23.共闘終幕
地面を覆っていた黒い影が、大きく波打った。飲み込んだはずの瘴気が逆流する。抑え込まれていたものが勢いよく溢れ出し、空気を侵食していく。
爆ぜるような音と共に、地面が揺れた。
ノクスの影によって閉じられていた亀裂が、再び大きく口を開ける。
「……っ!」
噴き上がった黒煙が私の頬を掠めた。焼けるような痛みが走る。
「一旦退避しろ!」
シリウスの怒号が響く。
彼らが聖女を守りながら下がって行くのを目の端にとらえたけれど、私は動けなかった。
「…………ノクス」
返事はない。
影は広がり続けているのに、足元で荒れ狂っているのに、全く制御できていない。
長い前髪の隙間から覗く瞳は半ば伏せられ、呼吸も浅い。
「……やっぱり、無理しているでしょう」
呆れたように呟いた声は、思ったよりも震えていなかった。
影はまだ瘴気を喰らい続けている。
けれど黒は濁り、ところどころ輪郭が崩れていた。まるで水面に落とした墨が広がるように、制御を失って揺らいでいる。
無理矢理押さえ込んでいる。
それが、嫌というほど伝わってきた。
「もういい……! やめて!」
制止の声を上げたけれど。
途端に足元で影がびしり、と裂けた。
次の瞬間、裂け目の奥から瘴気が噴き上がる。
「っ!」
衝撃波が吹き荒れた。瓦礫が跳ね、庭園の残骸が宙を舞う。
空気が一瞬で黒く染まった。
ノクスは動かない。
動けないのかもしれない。
無理をして、影を制御し切れなくなり、このままじゃ……。
視界がちかちかする。
皮膚に、肺に、刺すような痛み。
シリウスたちのように、私も逃げた方がいい。ただの人間でしかない私がこんなところに留まっていたら、命はない。
────でも。
ノクスを置いて、逃げられない。
だってノクスは、私を守ると言った。
そして、私も。
「守る……! ノクスのことだけは、絶対に守ると約束したもの!」
ノクスの手を握った。絡めた彼の指先は、ひやりと冷たい。
彼の手首に巻きついていた神具『星環の聖鎖』が、光を帯びた。
ノクスの瞳が、私を捉える。
「私が穴を閉じる。あなたは瘴気を喰らう。二人でやれば、容易いこと。そうでしょう?」
星環の聖鎖から、光が溢れる。
白銀の鎖が伸びて、亀裂に絡みつく。その端を掴んだ。私が繋ぐと、そう決めたから。
鎖が、意思を持つようにうねった。空中で幾重にも分かれ、裂け目の縁へと突き刺さる。
びしり、と空間そのものが軋む音がした。
亀裂の奥から噴き上がっていた瘴気が、まるで拒絶するように暴れ出す。黒煙が牙のように形を変え、鎖へと噛みついた。
「……っ、く……!」
痛い。熱い……?
握った鎖を通して、直接神経を灼かれているみたいだった。
膝が震える。でも、絶対に離さない。
「塞がれ……!!」
叫んだ瞬間、鎖が強く輝いた。星屑のような光が砕けて舞い散る。
────けれど。
亀裂は、閉じない。むしろ抵抗するように大きく広がった。裂け目の奥から、低い咆哮のような音が響く。
世界の裏側がこちらを覗き込んでいるみたいだった。
「……っ、……! まだよ!!」
力ずくで鎖を思い切り引いた、その手に。
ノクスの掌が重なった。
「……そのまま。溢れた分は、余が喰らう」
白銀の鎖が、漆黒を纏う。
光と闇が絡み合い、星の環のような紋様が空中に浮かび上がった。
亀裂が震えて、瘴気が逆流する。
空気が軋んだ。
鎖に絡みついていた瘴気が、引き剥がされるように吸い込まれていく。
鎖が一斉に収縮した。白銀が、裂け目を縫い合わせるように走る。
びしり、と空間が歪む。瘴気が暴れ狂う。
黒煙が渦を巻き、最後の抵抗のように吹き荒れた。
腕がちぎれそうだった。
肺が焼ける。視界が滲む。
でも、私は一人じゃない。強く握り返してくれる手があるから──。
白と黒が重なって、光が爆ぜた。
鎖がしなる金属音。大地の裂け目が引き寄せられる。
────そして、世界が縫い合わされた。
「……っ、はっ……」
呼吸を忘れていたように、一気に空気を吸い込んだ。
黒煙が霧散し、青い空が覗く。風が止んで、耳鳴りだけが残った。
「…………終わった…………?」
「よくやった」
短い労いの声に、隣を見上げる。
満足そうに頷くノクスの顔にも、疲労の色が滲んでいる。
手も足も、もう力が入らなくて、震えている。立っているのがやっとだ。ノクスだって、きっと同じ。
それでも立っていられるのは、互いに手を繋いでいるからかもしれない。
瓦礫の向こうから、誰かの足音が近付いてきた。
「……セラフィーナ」
シリウスが剣を下ろしたまま、慎重な足取りでこちらへ歩いてくる。その後ろでは騎士と魔道士が周囲を警戒し、聖女は遠巻きにこちらを見つめていた。
視線は私ではなく、ノクスへ向けられている。
当然だろう。世界を呑み込みかねなかった瘴気を、たった一人で喰らい尽くした存在だ。
「……その男は」
シリウスの言葉が途切れる。剣を握る手に、わずかな迷いが滲んだ。しかし再び口を開き、言葉を続けようとする。
それを思い切り遮った。
「英雄ですわ」
「………………。何?」
「この方は世界を救った、紛れもない英雄です」
堂々と笑顔でそう言えば、シリウスは面食らったように沈黙した。
騎士も、魔道士も、誰も否定できない。
だって私は、事実を言っただけなのだから。
そんな中で、聖女だけが声を震わせた。
「……ちが、います……! 英雄なんて……。その存在は、魔力は、危険なものです……!」
聖女の言葉も、また事実。
でも。
「聖女様。正しさだけじゃ、救われないものもありますわ」
「そんなはず……!」
「エリシア、もういい。行こう」
シリウスが聖女の肩を抱く。彼女は納得していない様子だったけれど、首を横に振ったシリウスを見て、諦めたように俯いた。
二人は背を向け、寄り添って歩いて行く。
その後ろ姿を見ても、もう胸は痛まない。
「……ねぇ。ひとつ聞きたいんだけど」
ふと思い出して、隣に立つノクスに問いかける。
「どうして無理したの? 私一人の命を守るだけなら、瘴気を全部喰らう必要はなかった。弱っていたとはいえ、あなたは神具のひとつも手に入れている。回復すれば聖女を恐れることもないし、あのまま世界を壊すことだって、できたはずよ」
ノクスがぱち、と瞬きをする。
それからやれやれ、と呆れた様子でふんぞり返った。
「そなたが豪語したのであろう。破壊よりも楽しいことがある、と。口にした言葉には責任を持ち、余を存分に楽しませるがよい」
…………ああ。確かに、そんなことを言った。
死にたくない。もしくは、自分だけが生き残って世界が滅ぶという地獄を見たくない。あの時は、そんな理由で。
私だって、こんな歪んだ世界は好きじゃなかった。窮屈で娯楽の少ない毎日に。たった一人の愛した人に捨てられ、奪った女に尊厳を踏み躙られた人生に。
滅んでしまえと、そう思っていた。
目の前に広がる光景は、無残なものだ。
ここだけ世界の終わりみたいに、何もかもがぐちゃぐちゃで。
でも、空が見える。
山の向こうに太陽が沈みかけて、紅く染め上げている。
ノクスの隣で見るこの世界は、案外悪くない。




