「ムギへの手紙」
14日目 ホテルの部屋 17時45分
スマートフォンの画面を開いた。
メモアプリだった。アカリはそこに、出かける前に文章を書いていた。家を出る直前、ムギが膝に乗ってきた時に書いた。ムギを抱きながら、片手で打った。
読み返した。
「ムギへ」
「今日、私は久我山誠一郎に会いに行く。何が起きるか分からない。帰れないかもしれない。でも行かなければならない。五年間、ずっとそう思ってきた」
「あなたが生きている間は生きなければ、と思っていた。あなたのご飯を用意するために、毎日起きた。それが私を生かしてくれた。ありがとう」
「帰れなかった場合、隣の303号室の田村さんにお願いしてある。田村さんはあなたを引き取ってくれると言っていた。あなたのご飯の好みと、病院の診察券と、おもちゃの場所を書いたメモを台所のテーブルに置いてきた」
「私のことは忘れていい。猫は忘れると聞いた。本当かどうか分からないけれど、忘れてくれた方が、あなたは楽だと思う」
「五年間、一緒にいてくれてありがとう。あなたがいなければ、私はもっと早く死んでいた」
そこで文章は終わっていた。
アカリはスマートフォンを閉じた。
窓の外は完全に夜になっていた。都市の光が、暗闇の中に広がっていた。どこかにムギがいる部屋の光も、あの無数の光の中にあるはずだった。今頃ムギは押し入れの上で眠っているか、窓の外を見ているか、ご飯の時間を待っているかのどれかだろうと思った。
田村さんとは一度だけ、エレベーターで話したことがある。
六十代の女性で、猫好きだった。ムギを見て「かわいいわね」と言っていた。アカリが「もし私に何かあった時、引き取ってもらえますか」と聞くと、田村さんは少し驚いた顔をして、「何かあるつもりなの?」と聞いた。「万が一の話です」と答えると、「分かった、任せて」と言ってくれた。
それだけのことだった。
しかしその「分かった」という言葉が、アカリには重かった。自分の事情を何も知らない人間が、ただ猫のために「任せて」と言ってくれた。その言葉の軽さと重さが、今も胸にある。
18時になった。
フロントのモニターを確認する術はなかった。しかし久我山のSNSを開くと、15分前に新しい投稿があった。夕食の写真だった。ホテルの近くのレストランで食事をしている写真だった。
つまりまだチェックインしていない。
食事を終えてから戻ってくる。おそらく20時か21時頃だろうと、アカリは見当をつけた。
時間があった。
アカリはベッドに横になった。天井を見た。白い天井だった。柏木も天井を見ていたのだろうか、とふと思った。あの夜、ロープを梁に結ぶ前に。
違う、とアカリは思った。
私は死にに来たのではない。
けれどもその言葉を、アカリ自身が完全には信じ切れていなかった。
目を閉じた。ムギの温もりを、手のひらで思い出した。




