この気持ちは、何なのでございましょうか?
麗らかな木漏れ日が揺れる。
茶会の準備が完了した庭の一角。
立派な錦鯉が跳ねる池を臨むように設置された茶席があった。
朱を基調とした茶の席は雅で、いかにも公家の庭であることを強調していた。
鹿威しのカツーンという音が、静けさをいっそう引き立てる。
その庭に机を用い、綺羅は一人――紙を広げていた。
墨を硯で溶かしながら、悩ましげに唇を尖らせる。
「お待たせして申し訳ありません!」
穏やかな空気を湛えていた庭に、血相を欠いて飛び込む青年。
急いできたのか、稽古の道着を身につけたままの許嫁――楓雅の姿を見て、綺羅はムッと目くじらを立てた。
「遅いです! 原稿が全く進みませぬ。早く座って、資料を寄越してくださいましッ」
一喝し、綺羅は楓雅を茶席の中へと招き入れる。
楓雅は血相を欠いて履物を脱ぎ、綺羅の前に正座した。
「すみません。稽古が長引いて……決して、虎姫を弄り倒して楽しんでいたわけじゃないですよ? 俺は少しも遊んでませんからね。虎姫が勝手に照れて拗ねただけです」
「なにごとですか、そのような羨ましい話。ちょっと、詳細をお聞かせ……って、原稿原稿!」
急かされて、楓雅は綺羅の前に何枚かメモ書きを差し出す。
綺羅はそれをふんだくると、素早く目を通した。
二人の間には、「許嫁」と言うには少し奇妙な関係が成り立っている。
綺羅は親衛隊の会報に連載をすることになった。そのために、楓雅から定期的に情報を仕入れているのだ。
元々、二人とも胡蝶を観賞してニヤけるという共通の趣味を持っていたため、楓雅も乗り気だ。むしろ、率先して情報提供している。
胡蝶の計らいで、長谷川家の一件は表沙汰にされなかった。
毒を盛られた件は広まる前に口止めされていたし、馬車も嫌がらせで片づけられた。
他の女官たちに紛れて包みに近づき、毒を盛った人物の正体もわかった。結局、綺羅が目撃した見覚えのない女官だったらしい。長谷川家に金で雇われ、綺羅の包みに毒を盛ったそうだ。
長谷川家当主は処分を受け、領地の一部を没収された。
帝都での居場所も失くすことになるだろう。
鶴子に関しては事件のすぐあとに結婚が言い渡された。
相手は彼女が想いを通わせていた文官影連秋栄だ。
堅物だが、胡蝶の側近の一人で信用に足る男である。
鶴子はほとんど無関係だったが、監視という名目を使って二人の結婚を承認させることにしたようだ。
実家から完全に逃れられるよう、胡蝶が配慮したのだろう。
鶴子が涙を流しながら、胡蝶に何度も礼を言っていたのを覚えている。
――どうか、二人でお幸せになって。わたくしも、がんばりますわ。
最後に見た鶴子の悪戯っぽい笑みを思い出して、綺羅は明るい気持ちになる。
「これ、綺羅嬢が用意してくださったんですか?」
侍女から出された茶請けの菓子を見て、楓雅が微笑む。
色とりどりに着色された美しい餡が、何かよくわからない形に造形されている。
花のようにも見えるし、虫のようにも見える。妖怪かもしれない。
むしろ、率直に表現するなら、様々な色が混ざった結果、醜い色に成り果てた団子、いや、塊であった。
楓雅が楊枝で餡の塊を慎重に突く様子を見て、綺羅は頬を染めた。
「そ、それはッ……食べなくて結構です。もとい、食べてはなりませぬっ」
「どうしてです? 良い色ですよ。お茶が何杯も進みそうだ」
「それは、わたくしの菓子をお茶で流し込む算段と考えますが、よろしゅうございますかっ!?」
早く原稿を仕上げなければならないのに……綺羅は心の中で葛藤しながらも、楓雅から菓子を取り返そうとした。
作ってくれと言われたので作ってみたが、やはり、上手くはいかなかった。
今更恥ずかしくなり、綺羅は筆を投げ捨てて手を伸ばす。
「お腹を壊しても知りませぬッ」
「毒を盛られても平気なんですよ? 大丈夫、覚悟は出来ています」
「覚悟しなければならないものを無理に食す必要はございませぬッ!」
二人の問答は続き、綺羅はついに腰をあげて手を伸ばす。
しかし、身体のバランスを崩して、そのまま前に倒れ込んだ。このままでは、頭から硯に突っ込んでしまうだろう。
「おっと、今ので食べちゃいました」
華奢な身体を墨の満たされた硯に突っ込む前に受け止め、楓雅が笑う。
綺羅は顔を真っ赤にして、楓雅を見上げた。
「不味くはありませぬか?」
「婚約者が作ってくださったものに文句を言える身分じゃありませんからね」
「それは不味いけれど、正直には申すことが出来ないということですね?」
二人の婚約に、綺羅は一つだけ条件をつけていた。
条件は一つ。
綺羅が楓雅と結婚しても良いと思えるようになるまで、待っていてくれることだ。
「そうとは言っていません」
楓雅は涼しげな表情で笑い、不貞腐れた綺羅の顔を覗き込む。
そして、両手でしっかりと捕まえるように抱きしめた。
「ただ」
自然な動作で顎に指が添えられ、視線を持ち上げさせられる。
綺羅は何のことか意味がわからないまま、優しげだが、悪戯っぽい灰色の瞳を見上げた。
最近、楓雅はことあるごとに綺羅を腕の中に収めてしまう。
流石に最初ほどは驚かなくはなったものの、未だに胸の動悸が激しくて身体が熱くなるのは治らない。
不快ではないが、何度体験しても慣れない感覚に戸惑うばかりだ。
「口直しをさせて頂ければ、嬉しいと思って」
優しくて、熱っぽくて、甘い視線が降り注ぐ。
誰かの身代わりではなく、まっすぐに綺羅を見ている視線。
綺羅に注がれる愛情の眼差し。
確かな想いを込めた視線に魅入られるように、綺羅は細い身体を震わせた。
次の瞬間、楓雅の顔がゆっくりと近づき、お互いの吐息が重なりそうになる。
その行為に驚いて、綺羅は思わず両目を見開きながら、身を引き剥がしてしまう。
「な、な、ななななにをしているのですかッ。無礼者!」
唇が触れる直前で逃げ出し、綺羅は甲高い声を上げた。
「ダメですか?」
「結婚前に手を出すとは、最ッ低ッにございます。こんな不貞者、まだまだ夫には出来ませぬ!」
「そんなに罵られると興奮してしまうじゃないですか! その『最ッ低ッ!』って言い方が最高に可愛くて好みです。平手打ちもセットでいただけると、完璧ですね」
「このド変態! 馬鹿! スケベ! ダメ男!」
「あー、良い声ですね。ふふっ、俺って幸せ者だなぁ」
なんだか、からかわれているだけのような気がして、綺羅はますます苛立ってしまった。
しかし、楓雅は再び綺羅の肩を引き寄せて、素早く耳元に顔を近づける。
その一連の動作があまりに俊敏で、綺羅に避ける術はなかった。
「じゃあ、これで我慢しておきますよ。異国では、あいさつみたいなものらしいですよ?」
耳朶で吐息を揺らし、囁かれた一言。
丸みを帯びた白い頬に唇を押し当てられ、綺羅は身体を硬直させた。
抱きしめられたときの比ではないくらい心臓が速い律動を刻み、意味がわからないくらい身体が熱くなる。
顔なんて、いつ爆発してもおかしくないくらい熱い。
このような真似をするなんて、やっぱり、あなたのことなど大嫌いッ!
喉元まで出かかっているのに、言葉に出来ない台詞。
恥ずかしすぎて、声さえ出せないのか。
それとも、本当は言いたくないのか。
可愛げのない言葉を呑み込みながら、綺羅はニッコリ笑う楓雅を睨みつけた。
「愛していますよ、世界で一番。虎姫愛好家仲間じゃなくて、早く夫になりたいです」
「またそのような恥ずかしいことを平気で……」
「愛の言葉は何度聞いても嬉しいし、何度言っても足りないものです。それに、綺羅嬢の反応が可愛らしいので、つい何度も言いたくなります。大好きですよ」
「う、うるさいッ! お黙りくださいな! まだまだ結婚してやりませぬっ!」
綺羅は耳まで赤くなった顔を手で覆いながら、逃げるように俯いてしまった。
不思議と不快ではない。
それは、単に自分が好かれているからだろうか。
それとも、もうこんなことを言われるのに慣れてしまったからなのだろうか。
よくわからない感情が渦巻いて、余計に混乱した。
――綺羅がそれを「憧れ」ではなく、「本当の恋」だと知るのには、長い時間を要するのであった。
おしまい
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『虎蝶姫 ~帝国の皇女は獣を統べる~』の前日譚となります。(たぶん、半年くらい過去)
時系列はこちらが先ですが、どこから読んでも通じる話になっています。
胡蝶の想い人や活躍は虎蝶姫の方で読めるので、気になる方は、そちらをお読みください。
作中で名前のみ登場した人物(暁貴、秀明)の話も順次UPしたいと思いますので、お待ちいただけると幸いです。