第一話 最後の約束
初投稿です。どうぞよしなに。
更新は不定期ですが、6話前後投稿予定です。
「お母さんなんて、大嫌い!」
それが、母に向けた最後の言葉だった。
* * *
リアが暮らす町は、王都から馬車で三日ほど離れた、小さな田舎町だった。石畳の通りにはパン屋や仕立て屋が軒を連ね、朝になれば焼きたてのパンの香りが漂う。人々は互いの顔を知っていて、誰かが風邪をひけば隣家から温かなスープが届けられるような、穏やかな町である。
リアはその町で、母と二人きりで暮らしていた。父はリアが幼い頃に亡くなった。父の顔はもうぼんやりとしか覚えていないけれど、寂しいと思ったことはあまりなかった。
母が、いつも笑っていたからだ。
朝は誰よりも早く起きて食事を作り、昼は近所から預かった針仕事に精を出し、夜になればリアの話を聞きながら、また針を動かしていた。働き者で、少し心配性で、何かにつけて世話を焼きたがる母。十六歳になったリアには、それが少しだけ煩わしくなっていた。
「リア、上着は持った?」
「今日は暖かいからいらないわ」
「でも夕方は冷えるでしょう?」
「大丈夫だってば」
「それから、お昼はちゃんと食べるのよ」
「もう! 子供じゃないんだから!」
そんなやり取りが、いつもの朝の風景だった。リアは春から町の仕立て屋で働き始めるつもりだった。母に教わった針仕事は得意だったし、店主にも腕を褒められている。いつまでも母に守られているのではなく、今度は自分が母を支えたかった。
けれど母は、リアが働きに出る話をするたびに、少し寂しそうな顔をするのだった。
「そんなに急いで大人にならなくてもいいのよ」
そう言って微笑む母に、リアはいつも腹を立てた。
――私はもう、ちゃんと一人でやっていけるのに。
最近、母はよく咳をしていた。針仕事の途中で手を止めたり、台所の椅子に腰掛けて休んだりすることも増えた。心配して尋ねても、母は決まって笑って答える。
「ちょっと疲れただけよ」
リアも、それ以上は聞かなかった。母は昔から働きすぎるところがあったし、最近は仕立ての注文が重なっていたから。少し休めば、また元気になる。そう思っていた。
あるいは、そう思いたかっただけなのかもしれない。
* * *
その日の夕食は、豆と野菜の温かなスープだった。
「リア、仕立て屋さんのお仕事だけどね」
母が静かに切り出した。
「もう少し、待ってみてもいいんじゃないかしら」
リアはスプーンを止めた。
「……どうして?」
「お店で働くのは大変でしょう。まだ十六歳なんだもの。もう少し家で――」
「またそれ?」
声が思ったより大きく響いた。
「お母さんはいつもそう! 私が何かしようとすると、まだ早いって!」
「そんなつもりじゃないのよ。ただ……」
「ただ、何? 私が一人じゃ何もできないと思ってるんでしょう?」
母は困ったように眉を下げた。
「違うわ。リアがしっかりしているのは、母さんが一番よく知っているもの」
「だったら、どうして!」
母は何かを言いかけて、小さく咳き込んだ。リアは一瞬、言葉を詰まらせた。
「……大丈夫?」
「ええ。ごめんなさいね」
母は胸元を押さえ、いつものように微笑んだ。その笑顔が、なぜかひどく腹立たしかった。いつもそうだ。心配しても、大丈夫だと言う。
何を考えているのか、何を心配しているのか、肝心なことは何も話してくれない。それなのに、自分のことばかり子供扱いする。
「もう、放っておいてよ!」
リアは椅子を立った。
「私のことなんて、何もわかってないくせに!」
「リア……」
「お母さんなんて、大嫌い!」
言ってしまった瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。けれど、一度口にした言葉は戻せない。母はしばらく黙っていた。そして、ひどく寂しそうに、それでも優しく微笑んだ。
「……そうね」
小さな声だった。
「でも、母さんはね、リアには笑っていてほしいの」
リアは返事をしなかった。そのまま自分の部屋へ駆け込み、乱暴に扉を閉めた。謝ろうと思ったのは、それから一時間ほど経ってからだった。けれど、今さらどんな顔をして謝ればいいのかわからない。
明日の朝でいい。明日、いつものように「おはよう」と言って。それから、昨日はごめんなさいと伝えればいい。きっと母は笑って許してくれる。
いつも、そうだったから。
けれど。
その「明日」は、二度と訪れなかった。
* * *
母が倒れているのを見つけたのは、翌朝のことだった。町の医者が駆けつけたときには、もう手遅れだった。母は長い間、胸の病を患っていたらしい。医者の話では、本人は以前から病状を知っていたという。
「娘には、心配をかけたくないと……」
医者はそれ以上、何も言わなかった。葬儀の日、リアは泣かなかった。近所の人々が次々に訪れ、母の思い出を語っては涙を拭った。それでもリアは、静かに頭を下げ続けた。
母は、笑っていてほしいと言った。だから泣いてはいけない。泣いたら、また母との約束を破ってしまう。そう思った。
一週間が過ぎた。二週間が過ぎた。リアは家の掃除をし、食事を作り、母の残した針仕事を片づけた。仕立て屋の店主は、落ち着くまでゆっくり休んでいいと言ってくれた。
ありがたかった。けれど、何もすることがない時間が恐ろしかった。ふとした瞬間に、母の姿を探してしまう。台所に立てば、二人分の器を取り出しかける。
夜になれば、隣の部屋から針を動かす音が聞こえる気がする。そのたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。それでも涙は出なかった。泣きたいのに、泣けない。
笑おうとしても、うまく笑えない。鏡に映る自分の顔は、まるで知らない誰かのようだった。
ある日の午後。リアは母の裁縫箱を片づけていて、一枚の白いハンカチを見つけた。隅に、小さな花の刺繍がある。幼い頃、母が縫ってくれたものだった。
花びらの形は少しいびつで、糸の色もところどころ違っている。それでもリアは、このハンカチが大好きだった。母の手の温もりが、まだ残っているような気がしたから。リアはハンカチをそっと畳み、ポケットにしまった。
その夜、町の古い噂を思い出した。
――森の奥には、魔女が住んでいる。
どれほど探しても見つからない家。けれど、本当に助けを必要としている者だけは、不思議とそこへたどり着けるのだという。昔話だと思っていた。それでも。
「……お母さんに、会いたい」
誰もいない部屋で呟いた声は、驚くほど小さかった。
「一度だけでいいから……」
謝りたい。嫌いだなんて、本当は思っていなかった。大好きだった。ずっと、ずっと。
それだけを伝えたかった。
* * *
森に入ったのは、翌朝だった。町外れの森は古く、奥へ進むほど木々が密集している。リアは小さな鞄を肩に掛け、木漏れ日の落ちる道を歩いた。最初のうちは、見慣れた小道だった。
けれど、いつの間にか辺りの景色が変わっていた。木々の間を抜ける風は穏やかで、どこからか甘い花の香りが漂ってくる。見覚えのない白い花が、道の両脇に咲いていた。
「……こんな道、あったかしら」
立ち止まって振り返る。来たはずの道が、見当たらなかった。代わりに、木々の向こうから微かに煙が立ち上っているのが見えた。煙突だ。
誰かの家がある。リアは吸い寄せられるように、そちらへ足を向けた。やがて木々が途切れ、小さな家が姿を現した。石造りの壁と木の柱。
緑がかった屋根には柔らかな苔が生え、窓辺には白や薄桃色の花が飾られている。庭には薬草が整然と植えられ、軒先には乾燥させた草花の束が吊るされていた。どこからどう見ても、ただの薬草家の住まいだった。
「……ここが、魔女の家?」
リアが呟いたとき。
「あら?」
庭の奥から声がした。振り向くと、一人の女性が薬草の籠を抱えて立っていた。柔らかく波打つ淡い茶色の髪を、花飾りで緩くまとめている。生成りのブラウスに、薄緑色のワンピース。
袖口には繊細なレースが揺れていた。女性はリアを見ると、穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。お客様かしら?」
「あ、あの……」
リアは慌てて頭を下げた。
「魔女を探しているんです。この森に住んでいるって聞いて……」
「まあ、魔女を?」
女性は少しだけ目を丸くした。それから、何でもないことのように言った。
「そう。なら、まずはお茶にしましょうか」
「……え?」
「ずいぶん歩いたでしょう? ちょうど焼き菓子もあるのよ」
あまりにも普通の返事だった。リアは困惑した。魔女といえば、恐ろしい呪文を唱えたり、不気味な薬を煮込んだりするものではないのだろうか。こんなふうに、庭で薬草を摘んでいる人が魔女なのだろうか。
「さあ、どうぞ」
女性は籠を抱え直し、家の扉を開いた。足元を、黒くふわふわした猫がすり抜けていった。
* * *
家の中は、外観以上に居心地のよさそうな場所だった。暖炉のそばには柔らかなソファが置かれ、棚には薬瓶や古い本が並んでいる。開いた窓から風が吹き込み、白いレースのカーテンをふわりと揺らした。リアが椅子に座ると、女性は花模様のティーカップを二つ用意した。
「私はアデル。あなたのお名前は?」
「……リア、です」
「リア。素敵なお名前ね」
アデルはそう言って、温かなお茶を注いだ。甘い花の香りが広がった。
「蜂蜜を少し入れてあるの。苦手じゃないかしら?」
リアは首を振った。両手でカップを包む。指先が、じんわりと温まっていく。
「それで、リア」
アデルは向かいの椅子に腰掛けた。
「何か、お困りのことがあるのでしょう?」
その声は、驚くほど穏やかだった。何も責めず、何も急かさない。ただ、リアが話し始めるのを待っていた。リアは俯いた。
「……お母さんが」
言いかけて、喉が詰まった。
「お母さんが、死んでしまったんです」
アデルは黙って頷いた。
「私、ひどいことを言ってしまって……」
ぽつり、ぽつりと、言葉がこぼれた。母との最後の喧嘩。病気を隠されていたこと。少しだけ様子がおかしいと思っていたのに、何もしなかったこと。
謝ろうと思っていたこと。そして、母の最後の言葉。話しているうちに、リアの手は膝の上で固く握られていた。
「お母さんは、笑っていてほしいって言ったんです」
「ええ」
「だから、私……泣いちゃいけないと思って……」
声が震えた。
「でも、もう、どうしたらいいのかわからないんです」
アデルは静かに聞いていた。暖炉の前では、黒猫が丸くなって眠っている。長い沈黙のあと、リアは顔を上げた。
「お願いです。魔女さん」
アデルの瞳を見つめる。
「一度だけ、お母さんに会わせてください」
アデルは少しだけ目を伏せた。
「……そうね」
そして、静かに首を振った。
「亡くなった人を生き返らせることは、私にもできないわ」
リアの胸が沈んだ。
「過ぎてしまった時間を戻すことも、できないの」
「……そう、ですか」
やっぱり駄目なのだ。どんな魔法でも、母にはもう会えない。そう思ったとき。
「でもね」
アデルが続けた。
「夢の中なら、少しだけお手伝いできるかもしれないわ」
「……夢?」
「ええ。あなたの心に残っているお母様に、会いに行くの」
リアは息を呑んだ。
「本当に……?」
「ただし、それが本当にお母様の魂なのか、それともあなたの記憶が見せる夢なのかは、私にも保証できないわ」
アデルは優しく微笑んだ。
「それでも、会いたい?」
リアは迷わず頷いた。
「会いたいです」
たとえ夢でも。たとえ幻でも。もう一度、母の声が聞けるのなら。アデルは静かに立ち上がった。
「それなら、お薬を用意しましょう」
* * *
アデルが戻ってきたとき、その手には小さな硝子瓶があった。瓶の中には、淡い金色の液体が揺れている。
「今夜、眠る前にこれを飲んでちょうだい」
リアは瓶を受け取ろうとした。けれど、アデルはまだ手を離さなかった。
「その前に、一つだけ」
「……はい」
「お代をいただかなくてはね」
リアは慌てて鞄を探った。
「私、あまりお金は持っていなくて……」
「お金はいらないわ」
アデルは首を横に振った。
「私がいただくのは、あなたが今、一番大切にしているものを一つだけ」
「一番……大切なもの?」
リアは困ってしまった。立派な宝石も、高価な装飾品も持っていない。家にあるものだって、どれも古びた日用品ばかりだ。
「……私、そんなに価値のあるものは……」
「価値というのはね、リア」
アデルは微笑んだ。
「必ずしも、お金で決まるものではないのよ」
それから、そっとリアの膝元へ視線を落とした。
「あなたのポケットにあるもの。見せてもらえる?」
リアは驚いて、自分のポケットに手を入れた。指先に、柔らかな布が触れた。白いハンカチ。隅には、少し不格好な花の刺繍。
「……これ?」
「ええ」
「でも、これは……」
リアはハンカチを握りしめた。
「お母さんが、作ってくれたものなんです」
「そうでしょうね」
アデルの声は穏やかだった。
「大切なものなのでしょう?」
リアは頷いた。母が縫ってくれた、たった一枚のハンカチ。小さな頃から、ずっと持っていたもの。母が亡くなってからは、外へ出るときも、眠るときも、いつもそばに置いていた。
「……これを、渡さなきゃいけないんですか?」
「ええ。もし私の魔法を望むのなら」
アデルは、はっきりと答えた。
「でも、決めるのはあなたよ。無理に渡す必要はないわ」
リアはハンカチを見つめた。母との思い出が、いくつも浮かんでくる。花の刺繍が出来上がった日。母は少し恥ずかしそうに笑っていた。
『あんまり上手じゃないけれど、使ってくれる?』
幼いリアは、嬉しくて何度も頷いたのだ。それからずっと、大切にしてきた。手放したくない。
けれど。
「……お母さんに、会いたい」
リアは小さく呟いた。そして、ゆっくりとハンカチを差し出した。アデルはそれを両手で受け取った。
「確かに、お預かりしたわ」
そう言って、ようやく硝子瓶をリアに渡した。
「今夜は、ゆっくりお休みなさい」
* * *
その夜。リアは自分の寝台に腰掛け、小さな瓶を見つめていた。窓の外には、丸い月が浮かんでいる。瓶の栓を抜くと、どこか懐かしい花の香りがした。
リアは目を閉じ、一息に薬を飲み干した。甘く、ほんの少しだけ苦い味がした。それから寝台に横たわり、静かに目を閉じた。いつの間に眠ったのだろう。
気づくと、リアは懐かしい台所に立っていた。窓から朝の光が差し込み、鍋からは温かな湯気が立ち上っている。まな板の上では、刻まれた野菜が小さな山を作っていた。
そして。
「リア?」
懐かしい声がした。振り向くと、そこに母がいた。いつものエプロンを着けて。いつものように、少し困った顔で微笑んでいる。
「どうしたの? そんなところに立って」
「……お母さん?」
声が震えた。母は不思議そうに首を傾げた。
「ええ。母さんよ」
リアは駆け出した。
「お母さん!」
勢いよく抱きつく。母の体は温かかった。懐かしい石鹸の匂いがした。
「まあまあ、どうしたの?」
母は驚きながらも、リアの背中に腕を回した。
その瞬間。ずっと胸の奥に押し込めていたものが、音を立てて崩れた。
「ごめんなさい……!」
声がこぼれた。
「ごめんなさい、お母さん……!」
「リア?」
「嫌いなんて、嘘なの……! 本当は、大好きで……!」
言葉が続かなかった。
「病気だったのに……気づいてたのに……私、何にも……!」
母は何も言わず、リアの背中を撫でていた。昔と同じ、優しい手だった。
「……ごめんね、リア」
やがて母が言った。
「母さんも、あなたにちゃんと話すべきだったわ」
リアは顔を上げた。
「あなたが心配してくれていたこと、ちゃんとわかっていたのよ」
「じゃあ、どうして……」
「怖かったのかもしれないわね」
母は少し寂しそうに笑った。
「あなたが一人で歩き始めるのが寂しくて。残された時間が少ないことを、認めるのも怖くて」
リアの頬に、温かなものが流れた。涙だった。
「お母さん……私、泣いちゃった……」
母は目を丸くした。
「……どうして、泣いてはいけないの?」
「だって……笑っていてほしいって……」
「ああ」
母は困ったように、そして愛おしそうに笑った。
「そういうことだったのね」
細い指が、リアの涙をそっと拭った。
「リア。母さんはね、あなたに悲しんでほしくないわけじゃないの」
「……うん」
「悲しいときは泣いていいの。悔しいときは怒ってもいい」
母はリアの頬を両手で包んだ。
「ただ、いつかまた、心から笑える日が来てほしいのよ」
その言葉に、リアの瞳から次々と涙が溢れた。
「……私、お母さんがいなくて、寂しい」
「ええ」
「すごく、寂しいの……!」
「ええ。そうでしょうね」
母は何度も頷いた。リアは声を上げて泣いた。子供のように、何度も何度も母の名を呼びながら。母はずっと、背中を撫でていてくれた。
やがて、窓の外が白く霞み始めた。夢が終わろうとしている。リアはそれに気づいた。
「……お母さん」
「なあに?」
「私、仕立て屋さんで働くね」
母は微笑んだ。
「ええ」
「まだ失敗するかもしれないし、一人じゃできないこともあると思うけど……」
「それでいいのよ」
母はリアの髪を撫でた。
「失敗したら、またやり直せばいいの」
「……うん」
「あなたなら、きっと大丈夫」
光が少しずつ強くなる。母の輪郭が、ぼんやりと薄れていく。リアはもう一度、母に抱きついた。
「お母さん、大好き」
耳元で、優しい声がした。
「母さんもよ、リア」
それが、夢の中で聞いた最後の言葉だった。
* * *
朝。リアは自分の寝台で目を覚ました。枕が、涙で濡れていた。目元も少し腫れている。
けれど、胸の奥にあった重たい石のようなものが、少しだけ軽くなっていた。夢で母に抱きしめてもらった温もりが、まだ残っている気がした。リアはゆっくりと起き上がった。台所へ行き、朝食の支度を始める。
いつもの癖で、器を二つ取り出しかけた。
「あ……」
リアは手を止めた。しばらくその器を見つめてから、一つだけ棚に戻した。寂しくないわけではない。これからも、きっと何度も寂しくなる。
けれど。
「……おはよう、お母さん」
リアは小さく微笑んだ。窓を開けると、爽やかな風が部屋に流れ込んできた。その日の午後、リアは仕立て屋を訪ねた。店主は少し驚いて、それから優しく笑った。
「もう、大丈夫なのかい?」
リアは頷いた。
「はい。まだ、わからないことばかりですけど」
それから、もう一度。今度は、しっかりと。
「よろしくお願いします」
店主は大きく頷いた。
「こちらこそ、よろしく頼むよ」
帰り道。リアは何気なくポケットに手を入れた。そこには、もう白いハンカチはない。一瞬だけ、胸がきゅっと痛んだ。
けれどリアは、そっと手を握りしめた。あのハンカチがなくても、覚えている。母が刺繍をしていた横顔も。自分の名前を呼ぶ声も。
何度も頭を撫でてくれた、温かな手も。全部、ちゃんと覚えている。リアは顔を上げた。夕暮れの町には、焼きたてのパンの香りが漂っていた。
* * *
その頃。森の奥の小さな家では、アデルが白いハンカチを丁寧に畳んでいた。隅には、小さな花の刺繍。不揃いな花びらを指先でそっと撫でてから、木箱に収める。
「……それでよかったのか?」
窓辺で丸くなっていた黒猫が、片目を開けた。アデルは顔を上げた。
「あら、リュー。起きていたの?」
「とぼけるな。あの娘の代金だ」
猫はふさふさした尻尾を、ゆっくりと揺らした。
「あの娘が一番大切にしていたのは、本当にその布切れだったのか?」
「ええ。とても大切なものだったわ」
「だが、母親との記憶も同じくらい大切だったはずだ」
アデルは何も言わなかった。
「お前なら、あの娘が一番幸せだった記憶だって受け取れただろう」
「……そうね」
あまりにもあっさりとした返事に、リューは耳を動かした。
「なら、どうして?」
アデルは木箱の蓋を閉じた。それから、窓の外へ視線を向ける。午後の日差しが薬草園を照らし、白い花が風に揺れていた。
「あの子はね、リュー」
アデルは穏やかに言った。
「もう、お母さんを失っているのよ」
「…………」
「そのうえ、思い出までなくしてしまったら」
少しだけ、寂しそうに微笑む。
「……あんまり、かわいそうでしょう?」
リューはしばらく黙っていた。やがて、大きなあくびを一つ。
「まったく。お前は魔女に向いていないな」
「あら、そうかしら」
「商売というものを、少しは覚えた方がいい」
「ふふ。じゃあ、明日からお茶のお代もいただこうかしら?」
「……俺は猫だぞ」
「でも、ただの猫じゃないでしょう?」
リューは不満そうに尻尾をぱたりと鳴らした。アデルはくすくすと笑いながら、空になったティーカップを片づけた。窓の外では、森が静かに風に揺れている。明日はどんな人が訪ねてくるのだろう。
それは、アデルにもわからない。ただ、誰かが心の底から助けを求めるとき。森はまた、ひっそりと道を開くのだ。そして魔女は、いつものようにお茶を淹れる。
大切なものを、ひとつだけ受け取るために。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
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