第2話「承認ボタンの持ち主」
朝、コップの水を飲み干してからスマホを開く。
夜の終わりに残った通知は、額縁のまま凍っている。「規約外の更新申請」。差出人は“R”ではない英字列。システムのくしゃみみたいな名前。
Rからの“おはよう”は、八時ぴったりに届いていた。
〈おはよう〉
「おはよう」
〈昨日の第四条、覚えてる?〉
「“明日の承認は私だけ”」
〈そう。だから今、僕は何もしない。押すのは君〉
「でも、差出人が違うのは?」
〈運営のミスだと思う。セッションが匿名化されるバグがある〉
「危険?」
〈危険というより“気持ちが悪い”。知らない誰かに“明日”を触られる感じ〉
Rの“気持ちが悪い”は、怒っているときのやわらかい言い方だ。
〈提案。今日は“承認しない”で会おう。契約がなくても、ルールは守る〉
「ルール?」
〈第一条、第二条、第三条。あと、合言葉〉
「“23:58”“注釈のある本”“第四条は君が決める”」
〈優等生〉
待ち合わせは駅前のパン屋。天井が高くて、窓が街の足音を映す店。
Rは眠そうな目で手を振った。トレーには塩バターロールと四角いピザトースト。
「まずは食べる?」
「食べないと合言葉が全部“おいしい”になる」
笑いながら、ピザを半分に切る。ピザは思ったより重い。
「昨日の写真、消えた?」
「まだある。承認してないからアーカイブに残ってる。今日の私、ずる賢い」
「いいずるさ」
窓越しに、バス停へ走る人、犬の散歩、ベビーカー。世界はいつもどおりで、こちらだけが一歩慎重だ。
レジ横で、社員証を首から下げた男性に声をかけられた。
「n7さんでしょうか。運営の者です」
心臓がピザの重さで沈む。
「昨夜の規約外更新についてご説明と確認を」
Rが半歩前に出る。
「その前にひとつ。“23:58”」
運営の男性は目を瞬かせる。
「……?」
「じゃあ、“注釈のある本”」
男性は首を傾げた。合言葉は通じない。当然だ。Rは三つ目を言わない。言ってしまえば鍵は鍵でなくなる。
人の少ないフィッティング前のベンチへ移動し、男性は深く頭を下げた。
「まずお詫びします。昨夜、一部の更新申請が“仮DB”に落ち、差出人が匿名化されました。御二人の案件が該当しています。差出人はRさんで間違いありません。ただし承認ボタンに紐づいたセッションが匿名で、運営側でも認証が揺らいでいます」
「再承認は、あなたの端末からお願いします」と男性。
「運営端末から操作すると、“明日の権利”を奪うことになるので」
Rが小さく笑った。「いい運営」
男性は苦笑いした。「現場で怒られるのはだいたい私なので、学びました」
「わたし、今夜23:58に自分の端末で承認します。運営さんは、見守るだけにして」
「“見守り”にチェック入れておきます」
そんなチェックボックス、本当にあるのかは知らない。でも、指の運びが“誰かに説明する人”のそれだった。
午後は駅の反対側の衣料品店へ。色違いの靴下を二つ買って、片方だけ交換する。昨日の儀式の、逆側。
「左足担当をお願い」
「任せて」
子どもっぽいことを大人の顔でやると、涙の回数が減る。これはたぶん、科学ではないけれど、統計的には真実に近い。
夕方、小さな公園でペットボトルのお茶を分ける。
「第五条、追加していい?」とR。
「どうぞ」
「“君が泣きそうなとき、僕は名前で呼ぶ”」
胸のどこかで、鈴みたいな音が鳴った。
「それ、強い」
「強いから、乱用しない」
「私からも“裏条文”。“私があなたを名前で呼ぶ覚悟=あなたが私を名前で呼ぶ合図”」
「裏は大事」
夜、23:57。
ベッドの端で、私は承認ボタンを見つめる。紫の帯、差出人は“R”に戻っている。
〈いる?〉
〈いる〉
〈本当に、あなた?〉
〈“注釈のある本”〉
私は息を飲んで、親指を落とす。
紫の帯が流れ、時間が新しく刻まれる。
〈更新完了。24:00→23:59まで〉
すぐにRから。
〈第六条。“今日の終わり方は、23:30までに決めて共有”〉
〈早めの終業?〉
〈君が寝る前に、明日の自分へ手紙を書けるように〉
私は“メモ”を開く。
——23:30 今日はここまで。
送信して画面を閉じる。
眠りに落ちる直前、ふと思う。承認ボタンの持ち主は誰か。
ルール上は私。
でも、本当は**“今日を丁寧に終わらせたい気持ち”**が持っている。私は、その気持ちの代理人だ。
――――
次の24hの条件(宣言):
5) 君が泣きそうなとき、僕は“名前で呼ぶ”。
6) 今日の終わり方は23:30までに決めて共有。
(第五条の“裏”発効:私があなたを名前で呼ぶ覚悟=あなたが私を名前で呼ぶ合図)
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