22.魔王降臨
夜の闇を纏ったような、影そのもののような男の長い足に踏みつけられ、ドラゴンが唸り声を上げた。
渦巻く瘴気に外套が煽られても、一歩も揺るがない。平然と立つ彼の感情の読めない漆黒の瞳に、しかし確かに怒りを含んでいるのが、私にはわかった。
「…………ノクス…………」
咆哮と共に、ドラゴンが翼を広げ、尾を振り上げる。それでも微動だにしないノクスは、愉快そうに口角を上げると、自身の影でドラゴンの体をいとも簡単に縛り付けた。
そして私の隣に音もなく降り立ち、巨体を見上げる。
「気に入った。そなたのその翼、速く飛べそうだ。余の足になるがよい。配下として飼ってやろう」
ノクスの前にひれ伏すように、ドラゴンはその頭を地面に擦り付けた。地を抉るほどの勢いで押し付けられたドラゴンの額が、土煙を巻き上げる。
──あれほど暴れていた巨体が。
まるで最初から抗う意思など存在しなかったかのように、ぴたりと動きを止める。低く喉を鳴らす音だけが、震えるように響いた。
「な……」
騎士が絶句する。
魔道士も杖を握ったまま、言葉を失っていた。
「従った……? あのドラゴンが……?」
シリウスが呟き、聖女が目を見開いている。
ノクスは興味深そうにドラゴンの角へ指先を伸ばし、軽く叩いた。
「ふむ……骨格も悪くない。耐久性もありそうだ」
まるで馬でも選ぶかのような物言いでドラゴンを見定めた後、思い出したようにくるりとこちらを振り返った。
その目は、やっぱり怒っている。
「そなた、よくも余を謀ったな。それだけに留まらず、勝手に死にかけるとは」
「…………。もしかして、助けに来てくれたの?」
「無論。余は、そなたを守る」
悔しいことに、涙で視界が滲んだ。
ただの契約で、私たちの間には愛どころか情さえもないと、わかっているのに。
それでもノクスだけは、私を何より優先して守ってくれる。
「余の預かり知らぬところで勝手に傷付いたり壊れたりされては困る。余を欺いた罪は重い。これからじっくりと、余が直々に、絶望を味わわせてやろう。覚悟しておれ」
「……ノク…………っ、ごぼっ」
思わず口から零れそうになったのは、感謝か、非難か、呆れの言葉か。
それがわかる前に、大量の血を吐き出した。
「瘴気を吸い込みすぎたか。仕方がない。喰らってやろう」
そう言って、ノクスが血濡れた私の口元を雑に拭う。
ぞっとするほど整った顔が近付いて……。いや、あまりにも近過ぎる。
嫌な予感に後ずさった。
「喰らうって……。いやいや、まって!」
「口を開けよ」
「むり……んぐ!」
今日、私の嫌な予感はよく当たる。
乱暴に顎を掴まれ、思い切りキスされた。
──キス!された!はじめてなのに!!
……いや、そんな甘いものではなく。
喉の奥から何かがせり上って、吸い取られている感覚。はっきり言って、最悪だ。
あと、シリウスや聖女たちに思い切り見られた。
唇が離れて、ノクスを睨み付ける。
「……もうお嫁にいけない……!」
「そなた、いつの間に嫁ぐ予定ができた?」
「予定はないけど! 貰ってもらうあてもないけど!」
大きな声を出して、はっとした。
肺が軽い。苦しくない。見下ろした手も、元の色に戻っている。
方法はともかく、ノクスに助けられた。
けれど周囲は違った。
大地の裂け目から噴き上がる瘴気の勢いは衰えていない。空へ伸びる黒煙が渦を巻き、まるで世界そのものを侵食しようとしているよう。
濃い瘴気を含んだ空気を吸って、再び胸の奥が痛み出す。
咳き込んだ私と、瘴気の吹き出す穴。ノクスは順に視線を滑らせた。
「こちらを何とかせねば、きりがない。全て喰らい尽くしてくれよう」
「…………全部!?」
「容易いこと」
ノクスの影が伸びる。
四方八方に、全てを呑み込むように。
触れたそばから瘴気を吸い込み、影は更に大きくなっていく。
────その時。
「悪魔……! そこにいるのは、悪魔です! 悪しき魔力を感じます!」
そんな声が響いて。
振り返れば、聖女が震える手でノクスを指差している。その隣で、シリウスが剣を構えた。
「セラフィーナ、離れろ!」
「危険です……! ドラゴンより、ずっと邪悪なものの気配です!」
「…………は?」
思わず間の抜けた声が出た。
危険? 誰が?
目の前では、世界を覆いかねない瘴気を片っ端から飲み込んでいる魔王がいるのに。
ノクスは一瞥すらくれずに呟いた。
「やかましい。あれらを黙らせよ。そなたが何とかせよ」
「私が? 何とかって、そんな……。………………え?」
無茶振りに文句を言いかけて、はたと気が付いた。
ノクスが、私に何とかしろと言った。私を、頼った。…………最強のはずなのに?
ノクスの影はさらに広がり、裂け目から噴き上がる瘴気を呑み込んでいく。
空を覆っていた黒煙が、嘘のように削り取られていく。
けれど、確かな違和感。
影の動きが鈍い。……というか、重い。いつも俊敏な動きをする影が、まるで泥を引きずるように揺らいでいる。
────そうだ。
ノクスは聖女の祝福を受けて、弱っていた。まだ完全に回復していない……!
それなのに、広がる影は止まらない。
裂け目から噴き上がる瘴気を、無理矢理押さえ込むように飲み込み続けている。
黒煙が削がれていく代わりに、影の輪郭が揺らいだ。
「……ノクス?」
呼びかけても、返事はない。
彼の足元で影が波打つ。まるで悲鳴を上げているみたいに。何でもない顔をしながらも、余裕がないのは明らかだ。
「セラフィーナ様……! 悪魔に惑わされてはいけません!」
聖女が悲痛な叫び声を上げる。
「異質な悪しき魔力……その悪魔は、決してこの世界にいてはならないものです!」
聖女に迷いはない。
その言葉を信じ、シリウスと騎士がノクスに剣を向け、魔道士は杖を掲げる。
聖女は、いつも正しい。
でも──。
「聖女様の言うように、確かに彼はこの世界にいてはいけない存在なんでしょう。でも今、この瘴気を止めているのは誰?」
全員が息を呑む。
背後では、影が大地を覆い、黒い霧を呑み込み続けている。
もし止めてしまえば、この場の全員が、この国が……もしかしたら、世界が終わる。
ノクスを背に、聖女たちの前に立つ。
シリウスの握る剣の切っ先が、私の目の前で微かに震えている。
「世界がいらないと言っても、私には必要なのよ。ノクスに手を出すなら、私を殺してからにしなさい」
背中から、呆れたような溜め息が落ちてきた。
「……愚かな。そなたが死ねば、余が守る意味がなかろう」
「そっちこそ無理してふらふらなくせに、偉そうに言わないで」
「無理など……」
言いかけたところで、びしり、と影が裂けた。
「!!」
黒い靄が噴き出す。
ノクスの足元から溢れた瘴気が、辺りに満ちていく。
「ノクス……!」
見上げた彼の表情は、はじめて苦痛に歪んでいた。




