第1話:『山里の匂い』
鼻は嘘をつかない。血も汗も、薄めた酒の杯も、匂いの隙間に必ず痕跡が残される。
私の名は瑠璃。山里の小さな薬師家で育った。幼い頃から、草木の匂いや薬湯の香りに囲まれてきた。そのおかげか、私は人の体から残る匂いで、最近摂った薬や過去の治療の痕跡を読み取ることができる――家では「嗅覚の記憶」と呼ばれていた。
ある朝、王都に向かう道すがら、私は山里の空気を惜しむように深呼吸した。湿った土の匂い、山茶花の香り、遠くに川の匂い――この匂いのひとつひとつが、私の幼い日の記憶を呼び覚ます。しかし、もうここに帰ることはできない。なぜなら、今日から私は宮廷の下働き薬師として生きるのだから。
薬匣に着くと、もう慣れた手つきで棚の瓶を整理する。ほとんどは黴臭い薬草の香りだが、時折、誰かが昨夜灯した柑橘の残香や、甘い香りの香料が混じっている。匂いの隙間に、人の生活や秘密が潜む――それを読むのが私の仕事だ。
「瑠璃、こっち手伝ってくれ」
年長の薬師に呼ばれ、私は小瓶を手に取り、粉を混ぜる。薬草の香りが鼻をくすぐる。集中して匂いを分析すると、昨日、ある側近が口にした薬が微かに残っていることに気づく。
――何か、変だ。
この匂いは普通の薬草ではない。誰かが意図して混ぜた痕跡がある。まだ誰も気づいていない小さな違和感――それは私にとって、事件の匂いだった。
薬匣の奥、古い書物の間から漂う香りにも目を凝らす。宮廷には、知られてはいけない薬や治療法が多く隠されている。その存在を嗅ぎ分けるのも、下働きの私の仕事だ。
今日、何かが動き始める――私の宮廷生活は、ここから匂いをたどる日々の始まりだった。