第1話「24時、終わらない既読」
午前零時ちょうどに、いつもは“さよなら”が来る。
アプリ〈24h彼氏〉の契約は、開始から二十四時間で自動終了。終了の合図は、チャットの最上部に浮かぶ白い帯――「契約満了。お疲れさまでした」。それが出た瞬間、通話履歴も、写真も、メモも雲の向こうへ吸い込まれる。紙吹雪みたいにきれいで、ちょっと残酷な消滅演出。
なのに今夜は、出ない。
0:00を二分過ぎても、私のトーク画面には“入力中”の三点リーダが、呼吸みたいに点いたり消えたりしている。
〈――眠い?〉
来たのは彼からの短いメッセージ。名前は“R”。本名はお互いに非公開。昼間の彼は、コーヒーショップの窓に映る自分の姿を彼女のふりして撮るのがうまい。SNSのリプ欄で揉めている人を見つけたら、先に水を差すタイプのやさしさを持っている。二十四時間の彼氏にしては、過不足なく、そして少しズルいくらいに優しい。
「満了なのに、まだ話せるの?」
〈規約の穴。満了通知が落ちるまでに、僕から“延長希望”を投げると、システムが確認に入る。最大60秒〉
「一分?」
〈うん、その一分の間に、君が“次の24h”を承認すれば続行〉
私は思わず笑ってしまう。延長確認のための一分。どこの世界にもある、運用の余白。
〈延長、する?〉
彼の吹き出しの右下で、緑の秒針が回っている気がした。私は親指で“承認”を押そうとして、やめる。
「条件を置いてもいい?」
〈どうぞ〉
「今日の彼氏は、今日だけでいいの。だから“延長”じゃなくて、“更新”。昨日と同じは嫌」
〈つまり、別の24h〉
「そう。新しい契約、最初の条文は――“手は繋ぐ、キスはしない”」
入力しながら、心臓がくすぐったい。大人のつもりでいるのに、線を引くことで逆に近くなることがある。
〈了解。第二条は僕から。“嘘はつかない”〉
「それは、重くない?」
〈軽くする。嘘をつかないのは“今日の自分に対して”だけでいい〉
「自分に?」
〈うん。君にじゃなく、僕自身に嘘をつかない。強がりで黙るのも嘘に入れる〉
モニタの光が静かに指先を照らす。私は承認を押す。白い帯の代わりに、紫の帯が流れてきた。
〈“更新完了。24:00→23:59まで”〉
今日の会う場所は、昼間に話していた古本市。駅から徒歩七分、川べりの広場。出店のテントが斜めに風を擦る。
彼は、思っていたより背が高い。灰色のパーカー、白いマスク、前髪は光を弾く癖っ毛。マスク越しでも笑うと目が細くなるのは、昨日のスクショと同じ。
「七瀬」
呼ばれて、私は少しだけ身構えた。アプリ上の私は“n7”。名前を出すのは、たぶん、規約違反に近い。
「やめとく?」
「ううん、今日はいい。今日だけなら、いい」
私の声は自分で驚くほど素直で、彼はうなずくと、右手を差し出した。
「第一条」
私は、可笑しくなって、握り返す。彼の掌は温かい。握ると、どちらかが少しだけ汗ばむ。わたし側だ、と悟る。
古本市のテントを一列歩くだけで、時間はほどける。背表紙の紙質、黄ばみの模様、余白の鉛筆。彼は注釈の多い本をよく手に取る。
「なんで注釈?」
「“誰かが昔ここで止まった”って、書いてあるから」
彼はそう言って、ページの余白の小さな“※”を親指でなぞる。その仕草でわかった。彼は、終わり方を先に考える人だ。別れのために今日を整える。私と似ている。
「二条の話、もう一度」
「自分に嘘をつかない、の?」
「うん」
「じゃあ、正直に言うね。今日の私は、“次の24h”のことを考えないって決めてる」
「了解」
「それでも、“明日の私”が泣くかもしれないことも、知ってる」
「了解」
「だから、写真は一枚だけ」
「ここで」
彼は川面を見て、私を見て、テントの白を見てから、スマホを構える。私たちは少し離れて立ち、指先だけを繋ぐ。シャッターの音は小さい。
「保存期限は?」
「23:58」
「じゃあ、23:58に、もう一度見る」
「23:58に、もう一度見る」
繰り返した言葉が、契約書の最後の行みたいに胸に残る。
夕方、バス停のベンチで、私たちはポテトを分ける。ケチャップは一つ。先に譲るか、後に譲るかのゲームで、わざと負け合う。地図アプリを見るふりをして、彼は空模様を気にする。
「雨が来る」
「折り畳み、あるよ」
「君の分だけど」
「規約に“相合い傘”は禁止って書いてあったっけ?」
「書いてない。……第三条に追加しようか」
「“雨が降ったら、同じ傘に入る”」
「いいじゃん」
雲は予告どおり落ちてきて、しばらくして止む。濡れたアスファルトに、テントの白い縁が映る。
駅で別れようとしたとき、彼は少しだけ躊躇する。
「第四条を、今日の最後に決めたい」
「うん」
「“明日のことは、君が決める”。再更新するか、しないか。僕は押さない。承認ボタンは、君だけ」
私は笑って、親指を立てた。「明日の私に、丸投げしよう」
23:58。
私はベッドの端に座って、今日の一枚を開く。画面の中の私たちは、指先だけを繋いで、ちょっと不器用な距離で立っている。テントの白が背景の半分を占めて、川面が細い。完璧じゃない。だから好きだ。
23:59。
帯が流れる――はずだった。
けれど、来ない。
代わりに、通知が一つ、額縁みたいに浮かぶ。
〈“規約外の更新申請が届いています”〉
差出人の欄には、“R”ではない、知らない英字列。
私は迷う。
今日の私には、押す資格がある。でも、明日の私の分まで、決めてしまっていいんだろうか。
秒針が跳ねる音が、部屋のどこにもないのに、胸の中で聞こえた。
――――
次の24hの条件(宣言):
手は繋ぐ、キスはしない。
“自分に”嘘をつかない。
写真は一枚だけ、23:58にもう一度見る。
明日の承認は“私だけ”。
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