて静かに頷いた。


「分かった。……もはや、こうなったら是非もないな。

 私の手で、この件は終わらせよう」


 その瞬間、オレは心の中で小さく息を吐いた。


 これで、少なくとも政治の迷路にGAIALINQが巻き込まれることはなくなる。

 五菱商事自身の手によって、“電撃的な事業撤退” そしてその “速やかなる対外公表” という決断が下されたのだ。


「ありがとうございます、会長」

 私が深く頭を下げると、住田会長は静かに笑った。


「――いや。

 こちらこそ、君のような若い人間に背中を押されるとは思わなかったよ。

 君はまだ20代半ばだと言うじゃないか。

 でも今話しをしていて分かったよ。

 五井物産さんが実に羨ましい。

 君のような人材がいるのだからあと30年は安泰だな……。

  

 我々にとっては非常に厳しい判断だが、これでいい。

 遅かれ早かれ、我々が払うべき代償だったのだと思う」


 その言葉を聞きながら、

 オレは胸の奥で小さく呟いた。


 ――これで、ほんの少しだけ。

 オレが背負っている荷物を軽くできたかもしれない。


 会長の目の奥には、

 どこか安堵の色が浮かんでいた。


「もう一度孫たちに入ってもらいましょう。

 あと少しだけ一ノ瀬COOと相談したい事もある。

 私が――洋上風力発電事業からの撤退に伴い、相応の覚悟をする以上は、今後の事を、孫にもいろいろと言い含めておく必要がある。

 すまないが、もう少し付き合ってもらいたい」


 オレは頷き、応接スペースを見に行った。

 外の応接スペースでは、RICOとお孫さんが楽しそうに笑っていた。

 その光景を見て、ほんの少しだけ救われた気がした。


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