2-11 楓の居場所
入ってきた人物の内二人が誰かわからず、翔太はなんと声をかけていいのか一瞬言葉に詰まってしまう。そんな翔太を見て、一番初めに声を出したのは夏目先生だった。
「おお、相田。まだいたか。清泉も、いきなり来て悪いな」
いえ、と翔太が首を振り、問いかけるように夏目先生に視線を向ける。その視線に夏目先生が答えるよりも先に、老夫婦の内のおばあさんのほうが言葉をかけた。
「はじめまして。楓のお友達でしょうか?」
「あ、はい。えっと…」
「こんにちは。楓の祖母、好恵と、祖父、篤です」
その答えに、翔太は少し緊張してしまう。あまりに唐突の出来事で、なんといっていいのかわからなくなってしまう。先ほど話題にあげていたことも相まって、余計緊張してしまう翔太だったが、あわてて座っていたパイプ椅子から腰を上げ、こんにちはとあいさつをした。
「そう固くならなくても大丈夫です。楓のお見舞いにわざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
そうお礼を言ったのはおじいさんのほうだった。おばあさんも、無言で頭を下げる。大人の人にいきなり頭を下げられ、翔太はどう対応すればいいのか「あ、えっと、いえ」などと言葉を濁してしまった。そんな様子を少し苦笑いしながら見ていた夏目先生が、場を仕切り直すように、さて、と楓に視線を移した。
「体調のほうはどうだ、清泉。と言っても、さっき俺は見舞いに来たばかりだからそれほど変わっていないだろうが」
その言葉で、翔太が来る前、夏目先生はすでに楓のお見舞いに来ていたことを翔太は知った。楓が入院したことも知っていたから、当然のことと言えば当然かもしれないが。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「まあ、相田もきたことだし、少しは気分がリラックスできただろ」
人のよさそうな笑みを浮かべる夏目先生に、楓は、はい、と微笑を浮かべて答える。先ほどまで泣いていた涙の跡がほほに残っていたが、それでも自然に笑えているように翔太には見えた。
「それじゃ、本題に入るかな」
一通り挨拶が済んだところで、夏目先生がそんなことを言った。本題? と翔太は内心で首をかしげながら夏目先生に視線を向ける。楓も同じようなしぐさで夏目先生を見ていたが、その視線を受けて、夏目先生はもう一度繰り返した。
「おう、本題だ。ちょっと、清泉のおじいさんとおばあさんから清泉にお話しがあるそうなんでな。悪いが、相田はちょっと席をはずしてもらったほうがいいんだ」
「あ、わかりました」
そう言って荷物を持ち、扉へ向かおうとしたところで、楓のおじいさんが声をかけてきた。
「もしかして、卓球部のお友達ですかな?」
扉へ向かおうとしていた翔太の足が止まる。なぜそのことが分かったのかも疑問だったが、それ以前に、なぜここで卓球部という単語が出てきたのかがわからなかった。楓が部活に入りたいことを家で隠していたということは、おじいさんとおばあさんから卓球部の言葉が出てくることは考えにくい。内心で不思議に思いながらも、はい、と翔太は答える。
「では、ここにいていただいても大丈夫です。私たちのお話は、卓球部に関する事なので」
おじいさんの言っていることがつかめず、質問の変わりに楓に視線を向けると、楓は少し驚いたような顔をして夏目先生のほうを見つめていた。すぐに翔太にも思い当って、夏目先生を振り返る。夏目先生は、少しいたずらっぽい笑みを浮かべたまま、無言でうなずいた。それだけで、翔太にはおおよその意味が理解できた。夏目先生が、おじいさんとおばあさんに、卓球部のことを話したのだ。病室に一緒に来たことからも、それは容易に想像できた。
「さて、楓。私たちがなぜ卓球部の事を知っているのか不思議に思うかも知れんが、まあ、予想はできているだろうけども、先生から少しお話しをうかがったよ」
ベッドの横に立ったおばあさんの言葉に、はじかれたように楓は視線をそちらへ向ける。隠していた重大な事を見つかってしまったような、あわてたような表情がそこにはあった。
「今まで隠してきた事だから、たぶん、お前としては私たちに知られてほしくなかったのだろう。ごめんな、勝手に聞いてしまって」
「そのことは、私に落ち度があります」
そう丁寧な言葉で言ったのは、翔太の後ろに立っていた夏目先生だった。夏目先生は静かに一歩前に出て、すっと頭を下げる。
「今回は、楓さんの秘密を、私の口から申し上げることになって大変申し訳ありませんでした。改めてここで、謝罪を申し上げます」
そう言ってから頭をあげた夏目先生は、今度は楓をまっすぐ見つめ、また頭を下げた。
「清泉も、すまなかった。生徒の秘密を、保護者とはいえ勝手に漏らしてしまったことは、お前の信頼を裏切る行為だったと思っている。許してもらえるようなことではないかもしれないが、ここで謝っておこうと思う」
いきなり謝られて、どう反応していいかわからず、楓は目を丸くしてただ夏目先生を見つめているだけだった。翔太も状況がよくつかめず、驚きを隠せないでいた。
やがて、夏目先生がゆっくりと頭をあげ、でも、と付け加えた。
「家でお前の元気がないらしいという話を、お前の担任の先生から聞いてな。この前、お前がいない間の家庭訪問に同行させてもらった。その時に、話すべきだと考えて、卓球部のことを話した。つい、一昨日のことだ」
一昨日と言えば、翔太が楓を泣かせてしまった前日のことだ。
「お前の様子がおかしくなりだしたのは、ちょうど俺がお前を卓球部に誘ったころからだった。だから、おそらくお前は卓球部に入ろうかどうか迷っているのだろうと考えて、元気がなくなったと思ったんだ。だから、そのことを、保護者の方に謝りに行く意味も込めて、家庭訪問に同行したんだ」
「あなたを誘ったことで、あなたの気分を不安定にさせてしまったと、先生は謝られたの。でも、先生もあなたの事を思ってしていただいた事だから、私たちは先生にお礼をいったの」
おばあさんが、夏目先生の話を補足する。おそらく楓が、クラスで友達があまりいないことを、おばあさんたちは知っていたのだろう。楓の担任も家庭訪問に言ったということだから、それくらいはわかるはずだ。それでなくても、子どもの学校での様子というものは、家にいるときでもなんとなくわかる。友達の話が家の中で一度も出ないとなると、それくらいは容易に想像がついたりするのだ。
そんな楓に、友達ができるように配慮した夏目先生の行動は、おばあさんたちからすれば、感謝こそすれ、怒ることではなかったのだろう。
「お前が卓球部の入部で悩んでいるかもしれない。その話を聞いた時、おじいちゃんたちは先生を責めるよりも、自分たちを責めた。楓を苦しめてるのは、私たちが楓に家事をさせてしまっているからだと思ってね」
おじいさんが少し悲しそうに言う。どこか震えていそうなその声を聞いて、楓は目に涙を浮かべそうになりながら、すぐに首を横に振った。そんなことない、と言いたかったのだろうが、声を出せば涙があふれそうだったのだろう。何も言わず、楓はただ無言で首を横に振っていた。
「でも、その話も確実な事じゃなかった。実は楓が他の事で悩んでいるだけで、卓球部のことは何も考えていないかもしれない。それなのに、私たちからお前に、卓球部の話をするのはよくないと考えて、結局、お前から話が聞けるまで、もう少しだけ、待つことにした」
おばあさんが状況を説明する。おそらくそれは、つらい選択だったのだろう。子どもがつらそうなのを見ても、その原因がしっかりとはわからない。結局は、子どもから相談されるまで、待つしかないのだ。それがどれだけつらい選択かは、翔太は何となくわかった。翔太も、楓を旅行に連れて行ったときに、同じような気分を味わったことがあるからだ。
「そして、昨日、お前は倒れた」
おじいさんが、静かに言う。ずきりと、翔太の胸が痛んだ。おそらくその引き金を引いたのは、自分だからだった。
「取り返しのつかないことをしてしまったと思った。様子を見よう、なんて悠長に構えようとしていた自分たちの考えが、どれほど甘いかを思い知った。お前は、もうそれほどまでに追い込まれていたっていうことに気がついてやれなかった。本当に、辛い思いをさせた」
おじいさんが楓に頭を下げ、おばあさんも無言で頭を下げる。それを見て、翔太も一歩前に進み出た。ここで自分も謝らなければいけない。そんな気がしたからだ。
「楓、僕も、謝りたい。僕が、昨日、屋上で楓を部活に誘わなければ、たぶん、楓は倒れなかった。引き金を引いたのは、僕だ。だから、ごめん」
おじいさんやおばあさんのような、きれいな言葉で謝ることはできなかった。それでも、自分の気持ちを何とか伝えることはできたと翔太は思う。そのまま頭を下げて、三秒ほどそうしてから、ゆっくりと頭をあげる。そこには、涙を流しながら、首をよく二振り続ける楓がいた。
もう、謝らないでと、そう言っているように見えた。
「いろいろ、俺たちは清泉につらい思いをさせた。お前によかれと思ってした行動が、全部裏目に出てしまった。ここまで一人で辛い思いをさせて、すまなかったな、清泉」
夏目先生がもう一度頭を下げる。楓は先ほどより、激しく首を振っている。その目からあふれる涙もぬぐわないまま、首を振り続けていた。
十秒ほど、沈黙が続いた。誰も何も言わない。楓が時折鼻をすする音が、病室に響くだけだった。
やがて、おばあさんがゆっくりと楓に近づき、その目元をぬぐってやった。優しい、ゆっくりとした動きだった。
「楓、もう、我慢しなくていい」
涙をぬぐいながら、楓を正面から見つめながら、おばあさんは静かに言った。楓が鼻をすする音が一度する。おばあさんは、ゆっくりと微笑みを浮かべて、こういった。
「楓、卓球部に、入りなさい」
楓がびっくりした表情になり、無言でおばあさんを見つめる。その表情をしっかりと受け止めながら、おばあさんは続けた。
「家事は、おじいちゃんや、おばあちゃんがしてあげる。私たちも、幸いなことに、まだ元気だ。お前が来るまでは、二人で家事をこなしてた。だから、これからは私たちも家事をする」
ゆっくりと、頭をなでて、おばあさんは言う。楓の表情が、驚きから、じょじょにまたゆがんでいく。今日何度目かわからないものが、目からあふれそうになる。
「今までみたいに、おばあちゃんたちに遠慮なんかしなくていい。たくさん部活して、たくさん勉強して、たくさんやりたいことをして、その合間に、家事を手伝ってくれたらいい」
今度は、楓は首を横に振らなかった。顔が涙でくしゃくしゃになりながら、何度も何度もうなずく。それは、お礼をいいながら、頭を下げているような動作にも見えた。
「だから、友達とめいっぱい、学校生活を楽しんできなさい」
うん、という言葉は、涙で震えながらも、しっかりとした響きを持っていた。
確認するように、うん、ともう一度、今度は先ほどよりも大きな声で、返事が帰ってくる。
一人の少女には、温かな居場所があった。