「刺殺」
14日目 20時44分〜21時
「水野さん」という声が、廊下に響いた。
アカリは振り返った。男が立っていた。非常階段のドアの前だった。スーツを着た、四十代前後の男だった。見知らぬ顔だった。しかし声の質が違った。威圧ではなかった。制止だった。
刑事だと分かった。
鞄の中の包丁を握ったまま、アカリは一秒止まった。
その一秒の間に、五年間が走った。
人事部の部屋。「思い込みでは?」という言葉。ネットの書き込み。退職届。睡眠薬の瓶。夕焼けの空。ムギの温もり。久我山が取締役に昇進したプレスリリース。
一秒が終わった。
アカリは久我山の方を向いた。
久我山はまだそこにいた。逃げなかった。足がすくんでいた。恐怖と困惑が顔に出ていた。五年前、アカリを「思い込み」と言った人間を守った男と同じ顔だった。
「水野さん、止まって」と早瀬の声がした。
アカリは動いた。
鞄から手を出した。包丁を持っていた。布の巻きは外れていた。刃が廊下の光を反射した。
久我山が声を上げた。後退した。壁に背中がついた。
アカリは三歩で距離を詰めた。
包丁が、動いた。
——早瀬は走った。
しかし廊下の距離が、あと二メートル足りなかった。
久我山の声が廊下に響いた。鈍い音がした。アカリが後退した。久我山が壁を伝って崩れた。
早瀬はアカリの腕を掴んだ。包丁が床に落ちた。金属の音が廊下に鳴った。
「救急を呼んでくれ」と早瀬は桑田に叫んだ。
桑田がすでに電話していた。
早瀬はアカリの両腕を押さえたまま、床に膝をついた。アカリは抵抗しなかった。力が抜けていた。全身から力が抜けて、ただそこにいた。
「水野さん」と早瀬は言った。
アカリは答えなかった。
久我山が壁の下でうめいていた。腹部を手で押さえていた。血が出ていた。意識はあった。
早瀬はアカリの顔を見た。
泣いていなかった。怒っていなかった。ただ、何かが終わったような顔をしていた。長い時間をかけて積み上げてきたものを、今下ろした人間の顔だった。
廊下のどこかでドアが開く音がした。他の宿泊客が異変に気づき始めていた。
早瀬はアカリに手錠をかけた。
「水野アカリさん、殺人未遂の現行犯として逮捕します」
アカリは何も言わなかった。
ただ、目を閉じた。
廊下の蛍光灯が白く、静かに光っていた。




