第二話 『リッパー』
緊張感が漂うよ。
ワトソンの左腕に装着され、五本指の先に獣のような鉤爪ついている。その刃は窓から差し込む月明かりに反射し、堂々とホームズの目に襲いかかる。
「ハッハッハッ!ノットのヤツめ。下手な芝居に乗ってやったというのにホームズを殺し損ねるとはな。やはりこのジョンが知る屑は皆、屑なのか!」
「ワトソンッ!お前がJTRとはどういうことだ、俺が納得できる理由を三〇字以内で説明しろ!」
ホームズはワトソンに指を突きつけて問う。だがワトソンは右手を顔に当てると、ホームズを睨んだ。
「……今やこの国は世界一と呼ばれている。だがこうは思わないか、世界一という栄光には失うものがあまりにも多すぎると。つまりこの国の技術が世界に漏れれば、大英帝国から大と帝が抜け落ちるというわけだ。」
「お前は何を言っているんだ?世界の技術が向上するってのは、大変喜ばしいことだろうッ!」
「知らんッ!おまけに五日後には技術だだ漏れの『万国博覧会』が開催されるらしい。馬鹿か我が国はッ!そこでこのジョンが名案を思いついた。」
ワトソンは鉤爪をカチカチと鳴らす。すでにホームズは殴りかかる準備をしていたが、ワトソンが指を振った。
「夢ある大英帝国で自国の民が死に続ければ、誰もこの国に近づかなくなる。そして結果的にィ!世界一ィ!なのでJTRを創立し、選りすぐりの殺人者を集めたというわけだ。」
まさか自分の相棒が、こんなにも恐ろしく、そして身勝手な野望を語るとは思わなかった。ホームズの額には血管が浮き出ており、その心は蒸気のように熱くなっていた。
「お、お前は!お前は、なんという野郎だ!酷すぎて暴言すら思いつかないぞ、お前が嫌いそうな悪口が!」
「フッ、ならば話を変えよう。このジョンの質問に答えるのだ、どうせ答えはノーだろうがな。……貴様もJTRに入らないか?衣食住の提供及び、高い月給と労災保険も……ッ!!グボォハァ!」
ドゴォッ!ワトソンの左頬に、ホームズの拳がぶつかった。ワトソンは窓から落ちる寸前まで殴り飛ばされ、ホームズは歩いて向かっていく。そう大きな拳を握りしめながら!
「国やら野望やら、そんな事は知らない。だが俺は無性に腹が立っている、お前に裏切られた気分だ。……違う、お前に裏切られたんだ!」
ホームズが歩くたびに、部屋には重圧がこもった。もう一発ブチかまそうとホームズは準備している。だがワトソンも一筋縄ではいかない。
ワトソンは窓から身を投げた!逃げるように、そして優雅に。ワトソンが道路に着地すると、ホームズも窓に寄りかかった。
「なんで今日は皆この窓から飛び降りるんだ。……いや、俺も一度飛び降りたか。」
「キャアアア!不審者よ、手に刃物をつけた不審者がいるわァァ!」
突如悲鳴が、夜のベーカー街に響いた。ワトソンが後ろを振り返ると、そこには高貴なる貴婦人が、愕然と手に刃物がついた男に指をさした。
ホームズは手すりを掴み、腹の底から大声を出す。
「野良犬のようにでもいいから逃げろ!ソイツは狂犬病よりも凶悪な殺人鬼――」
ブチァァッ!
長くて鋭い刃が、貴婦人の身体を貫いた。それに五本とも、大量に血を流して。貴婦人は数秒もせずに、力尽きたように身体からダランと力が抜け、地面に崩れ落ちた。
「このジョンを見た、それが貴様の後悔だ!」
すると五本の刃は、勢いよく上昇した。そして貴婦人も五本の細切れになり、身体だったものと血液が石路に飛び散った。
「ッ!……ワトソンンンッ!!」
手すりが弓のように変形するほど、ホームズの手に力が入った。
そう、ワトソンは禁忌を犯したのだ。英国紳士が淑女に手を挙げるなど、あってはならぬ禁忌。ワトソンは今、英国を敵に回したのだ!
ホームズは窓から飛び出すと、一直線でワトソンに向かって突っ込んだ。ワトソンは鉤爪の刃先を、哀れにも飛び込んでくるホームズの身体に向けた。
「飛んで火に入る夏の虫だ、このジョンが虫ケラの灯火を消し去ってくれよう!」
「虫が火を消せるわけねないだろうがぁーッ!」
ズサァッ、ブゴォッ!
ホームズの身体中を、刃は容赦なく襲った。傷がどの肌にもつけられ、破れた服の下からも血が染み出ている。
「馬鹿めェ、このロンドンが貴様の血で染まらせてくれよう!(……ッ!この男、これだけ切り付けているのにそのまま向かってくるぞ!なんだこィつゥーッ、戦車かァーッ!)」
だがホームズは止まらない。ワトソンの顔面にも、ホームズの掌底による一撃が入っていた!
「ドォワアアア!」
ワトソンは地面に叩きつけられた。鈍い音が閑静な街に轟き、倒れるワトソンと前にはホームズが待っていた。
するとワトソンは膝をつき、首を垂れてつくばる。そして白い涙を流しながら、詫び始めた。
「頼むホームズ、もう殴らないで!……このジョンが悪かった、今までの全てを反省し、ロンドン警視庁に出頭しようと思っていた。」
「……。」
ホームズは少しの沈黙の後、ワトソンに手を差し伸べた。許してくれるということだろうか、だがワトソンの不敵な笑み。
「(阿呆陀羅めッ!だから身内に脳まで筋肉でできているのかと訊かれるのだ。……このジョンが立ち上がった瞬間に、貴様の内臓を串刺しにしてくれよう!)」
ワトソンはホームズの手をザシッと掴み、立ちあがろうとした。しかしおかしい、ただ手を掴まれているだけのはずなのに、万力のような力を感じる。
ワトソンの後悔が始まった。
「なッ!まさかァッ!」
「……その手は俺に通用しない。なぜなら俺が普段から酷使しているからな、お前を立たせるのは殴りやすくするためだ!」
ホームズはそう言い放つと、ワトソンの顎に膝蹴りを入れた。痛みを感じる間も与えずに、ホームズは立て続けにワトソンの顔にラッシュを叩き込んだ!
連続で顔を打たれ、今度はワトソンの血が己の身体を染める。ワトソンは反撃する暇もない。
だが追い詰められた獣ほど、助かるためにどんな手段をもいとわないのだ。
「我が親愛なる部下よォォォ!助けろォォォッ!」
「ッ!……見苦しいし情けないし恥ずかしいな、ワトソンくん。それより俺よりも親愛なる相棒がいるというのか?」
ホームズはワトソンの額を指でツンツクとつついた。
……ガタンゴトン、ガタンゴトン……!
しかし遠くから馬車の音が聞こえてくる。ホームズが振り返ってみると、背後からダークオークの馬車が迫ってきていた!黒い斑点に包まれた二頭の馬は猛り、馬車は寸分の狂いもなく、ワトソンへと向かってくる。
「な、なんだぁー!?あんなのに轢かれちまったら、骨抜きにされてしまう!」
ホームズが驚愕していると、気がつけばワトソンはすでに立ち上がって駆けていた。そして馬車が自分の前をちょうど通る時にとび出し、ワトソンは止まらない馬車にしがみついた。このまま逃げるつもりのようだ。
「さらばだァ、名探偵ィ!このジョンを捕まえるなど、貴様には数世紀も早いィッ!」
馬車はそのまま、ベーカー街の闇に消えてしまった。
馬車はしばらく走り続け、ワトソンは馬車の上であぐらをかいて座っていた。息を荒げ、過ぎ去っていく夜の景色を眺めている。
「……危ないところだった。とにかく、危ないところだった。だがこれでヤツと離れられる、このジョンの活動がしやすくなるというやけだ。ムフフ、フハハ……?」
ワトソンは違和感というより、猛烈なる視線を感じていた。己が人々を刺してきたかのように、痛々しい視線が背中に刺さっていた。
振り返ると、そこには身体中傷だらけの男が立っていた。その傷は全て新しい、そしてその拳はワトソンに向いていた。
「ワトソンッ!鬼ごっこはまだ終わっちゃいないさ、俺の怒りも収まっちゃいない!」
「ホームズ!こいつめ、馬車のどこを掴んでついてきたのだ。まるでネバネバな接着剤のように付きまとってくるではないか!……ならば良い、その接着剤を貴様の血で洗い流してくれよう!」
彼らは馬車の上にいる。ガタゴトと馬車は止まることなく走り続け、どんどん夜のロンドン街を通過していく。馬車の速度は更に上昇し続ける。
ワトソンが立ち上がると、ホームズもすぐに殴りかかった。しかし殴る寸前で何かを察知し、身体を横に逸らした。そして自分の胴があった場所には、鉤爪が輝いていた。
「(危なッ!ここで引いていなかったらスペアリブになっていた。そしてこのまま突っ込んでも反撃されるだけじゃないか。難しいぜ、この問題は!)」
「どうしたホームズ、このジョンの鉤爪が恐ろしいとでも?実はいうとその通りなのだ、恐怖に塗れて死ぬが良い!」
ワトソンは鉤爪をホームズに向けて突っ込む。
「(素手と刃物じゃ圧倒的差!おまけに揺れて狭い足場、避けようがない!)」
ブッチュゥゥゥ!
身体を傾けたホームズの肩を、五本の爪が突き刺さった!血は背中側へと飛び散り、空中に置いていかれる。そしてワトソンは歯を見せて笑い、ホームズを嘲た。
「馬ー鹿ァッ!間抜けにもブッ刺さるとは、親が見たら泣くぞ。その前にこのジョンが、頭まで裂いてやろう!」
ワトソンは力を入れ、引き上げようとした。しかし刃は動かない、接着剤で固定されたかのように。
「(どういうことだ、こいつの筋肉が硬いのか?ならばもう一度引っこ抜けば良い。……ッ!?抜けないッ!?まさか、筋肉に力を入れて刃を無理矢理止めているのか!)」
「……俺は避けなかったんだ、こうやってお前をサンドバッグにするためにな!」
「な、何ィーッ!?」
ホームズはワトソンに連続で張り手を繰り出した。絶え間ない衝撃がワトソンを襲う!ワトソンは逃げようにも、腕を固定されているので逃げられない。ワトソンの体は更に血で汚れていく。
「(まずい!このままではまずい!だがどうしようもない!)……ホームズぅぅぅッ!」
するとワトソンは身体を捻った。とても力強く、ホームズに次ぐ力で身体を捻る。しかしホームズは殴るのを止めない。
「おうおう、どうしたッ!そんな馬鹿みてえに暴れても逃れられないぞ!」
「ホームズぅぅぅ!」
パキ、ピキッ……
「なんだろう、この固いものが割れるような音は、ワトソン!何をしようとしている!」
その瞬間!鉤爪の刃が全て折れた。ワトソンは力を入れたあまり倒れたが、ホームズの方には折れた刃先が突き刺さっていた。
「刃を折ることによって俺の筋肉による拘束から抜け出したんだな!……だがこれで、お前のご自慢の武器は無くなっただろう?ほらほら、あっかんべーだ。……ヴッ!?」
ホームズの胸に、金色のナイフが突き立てられていた。しばらくの沈黙が流れるとともに、ホームズは初めて痛みを感じ始めた。
そしてそのナイフの持ち手を右手で握っていたのは、紛れもないワトソンだった。
「このジョンが、保険に入らないとでも思っていたのか?」
ワトソンはホームズを、走る馬車の上から蹴り落とした。ホームズが道路に転がり落ちると、ワトソンもスタッと跳び、うずくまるホームズの前に立つ。
ホームズは声を出そうとしたが、なぜかでない。息が詰まるような感覚に襲われていた。
「(こ、声を出せない!図書館でもずっと騒いでいる俺が声を出せないなんてこと、ありやがるのか?)」
「あの金色のナイフには、即効性の毒を塗りたくった。インド帝国とかというよくわからん国の毒らしい……。……パンにバターを塗り、卵を割ってフレンチトーストにするのと同じだ。……今回の卵は貴様だァ、ホームズゥッ!」
ワトソンはナイフを振りかぶっていた。高く、そして威風堂々と勝ち誇り。だがホームズに反撃する力は残っていなかった!万事休すである!
チュッパァン!
轟く轟音、ナイフを地面に落とすワトソン、ワトソンの手から滴り落ちる血!
「グォォ!このジョンに風穴が空いたぞ、誰だ貴様は!」
ワトソンは振り返り、路地を見た。そこには拳銃を両手で持ち、ワトソンに銃口を向ける警官が立っていた。その警官に気がついたホームズは、残る力でその名を叫んだ。
「レ、レストレード警部ッッ!」
「イエス、アイっアム!……ついに見つけたぞ、JTR総大将ジョン・ザ・リッパー。貴様に聞きたいことは山ほどある、おとなしく投降するのだ。」
ワトソンはリボルバー式拳銃を、ワトソンに向け続けている。だがワトソンは地面に落ちたナイフを拾い、もう一度振りかぶった。
「ならば聞かせてやろう、名探偵の悲鳴を――」
チュッパァン!
「ウガァァ!このジョンが、たかが警察などに二回も撃たれるとは、なんたる恥辱!」
ワトソンな怒り、叫ぶ。だがレストレードは冷静に、次の弾をこめる。更にワトソンを撃つつもりのようだ。
ワトソンは考えていた、どうすれば逃げられるのかと。ボロボロの身体と使えない武器で戦えば、負けることは明確。
「……このジョンの醜き姿を、今宵は特別に見せてやろうッ……!」
するとワトソンは!レストレードに背中を向けて駆け出した!
「(な、何ィーッ!何の捻りもせずに、走って逃げていく!すぐに追わねば、だけど、身体の力と意識が、抜け……。)」
ホームズの視界は真っ暗になり、気を失った。最後に銃声が何発か聞こえたが、もはやそれすら、蚊の羽音よりも小さく聞こえた。
ワトソンの姿は闇に消えた。
どうする、名探偵。




