第一話 醜聞の仮面
ロンドンが誇る名探偵、その名も……。
時は十九世紀、世界で最も技術と文化が発展した大英帝国。ヴィクトリア朝が放つその光には、静かに悪が潜んでいた。
それからここはベーカー街。白い仮面を顔につけて豪華な身なりの男が、看板に『221B』と書かれた下宿の前に立つ。それなりに掃除がされた煉瓦造りの壁、男の顔は、二階の窓に向いていた。
男は建物に入り、二階まで上がった。シックな扉が並ぶ中、角の部屋だけが重々しい鉄の扉だった。男はその扉の前に立つと、手の甲でガンガンと扉を強く叩いた。
暫時、扉はギギギと背筋が凍るような不気味な音を鳴らし、ゆっくりと開く。中から顔を見せたのは、髪全体を後ろに撫でつけた、目つきの穏やかな男だった。
「……ここが大探偵の部屋か。」
「私はそんなに大層な者じゃない、ただのしがない助手だ。」
この男はその大探偵の助手、ジョン・H・ワトソンである。ワトソンは仮面の男を招き入れた。
部屋の中はハッキリ言って、豪華とは言えなかった。家具は必要最低限の数しかなく(むしろ寝床と丸いテーブルしかない)、壁も床も真っ白に塗られている。唯一目立つものといえば、一枚だけの大きな窓と、そのテーブルに置かれた湯気の見えない二人分の紅茶だった。
「彼は今出かけているので、帰ってくるまでゆっくりしろ。」
「(こんな部屋でか。これでは光のない独房の方が落ち着くぞ。)……是非、そうさせてもらおう。」
仮面の男の口は弓のように下がっていた。しかしため息をつくと、ティーカップに入った紅茶に目を移した。
「ふむ、英国といえば紅茶だ。紳士淑女、かつ大人の嗜み。うまくなかろうが嗜まねば無礼というもの。では、いただきます。ンゴンゴンゴンゴ……!」
仮面の男はカップの取手に指をかけ、紅茶を飲み干した。
だが男は背後から視線を感じた!するとワトソンは呆れるように鼻で笑う。
「フッ。出されてもいない茶を勝手に飲むとは、英国の風上にも置けぬ屑が。」
「え?」
仮面の男は困惑した口元になり、間の抜けた声を出した。しかしすぐに低い声を出し、唸るように言う。
「……何ィ?私は客だぞ、お客様は王様だぞ!そして先ほどから背中を殴られるような視線は一体……!」
ドゴォッ!
仮面の男は背中から殴り飛ばされた!男は床に倒れ、後ろを振り返る。
そこには黒いシルクハットと黒いスーツに身を包んだ、英国紳士が立っていた。だがその身体は鍛え抜かれ、筋骨隆々であった。
そう、この勇ましい大男こそが名探偵、シャーロック・ホームズである!
「ワトソンくん。俺たちの部屋に知らないヤツが突っ立っていたから殴ったが、知り合いだったかな?」
「……知らんな、こんな屑は生まれてこの方初めて見た。」
ホームズとワトソンは互いに目を合わせ、頷き合った。しかし仮面の男はすぐに、大声をあげる。
「おい!こんなことをすれば、私の国が黙っていないぞ。」
「聞きましたかワトソンくん!……俺には聞こえませんでした、んで何だい。」
ホームズは両手を耳元に添え、高い声で罵る。すると男は地団駄を踏みながら立ち上がり、ホームズの顔に指をさした。
「私はかの有名なボヘミア王国国王、デンワー・ダズリングだぞ!ここには用があったので来たが、正当防衛の下でお前を処す!」
デンワーと名乗る男は高笑いをあげた。彼の言う通り、デンワー・ダズリングとはボヘミア王国の国王である。英国には身分を伏せて視察をしに来たのだろうか。
デンワーはそのまま腰回りの鞘に手をかけると、持ち手の汚れた短剣を抜いた。持ち手の他にも、刃には赤黒い血液と思われる汚れも付いていた。
「相手は国家権力にも勝る王様らしい。ホームズ、どうする?」
気がつけばワトソンの指には、空のティーカップがかかっていた。そしてホームズはワトソンの問いに親指を立てる。
「王様というのはどんな金塊よりもどんな宝石よりも、莫大な金になる。ならば答えは一つ、拉致らば良いんだッ!」
「何ィ!なんて怖い思想の持ち主だ、ますます処したくなってきたァ!」
デンワーは狼狽えながらも、短剣を逆手に持ちホームズに飛びかかった。一般人は、ここで背中を見せて逃げるだろう。だがホームズは拳を突き出した!拳はデンワーの腹に直撃する。
「グバァ!なんだこの衝撃は、私が勢いよく突っ込んだからか?」
ホームズはそのままデンワーの胸ぐらを掴む。そしてもう片方の手を上げ、指を振った。
「ノンノン、ノンノ〜ン。答えは単純明快、俺は毎日欠かさずトレーニングをしている。お前みたいな人間に、英国式の挨拶を喰らわすためにな!」
ズドォォ!
ホームズの拳がデンワーの顔面にめり込んだ!デンワーは吹き飛ばされ、唯一の家具に激突した。デンワーは汚い言葉をブツブツと呟きながら、フラフラと立ち上がる。
「ち、畜生。畜生、畜生!……大変名残惜しいが、私は恥とプライドを捨て逃げてやるぞ!」
デンワーはそのまま、窓の方へと走り出した。そのまま身を丸め、止まることなく――
バァリィィィィン!
窓を突き破り飛び出した。ワトソンも思わず身を退け、声を出す。
「偉大なる国王が逃げたぞ、ホームズ!」
「逃げられたら追いたくなるのが生物だよ!」
するとホームズも走り出し、窓の外へ飛び出した。沈みかけた太陽が眩しかったが、ベーカー街の道路と街並みの美しさが非常に分かる。
ホームズはまるで英雄のようにドンッと着地した。そして静かにゆっくりと立ち上がる。
「ってて、あー痛い痛い。恐ろしいね、時の流れというのは。……ッ!な、なんだコイツー!?」
ホームズが見上げると、確かにその道路の上には仮面の男が立っていた。ただ、二人いる。姿形が寸分も違わぬ二人が、マントで口元を隠し、ホームズの前に立っていた。
「瓜二つにもほどがある。双子でも雀の涙くらいは違うだろう!」
「ふっふっふっはっ。国王ならば影武者の一人や二人はいて当然だろう。……影を選べば、私が背中に短剣を突き立てる。さあ来い、殴るだけが取り柄のカス探偵よ!」
二人のデンワーは勝ち誇るように笑った。するとさっき彼らが飛び出した窓から、ワトソンが身を乗り出して顔を出す。
「ホームズ!どちらかが偽物だ、本物を当てなければ返り討ちにされてしまうぞ!」
「(おいおいおい、困ったなこれは。どっちが喋っているかすらもわからなかった。そして俺は二択ってのが一番気に入らないから。細かい違いを探すか?質問責めするか?)」
ホームズは考えたが時間がない。するとホームズは決心するように拳を握りしめ、二人を睨んだ。
「(……いや!考えるなんてらしくないな、シャーロック・ホームズ!)」
ホームズは駆け出した。しかし二人のデンワーどちらにも向かっていない。二人のちょうど真ん中を目掛けて走っている。
「(何ィ!どちらに攻撃するか、ギリギリまで悟らせんつもりか。反撃か守りか、迷うぞ!)」
「二択、三択、四択と俺は縛られることが嫌いでね。朝にパンか米どちらを食うかと問われたら、俺はコーンフレークと答える!」
ホームズはそのまま、二人のデンワーの間を走り抜けた!
「え!何をしているの!」
「もはや俺は選ばん、答えが分からないからだッ!」
呆然とする二人。だがホームズは歩道まで走り抜けた。そして馬鹿にしようと、デンワーが笑おうとした瞬間!
ガコオオオオンン!!
デンワーは二人まとめて馬車に跳ね飛ばされた!
「(何ィィ!……そうだここは道路の上だ。馬車が通るのは日常茶飯事、だが私は彼の行動に惑わされ忘れていたァ!)」
「ハッ、道路は危ないと考えなくとも分かるだろう!」
ホームズはそう言い放ち、デンワーたちは地面にドスンと倒れた。
その様子を二階から眺めていたワトソンも、開いた口が塞がらなかった。
「……ホームズ、どこまでも侮れんやつだ。では私はロンドン警視庁に通報するとしよう。」
ホームズは二人の男の身体を調べた。片方の仮面の男の背中には、血だらけの短剣が隠されていた。つまりこちらが本物のデンワーというわけだ。
ホームズはデンワーの髪を掴み、頭を持ち上げる。痛がり抵抗するデンワーだったが、力は虫よりも弱かった。
「……!お前、ボヘミア国王じゃないな!」
ホームズはデンワーの仮面を剥ぎ取った。その隠された顔は、死人のように醜く、傷だらけであった。以前新聞に載っていた王の顔とは、寸分も合わなかった。
「ああ、そうさ。私は国王なんかではない。ヤツは間抜けなことに、夜に路地裏を歩いていやがった。俺は誘拐・監禁し、王になりすましたのだ。……私の本当の名は、ノット・トゥルーマンである!」
「な、何ィーッ!?」
ホームズ、驚愕!なぜこんなにも驚いているのだろうか、それにはれっきとした訳がある。
「ノット・トゥルーマンと言えば、プロの殺し屋集団『JTR』の組員じゃないか!」
JTR。それは今のイギリス、いや世界を震え上がらせる外国人ばかりを狙う殺人鬼の組織である。被害者の数は三桁を超え、ボスである『リッパー』による被害者は皆、無惨にも切り裂かれているという。
このノットという男は、ロンドン警視庁に指名手配をされた大悪人だったのだ。
「私はシャーロック・ホームズを殺すという任務を受け、このくだらん街にやってきたのだ。」
「……JTRん中じゃ、俺は人気者というわけか。じゃあお前に聞くことが幾万と増えたね。」
すると道の遠くから、重苦しい駆け足の音が聞こえてきた。見てみれば、馬車が走ってきている。王冠を被った太陽のマーク、ロンドン警視庁の馬車だ。
黒い馬が引く馬車はホームズたちの前で静かに止まる。そして馬車の中から降りてきたのは、尖った口髭にパイプを咥えた警察だった。
「ッ!お前はG・レストレード!なぜここにいる!」
「そりゃ警部だからな、いて悪いかね。」
G・レストレード、ロンドン警視庁を代表する手練れの警部である。彼が捜査する事件において、未解決だった事件はないという。
レストレードは懐から銀色の手錠を取り出し、ホームズが取り押さえるノットにパイプを向けて言った。
「ノット・トゥルーマンが出没したという通報があり、私はここに来たのだがね。その殺人鬼は今や、大男の膝の下とはな。とにかく連行する、話は署で聞かせてもらおう。」
「いや少々お時間よろしいですね?コイツは俺がとっ捕まえたんだ、先に俺が尋問する。」
ホームズはノットの額を指で叩きながら抗議する。だがレストレードは眉を下げ、困った顔をする。
「しかしまあ、できればまあ、うーんまあ……。」
「分かった分かった、そこまで答えに困るとは思わなかった。だったらソイツを連れて、とっとと失せな!」
ホームズはノットを警察に引き渡した。
気がつけばすでに夜。周囲の建物の照明が目立ち、明るかった街が寂しく感じる。そしてホームズも、誘うように欠伸をした。
「もう眠くなってきたな、ここは一つ探偵らしいことを言ってやるよ。……人の身体というのは不便だ。眠りさえしなければ、事件の解決は数刻も早くなるのに。んじゃ。」
「待ちたまえ、シャーロック。君に伝えておかねばならぬことがある。」
帰ろうとするホームズを、レストレードは呼び止めた。そしてレストレードはどこか不安そうに、ホームズに伝える。
「JTRのことなのだが。今回ノットは君を襲いにここへ来たというわけだが、つまり奴らは君の所在地をすでに存じ上げているというわけだ。」
「関係ないな、来たらまた撃退すれば。」
「そして我々警視庁の調査により、JTRの総大将である『リッパー』も、このベーカー街に潜んでいるということが判明した。……一応伝えたからな、もし君の身に何かが起きても、我々は助けに来ん。それでは良い夜を。」
レストレードは無愛想な顔で言うと、馬車に乗り込んだ。そしてガタゴトと静かな夜に似つかわしくない音をたてながら、夜闇に消えていった。
ホームズも階段を登り、自分の部屋まで戻ってきた。部屋には、冷めた紅茶を飲むワトソンが、テーブルに座っている。
「帰ってきたか、ホームズ。今回の事件も見事に解決したということだな。」
ホームズも肩の力を抜き、近くの壁に寄りかかった。
「にしても最近のサツは出来が違う。俺があの豚野郎を取り押さえて間もなく、レストレードがすぐ来やがったから。」
ホームズが悔しそうに言う。するとワトソンは小さく鼻で笑い、自慢するように語った。
「フッ。実は言うと私が通報したのだ、廊下にある通信機を使ってな。まったく、感謝してくれてもいいぞ。」
ワトソンは誇らしげに言う。
だがホームズ、この短い自慢の中に違和感を覚える。そしてホームズはこういうことを黙ってはおけない性格だ。
「ワトソンくん、お前が通報したのか?」
「うむ、そうだが?たまにはありがとうの五文字ぐらい、聞いてみたいものだが。」
「レストレードはこう言っていた、『ノット・トゥルーマンが出没したという通報があり……』と。……なぜノット・トゥルーマンだと分かった?彼の正体を暴いた時、お前はいなかったのに。」
時が止まったかのように思えた。和んでいた空気は瞬く間に張り詰め、二人の顔からは笑顔が消えていた。
気がつけばワトソンは窓の前に立っていた。そしてその左手も変化していた。
指の先に鋭く長い刃物が付く鉤爪を、装備している。刃物は月明かりに照らされ、反射光がホームズの目に当たる。
「……フッ、なぜだ。なぜこんな時に探偵らしい推理を、忌々しきホームズめ。いつも依頼をこなす時は頭を使わんと言うのに。……そして今更隠しても、貴様はこのジョンの身体を舐め回すように調べるだろう。」
「ワ、ワトソン、くん……?」
ホームズはワトソンの背中を睨む。悲しく、そして怒りに満ちた目で。
しかしワトソンは振り返り、腕を広げる。そして容赦なく言い放った!
「そう、そのお茶目でかわいいワトソンくんが!J・T・Rだァァァァッッ!!!」
突然の、裏切りッッ。




