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魔女は森の奥でお茶を淹れる─大切なものひとつ、ください─  作者: 伊香 樹


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第二話 恋を忘れる薬

本日二度目の更新です

クラリッサの髪は、蜂蜜のような色をしていた。幼い頃、父はよくその髪を褒めてくれた。


「リサの髪は、南の国の麦畑みたいだな」


 まだ見ぬ南の国。風に揺れる黄金色の麦畑。父の言葉を聞くたび、クラリッサは自分の髪が少し誇らしくなった。いつか、自分の目で見てみたい。


 父が仕事で訪れたという港町も、山を越えた先の大きな市場も、海の向こうの知らない国も。クラリッサは幼い頃から、世界を旅することを夢見ていた。町で交易商を営む父は、旅のたびに珍しい品物を持ち帰った。青い硝子の小瓶。異国の文字が刻まれた銀貨。甘く不思議な香りのする香辛料。


 クラリッサはその一つひとつに目を輝かせ、父の話を聞きながら、小さなノートに行きたい場所を書き留めた。


『海の向こうにある、青い屋根の町』


『砂漠に咲く花を見てみたい』


『世界で一番大きな市場に行く』


 ページの端には、拙い絵も描いた。大人になったら父の仕事を手伝い、自分でも品物を仕入れてみたい。そしていつか、自分だけの交易路を見つけるのだ。そんな夢を、クラリッサは当たり前のように信じていた。


     * * *


 十九歳でアルベルトと婚約するまでは。アルベルトは同じ町の商家の息子だった。真面目で穏やかで、少し不器用なところもある、優しい青年。クラリッサが遠い国の話をすると、彼は楽しそうに笑った。


「君の話を聞いていると、僕まで旅をしている気分になるよ」


 ある春の日には、陽射しの中で彼女の髪に触れ、こう言った。


「綺麗な色だね。君によく似合っている」


 その言葉が嬉しくて、クラリッサは頬を染めた。あの頃の二人は、確かに幸せだった。


 婚約から二年が過ぎた頃、アルベルトは家業を本格的に任されるようになった。忙しさが増え、責任が増え、彼の口からは少しずつ、以前とは違う言葉が出るようになった。


「君はもう少し、落ち着いた服を着た方がいいんじゃないかな」


 最初は、そんな些細なことだった。クラリッサは鮮やかな青や、春の花のような黄色が好きだった。けれど、アルベルトの母親は控えめな色を好むと聞き、衣装箱の中には灰色や茶色の服が増えていった。


「今度、父と港まで仕入れに行こうと思うの」


 ある日、クラリッサがそう告げると、アルベルトは困ったように眉を寄せた。


「港は荒っぽい人間も多いだろう。君がわざわざ行くことはないよ」

「でも、商談の勉強にもなるし……」

「結婚したら、そんな危険なことはしなくていいんだ。僕が働くから、君は家を守ってくれればいい」


 彼はクラリッサの手を握った。


「君を大切にしたいんだよ」


 その言葉を、彼女は疑わなかった。愛する人が自分を心配してくれている。それなら、旅はいつかでいい。商売だって、結婚して落ち着いてから少し手伝えばいい。


 そうして譲ったものは、一つや二つではなかった。友人との遠出。父の仕入れへの同行。新しい品物を調べるための勉強。


 そして、ある日。


「その髪、少し目立ちすぎると思わないか?」


 アルベルトは申し訳なさそうに言った。


「もちろん綺麗だけれど、僕の妻になるなら、もう少し慎ましい方がいいと思うんだ」


 クラリッサは鏡の中の自分を見つめた。蜂蜜色の髪。幼い頃から、大好きだった色。


「……そうね。少し、明るすぎるかもしれないわ」


 数日後、彼女の髪は暗い栗色になった。アルベルトは満足そうに微笑んだ。


「うん。ずっと上品になったよ」


 クラリッサも微笑み返した。彼が喜んでくれるなら。それでいいのだと、思っていた。


     * * *


 五年目の秋。アルベルトは、クラリッサに婚約を解消したいと告げた。二人が初めて一緒に食事をした、あの店だった。


「……ほかに、好きな人ができたんだ」


 彼女はすぐには言葉の意味を理解できなかった。目の前のお茶から、白い湯気が立ち上っている。小さな角砂糖が、まだ皿に二つ残っていた。


「その人は、明るくて、物怖じしなくて……自分の考えをはっきり言うんだ」


 アルベルトは視線を落とした。


「一緒にいると、毎日が新鮮なんだよ」


 クラリッサは膝の上で、両手をぎゅっと握った。


「……私は?」

「君は優しいよ。本当に、よくしてくれた」


 彼は苦しそうに続けた。


「でも、最近の君は、何を聞いても僕に合わせるばかりで……」


 一度、言葉を切る。そして、決定的な一言を口にした。


「昔の君は、もっと生き生きしていたのに」


 クラリッサは何も言えなかった。どうして。何がいけなかったの。あなたが落ち着いた服を好きだと言ったから。


 あなたが旅は危ないと言ったから。あなたが、慎ましい妻を望んだから。私は――。けれど、そのどれも声にはならなかった。


「……わかったわ」


 ようやく絞り出したのは、それだけだった。店を出ると、冷たい風が頬を撫でた。暗い栗色の髪が、肩の上で揺れる。クラリッサは家に帰り、鏡の前に座った。


 そこに映っていたのは、落ち着いた色の服を着た、物静かな女だった。彼の好きなように振る舞った。彼が喜ぶことを選んだ。彼を失わないために、何もかも変えてきた。


 それなのに。


「……私の、何が残っているの?」


 鏡の中の女は、答えなかった。


     * * *


 婚約が解消されてから、クラリッサは何日も眠れずにいた。食事をしても味がしない。店先で客の笑い声が聞こえると、どうして自分だけがこんなに苦しいのだろうと思った。父は何も尋ねず、いつもより少し甘いお茶を淹れてくれた。


「リサ。今度の仕入れ、一緒に来るか?」


 昔なら飛びついた誘いだった。けれど、クラリッサは首を横に振った。


「……今は、いいわ」


 父はそれ以上、何も言わなかった。


 ある朝、クラリッサは古い引き出しを開けた。奥には、子供の頃のノートがしまわれていた。表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。最後に開いたのは、いつだっただろう。


 ページをめくると、幼い自分の文字が飛び込んできた。


『いつか、ぜんぶ見に行く!』


 思わず、涙がこぼれた。そのノートを鞄に入れたのは、なぜだったのか、自分でもわからない。ただ、家の中にいることに耐えられず、クラリッサは町を出た。


     * * *


 歩いて、歩いて。

 気がつくと、見知らぬ森の入口に立っていた。木々の間から、細い小道が続いている。こんな場所に道があったかしら。そう思いながらも、足は自然と奥へ向かった。


 やがて、木漏れ日の差す小さな庭と、石造りの家が見えてきた。窓辺には花が飾られ、庭には見たことのない薬草が育っている。扉の前まで来ると、不意に声がした。


「お客さんか?」


 足元に、一匹の黒猫が座っていた。長い毛並みに、緑色の瞳。クラリッサは驚いて立ち止まった。


「……猫が、喋った?」

「何だ。喋る猫は初めてか」

「普通は、初めてだと思うわ……」


 黒猫は尻尾をひと振りした。


「アデル。客だぞ」


 すると、家の中から柔らかな声がした。


「はいはい。今、お茶を淹れていたところよ」


 扉が開く。淡い緑色の服を着た女性が、穏やかに微笑んでいた。


「いらっしゃい。どうぞ、中へ」


 家の中には、乾燥させた薬草の香りが漂っていた。窓際の棚には小瓶が並び、木のテーブルには、花模様の茶器が置かれている。アデルと名乗った女性は、クラリッサの前に温かいお茶を差し出した。


「それで、今日はどんなご用かしら」


 クラリッサは両手でカップを包み込んだ。


「……私、忘れたい人がいるんです」


 アデルは黙って続きを待った。


「五年間、婚約していた人です。ずっと好きで……結婚するつもりでした」


 一度話し始めると、言葉は止まらなかった。彼との出会い。幸せだった頃のこと。少しずつ変わっていった関係。


 そして、別れの日のこと。


「もう、思い出したくないんです」


 クラリッサは俯いた。


「朝起きても、食事をしていても、彼のことばかり考えてしまう。どうして私じゃ駄目だったのか、何を間違えたのか……」


 声が震える。


「彼を好きだった気持ちだけでも、消してしまえたら……」


 アデルはしばらく考え、それから静かに尋ねた。


「その方の、どんなところが好きだったの?」

「……優しいところです」

「ほかには?」

「私の話を、楽しそうに聞いてくれて……」


 クラリッサの言葉が止まった。それは、いつの話だっただろう。


「……ほかには?」


 アデルは急かさなかった。クラリッサは長い沈黙のあと、小さく答えた。


「わかりません」


 アデルは頷いた。


「きっと、好きだった頃のその方も、あなたが好きだった気持ちも、本物だったのでしょうね」


 クラリッサは顔を上げた。


「でも、昔のその方と、今のその方は、同じではないのかもしれないわ」


 暖炉のそばで、黒猫が小さく鼻を鳴らした。


「人間ってのは、変わるからな」

「リュー」


 アデルがたしなめるように呼ぶと、猫は知らん顔で前足を舐めた。


「……彼を忘れる薬は、ありますか?」


 クラリッサは尋ねた。アデルはまっすぐに彼女を見つめた。


「ええ。作れるわ」

「ただし、ひとつだけ覚えておいてね」


 アデルは棚から、小さな硝子瓶を取り出した。


「この薬が消すのは、その方への恋心だけよ」

「……恋心だけ?」

「ええ。一緒に過ごした時間も、言われた言葉も、すべて覚えているわ。楽しかったことも、傷ついたことも」


 アデルは瓶をテーブルに置いた。


「そして、これから誰かを好きになることだってできる。ただ、その方への今の恋心は、もう戻らない」


 クラリッサは瓶を見つめた。忘れたい。もう、彼を好きでいることに疲れていた。


「……お願いします」


 アデルは頷いた。


「それなら、お代をいただくわ」

「お金なら、持っています」

「いいえ。私がいただくのは、あなたの大切なものをひとつ」


 クラリッサは戸惑った。


「大切なもの……?」

「そうね。あなたの鞄の中にある、古いノートをいただこうかしら」


 心臓が跳ねた。


「……どうして、それを?」


 アデルは答えず、ただ微笑んでいる。クラリッサは鞄からノートを取り出した。擦り切れた表紙。何度も開いて、少し緩んだ綴じ糸。


「これは……子供の頃から、行きたい場所を書いていたノートなんです」

「ええ」

「父が話してくれた国や、町や……いつか、自分で行ってみたいと思った場所が、全部……」


 彼女はノートを胸に抱いた。


「……これだけは、手放したくありません」


 アデルは困ったように眉を下げた。


「そう。とても大切なのね」

「はい」

「それなら、無理にとは言わないわ。薬を受け取らずに帰ることもできるのよ」


 クラリッサは唇を噛んだ。彼を忘れたい。けれど、ノートも失いたくない。


「……あれがなくなったら、私の夢までなくなってしまう気がして」


 その言葉を聞いたアデルは、不思議そうに首を傾げた。


「あら」


 そして、ごく当たり前のことのように言った。


「夢は、あなたの中にあるでしょう?」


 クラリッサは、アデルを見つめた。


「……私の、中に?」

「ええ。ノートは、あなたが夢を書き留めた場所。でも、夢を見つけたのはあなた自身でしょう?」


 アデルは穏やかに続けた。


「昔のあなたが知らなかった場所へ、これから行ってもいいのよ。書いていない景色を、見つけてもいい」


 クラリッサはゆっくりとノートを開いた。


『いつか、ぜんぶ見に行く!』


 子供の頃の自分は、なんて欲張りだったのだろう。そんなことを思って、小さく笑った。笑ったのは、何日ぶりだろう。


「……わかりました」


 彼女はノートを閉じた。


「これを、お渡しします」


 アデルは両手で丁寧に受け取った。


「確かに、いただいたわ」


 それから小鍋に薬草を入れ、澄んだ水を注いだ。青みがかった葉が湯の中でほどけ、淡い金色の光が立ち上る。最後に小さな花びらを一枚落とすと、湯は透明な薄桃色に変わった。アデルはそれを小瓶に移し、クラリッサへ差し出した。


「どうぞ」


 クラリッサは瓶の栓を抜いた。ほのかに甘い香りがした。アルベルトの笑顔が浮かんだ。初めて手を繋いだ日。


 髪を褒めてくれた春。結婚したら、どんな家に住もうかと話した夜。そして、最後の言葉。


『昔の君は、もっと生き生きしていたのに』


 クラリッサは目を閉じた。小瓶の中身を、すべて飲み干した。不思議なことに、何も起こらなかった。眩しい光も、胸を裂くような痛みもない。


 ただ、いつものように、暖炉で薪がぱちりと鳴った。


「……これで?」

「ええ」


 クラリッサはアルベルトの顔を思い浮かべた。彼が好きだった。確かに、好きだった。けれど。


「……あら」


 もう一度、彼の顔を思い浮かべる。胸は締めつけられなかった。戻ってきてほしいとも、抱きしめてほしいとも思わなかった。代わりに、小さな疑問が湧いた。


 ――私は、どうしてあんなにたくさんのことを諦めたのかしら。その答えは、まだ見つからなかった。


     * * *


 森を出ると、クラリッサは見慣れた町外れの道に立っていた。振り返っても、先ほどの小道は見当たらない。不思議な家だった。けれど、手の中には空になった小瓶があった。


 家に戻ると、父が帳簿を広げていた。


「おかえり、リサ」

「……ただいま、お父さん」


 クラリッサは父の隣に座った。帳簿には、来月の仕入れ先がいくつも書かれている。その中に、港町の名前を見つけた。


「お父さん」

「ん?」

「今度の仕入れ……私も、一緒に行っていい?」


 父の筆が止まった。


「もちろんだ」


 即座に返ってきた答えに、クラリッサは目を丸くした。


「でも、私、何年も商売から離れていたし……」

「だったら、また覚えればいい」


 父はそう言って笑った。


「リサは昔から、品物を見る目だけはよかったからな」


 その夜、クラリッサは久しぶりに商売の帳簿を開いた。わからないことだらけだった。仕入れ値と運賃の計算を間違え、父に何度も訂正された。翌日も、その翌日も、勉強した。


 初めて一人で任された小さな商談では、緊張のあまり値段を言い間違えた。悔しくて、帰り道で泣いた。薬を飲んでも、失敗が怖くなくなるわけではなかった。失った五年間が返ってくるわけでもなかった。


 それでも、不思議と翌朝が待ち遠しかった。少しずつ仕事に慣れた頃、クラリッサは髪を染めるのをやめた。伸びてきた根元には、懐かしい蜂蜜色が覗いていた。


「ずいぶん久しぶりだな、その色は」


 父が嬉しそうに言った。


「……変じゃない?」

「何が?」

「落ち着きがないように見えないかしら」


 父は声を立てて笑った。


「お前の髪を見て、そんなことを言う奴がいるのか?」


 クラリッサも、つられて笑った。そして、次の仕入れのために、青い旅行着を新しく仕立てた。かつて自分が一番好きだった色だった。


     * * *


 それから数か月が過ぎた。クラリッサは父に同行し、いくつもの町を訪れた。山あいの市場では、香り高い茶葉を仕入れた。川沿いの町では、織物職人たちと取引をした。


 初めて訪れる土地では、道に迷うこともあった。言葉の通じにくい商人と値段を交渉し、何時間もかけてようやく契約を結んだこともある。失敗もした。損を出して落ち込んだ夜もあった。


 けれど、少しずつ自分の判断で品物を選べるようになった。そして、ある春の日。クラリッサは海辺の町に降り立った。青い屋根が連なる、硝子細工で有名な港町。


 幼い頃、父から何度も聞いた場所だった。港を吹き抜ける風は潮の香りがした。通りには異国の言葉が飛び交い、店先には色とりどりの硝子細工が並んでいる。その中の一軒に、クラリッサは足を止めた。


 窓辺に飾られた、小さな青い硝子の鳥。陽射しを受けて、透き通る翼が輝いていた。


「……綺麗」


 幼い頃、父が持ち帰ってくれた青い小瓶を思い出した。あの小瓶を見ながら、ずっと想像していた景色。それが今、目の前にある。クラリッサは工房を訪ね、職人と話をした。


 硝子の色を出すための工夫。壊れやすい品物を遠くへ運ぶ方法。そして、町の人々がどんな品物を好むのか。何度も話し合い、彼女は小さな硝子細工を仕入れる契約を結んだ。


 父の助けを借りず、自分でまとめた初めての大きな取引だった。夕暮れ、港の階段に腰を下ろしたクラリッサは、海を眺めた。水平線の向こうには、まだ知らない国がある。見たことのない景色も、会ったことのない人々も。


「……まだ、こんなにたくさん」


 涙が一粒、膝に落ちた。でも、それは悲しい涙ではなかった。クラリッサは笑った。心から。


 昔の自分がそうしていたように。


     * * *


 港町での取引を成功させたクラリッサの名は、少しずつ商人たちの間に知られるようになった。彼女が選んだ青い硝子細工は町で評判になり、遠方から注文が入るようになった。かつてのような蜂蜜色の髪。鮮やかな色の服。


 そして、商売の話をするときに輝く瞳。それは、アルベルトが知っていた頃のクラリッサとは、まるで違っていた。いや。彼が初めて恋をした頃の彼女に、よく似ていた。


「……クラリッサ?」


 商人たちが集まる市場で、アルベルトは思わず声をかけた。クラリッサは振り向いた。


「あら、アルベルト。久しぶりね」


 その笑顔は、驚くほど自然だった。


「君……随分、変わったね」

「そうかしら?」

「髪も、元に戻したんだ」

「ええ。やっぱり、この色が好きだから」


 アルベルトは胸が締めつけられるのを感じた。こんなに楽しそうに笑う彼女を、最後に見たのはいつだっただろう。その日から、彼は何度もクラリッサの姿を探すようになった。明るく、自信に満ちた彼女。


 商人たちと堂々と交渉する姿。新しい品物を前に、子供のように目を輝かせる姿。かつて自分が愛した彼女が、そこにいた。そして彼は、今度こそ失いたくないと思った。


 ある夕方、アルベルトは店じまいをしていたクラリッサを訪ねた。


「少し、話せないかな」

「ええ。少しなら」


 彼は息を呑んだ。


「クラリッサ。僕は……君と別れたことを後悔している」


 クラリッサは静かに彼を見た。


「そうなの?」

「もう一度、やり直せないだろうか」


 彼女の手に触れようとすると、クラリッサはそっと一歩下がった。


「……ごめんなさい」


 その声は穏やかだった。


「私は、やり直したいとは思わないわ」


 アルベルトは愕然とした。かつて、あんなにも自分を愛してくれた彼女が。まるで、もう自分のことなど――。


「……君は、僕を恨んでいるのか?」


 クラリッサは少し考えた。


「いいえ」


 そして、首を振った。


「ただ、もう好きではないの」


     * * *


 アルベルトは、すぐには諦められなかった。けれど、何度話しかけても、クラリッサの答えは変わらなかった。彼女は彼を憎んでいるわけではない。それどころか、かつての知人として、穏やかに接してくれる。


 ただ、そこに恋心はなかった。ある日、アルベルトはクラリッサの父と偶然顔を合わせた。彼は、娘の旅の話を嬉しそうに語った。


「リサは本当によくやっているよ。昔からあの子は、知らないものを見るのが大好きでね」


 父は懐かしそうに笑った。


「婚約してからは、すっかり旅の話もしなくなっていたが……またあんなふうに笑ってくれるようになって、よかった」


 アルベルトは、言葉を失った。旅の話をしなくなったのは、誰のためだった。明るい服を着なくなったのは。髪を染めたのは。


 そして、自分の意見を言わなくなったのは。――君は、もっと落ち着いた方がいい。――旅なんて、僕に任せておけばいい。――僕の妻になるんだから。


 彼女が望みを諦めるたび、自分は安心していた。彼女は自分を愛している。自分のために変わってくれる。そのことに、甘えていた。


 そして、彼女がすっかり変わってしまうと、今度は昔の彼女がよかったと言ったのだ。アルベルトはようやく理解した。彼女から笑顔を奪っていたのが、ほかでもない自分だったことを。数日後、彼はもう一度クラリッサを訪ねた。


「……すまなかった」


 今回は、復縁を求める言葉から始めなかった。


「君の好きだったものを、僕は一つずつ奪っていたんだね」


 クラリッサは黙って聞いていた。


「君を守っているつもりだった。でも、本当は……自分に都合のいい妻になってほしかっただけなんだ」


 彼は深く頭を下げた。


「本当に、すまなかった」


 クラリッサはしばらく彼を見つめていた。


「……謝ってくれて、ありがとう」

「クラリッサ、もし――」

「でもね、アルベルト」


 彼女は静かに首を振った。


「あなたを許すことと、もう一度好きになることは、別なのよ」


 アルベルトは何も言えなかった。


「あなたと過ごした幸せな時間まで、嘘だったとは思わないわ。でも、私はもう、あの頃には戻りたくないの」


 その声には、迷いがなかった。やがて彼は、小さく頷いた。


「……そうだね」


 今度こそ、彼女の望みを尊重しよう。アルベルトはもう一度頭を下げ、静かに去っていった。クラリッサはその背中を見送った。胸は痛まなかった。


 ただ、長い物語が終わったのだと思った。


     * * *


 それから間もなく、クラリッサは次の旅へ出ることになった。今度は父と別の道を行き、自分が選んだ品物を、自分の名前で仕入れる。旅立ちの前日、彼女は文具店に立ち寄った。棚には、大小さまざまなノートが並んでいた。


 その中から、青い布張りの一冊を選ぶ。新品の表紙は、まだ硬い。開いた最初のページには、何も書かれていなかった。クラリッサは少し考え、羽根ペンを取った。


 昔のように、行きたい場所を並べてもよかった。でも、今は違う。彼女は、あの港町で見た景色を描き始めた。青い屋根。


 夕陽に染まる海。窓辺に飾られた、硝子の小鳥。そして、その下に小さく書いた。


『これから、どこへでも行ける。』


 翌朝。父に見送られ、クラリッサは馬車に乗り込んだ。蜂蜜色の髪が、朝の光を受けて輝いている。彼女は笑顔で手を振った。


「行ってきます!」


 馬車はゆっくりと走り始めた。行き先には、まだ見ぬ景色が待っている。そして、いつかまた誰かを好きになる日が来るかもしれない。けれど今は、そんなことを急いで考える必要はなかった。


 彼女には、やりたいことが山ほどあるのだから。



     * * *



 森の奥の小さな家では、アデルが古いノートを開いていた。擦り切れた表紙。幼い文字。拙い絵で描かれた、たくさんの憧れ。


 窓辺で寝そべっていたリューが、片目を開けた。


「ずいぶん古いノートだな」

「ええ。とても大切にされていたものよ」

「それを取り上げて、あの娘は夢を諦めなかったのか?」


 アデルは微笑んだ。


「いいえ。夢は一度もなくなっていなかったのよ」

「ふうん?」

「ただ、もう一度追いかける勇気が、少し足りなかっただけ」


 リューは尻尾を揺らした。


「それで、恋心を消してやったわけか」

「そうね」

「人間は面倒だな。好きになったり、嫌いになったり、忘れたがったり」

「ふふ。リューは、誰かを好きになったことがないの?」

「俺は猫だぞ」

「あら、そうだったかしら?」


 リューは返事をせず、窓の外へ顔を向けた。アデルは小さく笑うと、ノートをそっと閉じた。そして、棚の引き出しに大切にしまった。その隣には、小さな花の刺繍が施された白いハンカチが、丁寧に畳まれていた。


「さて」


 アデルは立ち上がり、お茶の準備を始めた。


「今日は、どんなお客さんが来るのかしら」


 森の奥では、今日も静かに風が吹いていた。

最後までご一読いただきありがとうございました。

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