004_噂は椅子より直しにくい
翌朝、腕が痛かった。
昨日、魔物の突進を盾で受けたせいだ。
あれは戦闘じゃない。事故だ。事故でも痛いものは痛い。
食堂に降りると、マーサが豆の煮込みを出してきた。
「おはよう、英雄様」
「やめてくれ。朝飯が急に重くなる」
「じゃあ、ただの修繕屋さん」
「それくらいが胃に優しい」
いつもの席では、漁師が二人、魚臭い外套のまま座っていた
銀の匙亭は、港から少し上がった坂道の途中にある。
宿屋を名乗ってはいるが、朝と夕方はほとんど食堂だ。漁師、荷運び、見習い衛兵、たまに冒険者。金払いはそこそこで、声だけは全員大きい。
「レイ、北の塔で魔物を倒したんだってな」
「倒したんじゃない。倒れるところに、たまたま居合わせたんだ」
「便利な偶然だな」
「俺もそう思う。次は別の誰かに起きてほしい」
この町の噂は早い。
港町リンドルでは、魚の値段と人の噂だけは朝のうちに町を一周する。
港、市場、宿屋、衛兵詰所。そのどこかで誰かが聞けば、昼にはもう別の話になっている。
特に銀の匙亭に入った噂はもう駄目だ。朝飯と一緒に全員へ配られる。
俺が豆を食っていると、食堂の隅から、ぎい、と嫌な音がした。椅子だ。
漁師の一人が座っている椅子の脚が、今にも外れそうになっている。
「おい、ちょっと待て」
「あ?」
「その椅子、そろそろ人生を諦めそうだ」
「椅子に人生があるのか?」
「今まさに終わりかけてる。ゆっくり立て」
漁師が立った瞬間、椅子の脚が外れた。
「うおっ。危ねえ」
「ほらな。椅子にも引退時期ってもんがある」
俺は椅子を横に倒して、外れた脚を見た。
木が湿気を吸って、継ぎ目が緩んでいる。
「マーサ、これ昨日から鳴ってただろ」
「鳴ってたねえ」
「直せよ」
「あんたがいるじゃないか」
「俺は店の備品じゃないんだが」
「家賃を安くしてるんだからさ」
「はいはい、大家様には逆らえませんよ」
文句を言いながら、椅子の脚をはめ直す。継ぎ目に指を当てて、少しだけ馴染ませた。
かちり。
「ほい。次に変な音がしたら、座る前に言ってくれ」
「助かったぜ、英雄様」
「その呼び方を続けるなら、次は背もたれを王座にしてやる」
「それはちょっと座ってみたいな」
「やめろ。俺の仕事を増やすな」
漁師は笑って、直った椅子に座った。
俺は席に戻る。
豆の煮込みは少し冷めていた。
すると、マーサが新しい皿を置いてくれた。
「温め直してやったよ」
「珍しく優しいな」
「椅子代から引いとくから」
「そういうところ、安心するよ」
食堂はいつも通り騒がしい。
誰かが昨日の話をして、誰かがそれを大げさにして、誰かが俺を見る。
魔物より噂の方が厄介だ。剣でも盾でも防げない。
まあ、椅子が壊れて誰かがひっくり返る前に済んだなら、今日は悪くない。




