「孤独なアパート」
14日目 ホテルロビー
ロビーの時計が14時を回った。
チェックインまでまだ時間がある。アカリはソファから動かなかった。鞄を膝の上に置いたまま、ロビーの天井を見上げた。高かった。自分のアパートの天井とは別の惑星のようだった。
退職してから半年が経った頃の部屋を、アカリは思い出した。
六畳一間。築二十三年。日当たりが悪く、昼間でも薄暗かった。家賃は安かった。それだけが選んだ理由だった。
カップ麺の空き容器が、台所の隅に積み上がっていた。
捨てる気力がなかった。捨てなければならないと分かっていた。しかし分かっていることと、体が動くことは別だった。容器が増えるたびに、自分が少しずつ縮んでいく気がした。
窓は三週間、開けていなかった。
ガラスに埃が積もり、外の光が濁って入ってきた。換気扇も回していなかった。部屋の空気が重かった。それでも窓を開ける気にならなかった。外の音が、怖かった。普通に生きている人間の音が、自分には耐えがたかった。
ムギだけが、動いていた。
アカリが動かない間も、ムギは部屋を歩き回り、窓の外を見て、アカリの隣で丸くなった。ご飯の時間になると鳴いた。その声だけが、アカリに時間の感覚を与えた。ムギが鳴く。ご飯を用意する。それだけが、一日の中の確かな行為だった。
ある朝、鏡を見た。
いつ洗ったか分からない髪。血色のない顔。目の下の影。鏡の中の人間が、自分だと認識するのに少し時間がかかった。
これが自分だった。
五年前、企画書を書きながら深夜まで残業していた自分と、同じ人間だった。同じ名前を持ち、同じ体を持ち、しかし別の生き物のようにそこに立っていた。
求人サイトを開こうとした日が何度かあった。
開いた。しかし画面を見ていると、募集要項の言葉が頭に入らなくなった。「明るくコミュニケーション能力の高い方」「チームワークを大切にできる方」。そういう言葉が並ぶたびに、画面を閉じた。自分には該当しない言葉だと思った。
そういう日々が、一年続いた。
貯金が底をつきかけた頃、アカリはようやく動き始めた。
動き始めたのは恐怖からではなかった。ある日、ムギの餌が切れた。近所のコンビニまで買いに行った。その帰り道、空が夕焼けで赤かった。
きれいだと思った。
その感覚が、アカリを少し驚かせた。きれいと思える感情が、まだ自分の中にあった。消えていなかった。
それだけのことだった。しかしその日から、少しだけ動けるようになった。
ホテルのフロントから声がした。
「お客様、チェックインのお時間になりました」
アカリは顔を上げた。フロントの女性がこちらを見ていた。
立ち上がった。鞄を持った。
部屋番号を確認する必要があった。久我山誠一郎が泊まる部屋の番号を、アカリはすでに知っていた。三週間の調査の中で、把握していた。
フロントへ向かった。
14時15分だった。




