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ヒト+モノ=  作者: 白雲
3/8

一章~2~


     8


 朝が訪れる。日が昇り始め、夜の冷たい空気が少しずつ浄化されていく。

それに伴い、空気が暖まっていく気配。

窓越しに昇り始めの日光を見ながら、一宮唯は息を吐く。部屋の中は空調が効いていて過ごしやすい環境が保たれているが、心なしか息苦しそうな溜め息だった。

 始まりというか、眠っていないため前日から記憶を持ち越している一宮にとって、ミサキが目覚めてから日にちが進んだようには思えない。

体感の時間が実際の時間軸から明らかにずれていた。

 体調的に言っても、良くは無い。それだけでも深い溜め息を吐くには十分な要因だったが、原因は他にあった。

 言うまでもなく、ミサキの存在だ。

 ミサキはあれから、夜間中絶えず家の中を歩き回って、家電や家具、その他物質的な大半を見、触り、知識としていった。

家の中を歩き終わり、一段落ついたかと思ったところで、インターネットへの接続をさせてくれと言われ、一宮は自室のノートパソコンを彼女に貸した。そこでの知識量、情報の含蓄量は流石に多かったらしく、一宮宅を徘徊していた頃よりもグッと速度は落ちて、それからは齧り付くようにネットサーフィンを試みていた。端子を繋いだりしていたので、プライバシー的な事を理由に止めさせようと思ったのだが、彼女の横顔を見て、それもやめてしまった。

 澄んだ瞳が真剣に何かをやる様は、邪魔をしてはならないと思わせるには十分だった。

 しかも同室に同年代の女の子がいる状況で眠れるほど、一宮の肝は太くなかった。

 そうして深夜と呼ぶ時間帯から、明け方と呼べる時間に移行し、とうとう朝方と呼んで差支えない段階になってもミサキはパソコンの前から離れなかった。

 ミサキが訪れた夜は目を閉じているミサキを見ながら夜を明かし、今度は目を開いているミサキを見ながら夜を明かした。実質ミサキと出会ってから寝たのは、神代と電話をした後の転寝くらいだ。彼女が現れてからというもの、一宮の睡眠時間は著しく低下している。元々睡眠を多くとるタイプでは無い一宮でも、二日連続ともなれば流石に辛い。

 そうこうを経て自室の椅子に座って、丸めることもなく背筋を伸ばしたままのミサキを見ながら、一宮は壮大に溜め息を吐いていたのだ。どうしようか、と。

 睡眠についてではない。彼女についてだ。

 声を掛けようか、幾度か思ったその事柄もそろそろ限界だ。一宮はその度に言い訳を自分で唱えるか、惰性で諦めてきたが、時間は学校の登校時間に迫っている。

 こんな非日常的な境遇下におかれても、一宮は日常への慣れから抜けられず、学校に遅れてしまう、そんな酷く普通な焦燥観念に駆られていた。

 新聞を買うのに付き合うとかの会話を思い出すも、彼女の様子を見るに最早不必要かもしれないとも考える。紙の媒体より、今彼女が触れているのは情報の質、量、どちらをとっても勝る。この上では新聞など大した価値を発揮しないだろう。

 そんな憶測も立つから、余計に一宮は駆られていたのだ。

 学校に行かなければ、という観念に。

「――ふう」

 もう一度落ち着くために息をつく。

 尚、ミサキの様子に変化は無い。

 一宮は覚悟を決めて立ち上がり、本来自分の場所たるその机に歩み寄った。

「あの……、ミサキ?」

 声を掛けた。

 すると、拍子抜けするぐらい、迷っていたのが莫迦らしくなるくらいの速度で、ミサキは振り向いた。眼前のモニターから一瞬の逡巡も無く、一宮の声に反応した。

「何? どうかした? あ、新聞紙ならもういらなくなったの。買ってくれるって言ってくれたことには感謝してるんだけど、インターネットで十分だった。だからもう大丈夫。ありがとう。…………ん?」

「新聞は、うん判った。済んだなら、良かった……って、どうかした?」

 言葉の最後で不思議そうな表情を浮かべて、疑問符を頭上に乗せたミサキに返答しつつ、その変化に質問を投げる。

「アンタ、言いたいことがあるなら言って」

「はい?」

 心中を読まれたような感覚に驚き、一宮は声を高く上げてしまう。

「だから、言いたいことがあるなら言えって言ったの。アンタ、私の主人……なんだよ? 遠慮とかそういうの、いらないんだからね?」

 主人というワードに躓きつつも、言葉の割には上から目線に聞こえる言葉で彼女は言った。

 一宮はそんなミサキの表情、仕草、声音が面白くて、小さく笑ってしまう。

「な、何笑ってるの! 私変なこと言った?」

 笑われたミサキは表情を一変させて怒りを見せる。

「や、そんなことは、ないよ」

 当たり前の感情変化、表情の機微。人間に当たり前に備わったそれらが、ミサキには当然のようにある。希薄でもなければ欠落もしていない。

 見ていて、話していて一宮が感じた素直な感想だった。

 やっぱり彼女は人間じゃないか、と思ってしまう。

「嘘、だって表情が笑ってた。口角がしっかり上がってたよ。あれで笑ってませんでしたとか白々しいよ。主人の癖に!」

 生身の言葉、剥き出しの感情。作り物では有り得ないそれらを感じられる。

「なら、笑った」

「認めるんだ?」

「認めるよ。だから、ミサキもさ。主人って言い方、やめなよ。慣れてないんでしょ、そういうのに。だったら、僕の事は唯って呼べば良い。その方が呼びやすいでしょ? それに僕としても気が楽なんだ。勿論事情があって、とかなら強制はしないけど」

 想像もしていなかったことを言われたのか、ミサキは面喰った風で、怒りはどこかに萎んで消えてしまったようだ。

「それは、構わないけど……。アンタはそう望むの? 主人、の望みって言うなら聞いてやらないことは無いけど」

 あくまでも判断は一宮に委ねる。そういうことらしい。

 一宮は改めて微笑み、言葉を返す。

「今も言ったけど、ああ、僕の望みだ。唯って、名前を呼び捨てにしてくれ」

「……そう、そういうことなら仕方ないわ。唯、そう呼ばせてもらう」

 人の望みを聞いた割には、自分の望みが叶ったようにミサキは言った。

「うん、そうして。そっちの方が僕も楽だ、ミサキ」

 返しながら、自分に名前で呼べと言う同級生を思い出し、期せずして彼女の気持ちが少しだけ判ってしまったなと思った。

 呼び方なんて大した意味も無いことだと思ってたけど、違ったようだ。名前で呼ばれるというのは良い。そして名前で呼び合えるというのは、もっと良い。

「う……ん、判ったわよ。……唯」

 小さな言葉の揺れが、より可愛らしい。そんなミサキの反応を見て、一宮は微笑んだ。新聞紙を一緒に買いに行くのが出来なくてちょっと寂しかった気持ちは言わなかったものの、それを補填するに余りあるミサキを見れて、一宮は満足して笑えた。


     9


 ミサキはその後もインターネットを見ていたいと言うので、一宮はミサキに断りを入れてから、学校へ行くことにした。

つい先日知り合った女の子を自宅に一人で置いて、学校へ。

 異質ともとれる行動だったが、一宮は学校へ行くという当たり前の行動を出来ることで、少し落ち着きを取り戻していた。

 徹夜のせいで頭は軽くふらつくし、それなのに日光は容赦が無い。鬱屈に思いつつも、少量の晴れやかさを帯びて、通学路を歩く。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 有り触れたやり取りを、慣れない二人が照れながら交わした後の徒歩だ。

住宅街を抜けて、坂を上って、同じ制服に身を包んだ日常的な光景の中を一宮は歩く。清々しささえも、感じ始めていた。

 なのに、そんな日常はいとも容易く壊される。


「喧嘩は構わないけど、一方的な蹂躙はいけ好かないわ。他者を貶めるだけの優越が君達にあるとは到底考えられないんだけど、その点、どう考えるかしら?」


 聞き慣れた声ではあったが、一宮は聞いたことが無いことにしておきたかった。けれども、そういうわけにもいかないので覚悟を決めて、視線を声のした方に合わせると、予想していた通り、校舎裏と言う目立たない場所で、目立ちすぎている神代絢がいた。

いじめの真っ最中と言わんばかりの光景に向き合って、堂々としている。

制服も身体も傷付いた眼鏡の男子生徒を、不良と見た目が物語る髪色や制服の着崩しの生徒六人が囲んでいる状況に、明確に首を突っ込んでいた。

 それどころか腕を組み、肩よりは長い栗色の髪を靡かせ、君臨していた。

 一宮は学校でも数少ない友人と呼べる人物の所業を前に、素通りするのも憚られ、足先を浮かないながらもそちらへ向ける。

足取りは普段の半分速程度だ。

「ああ? てめえ舐めてんのか? 取り敢えず、俺らは別にイジメとか下衆なことしてねーから。勘違いしないでもらえっかなあ?」

「みんなで遊んでただけだよ、なあ? 雨獅子くーん?」

 くひ、ふひ、などという気味の悪い嗤い声を響かせながら、二人の不良に三人までが同調を示す。雨獅子と呼ばれた傷だらけの男子生徒は、項垂れたまま、二人の不良が絡み付く腕を弾くこともなく甘受している。だが、一人だけが、危機感の混じった表情をしていた。

「……なあ」

 訝しむ瞳を揺らしながら、神代を視界から外さず、囁きかける。

「あ? なんだよ。まさか今更怖気づいたとか……」

「そうじゃねえ。そうじゃねえけどよ、……あの女。神代絢だ。この前一年で生徒会長になりやがった、大層偉い御令嬢」

「は? あーそう言えば、言われてみればいたっけかな、そんなふざけたアマ。んで、お前そんなんでビビってんのか? 柄にもねーなあ、おい」

「うっせ。だってよ、あいつの親父さん、元首相だぜ? しかも今も日本って国を裏から糸引いて操ってるって言われてる。一年生で入学直後に生徒会長任命されたのも、親父の力らしいし、実際俺らみたいな人間一人消すくらいどうってことないぜ? 生命的にも社会的にも、音沙汰なく抹消出来ちまう。その辺のヤクザよかやべーぜ……?」

「はっ、反吐が出るぜ。親が偉そうだから、その七光り浴びてる私も偉いです、ってか」

 最初は小声で、雨獅子にもたれかかるリーダー格の不良に、焦燥感を言葉に告げたその一人だったが、結局忠告は意味を成さず、彼は苛立ちを超えて楽しそうに口角を上げた。

 視線が反骨心を混ぜ合わせ、生理的拒絶に満ちた黒い感情が神代を射抜く。

「本当にそうだったとして、恐れる必要あんのか? あんなの、つまるところただの一人の女だぜ? 仮に偉いポストの御嬢様だとしてよ、女として屈服させちまえばいいわけだろ?」

 不良の眼差しが舐めるように神代の肢体の上を蠢く。

 対する神代は、真っ直ぐにその視線に自身の視線を向け、真っ向から見合った。彼は明らかに見上げるように睨んでいたが、神代はその不良生徒を対等にも、ましてや見上げもしておらず、見下げていた。体格的には変わらないので物理的には、対等に見合っていたのだが、本質的に神代はその生徒を明瞭に見下していた。

 瞳は冷たく、汚物を見るような眼差し。

 不良生徒が息を呑み、怯んでいるのは見ての通りだった。

「余計な言い訳はいらないわ。君達は、自分がその男子生徒にイジメを働いていたことを認めて、彼を開放し、以降危害を加えないと誓う? それとも、誓わない?」

 歯噛みする不良生徒が一気に気概を削がれていく。牙を抜き取られていく。

 荒事にはならなそうだと思いながらも、一宮は神代の後方に立つ。神代は気付いているのだろうが、振り向きはしない。仮に荒事になったとして、一宮は腕っぷしに自信があるわけでもないのだが、一瞬の盾ぐらいにはなれるかと考えていた。彼女に気付かれていようといなかろうと、そうすることに支障は無いので、敢えて自身の存在を伝えはしない。

 それに現状、対等でない向き合いだとしても、彼女が今対立しているのは彼等だ。

神代は誰かと向き合っている時は、その片が付かない限り、他の事には注意も視線も向けはしない。

 状況次第では頑固、かつ面倒を呼ぶ原因になるのだが、一宮自身はそういう神代が嫌いではない。むしろ好む部類に入る。

 だから、安心しつつ、やっぱり日常だなと思い直して、状況に向き直る。

 圧倒的な風格、神代絢が発する空気に呑まれた校舎裏は、最早彼女の空間になっていた。なのに、ずっと言葉で威嚇していたリーダー格の不良だけは牙を削がれずにいた。

「調子乗ってんじゃねえぞ、アマ。今すぐその綺麗な体、泥まみれにしてやるよっ!」

 言葉より早く、金髪オールバックのその男は地面を蹴り上げ、呆然と神代の空気に圧倒され服従している他の不良達を置き去りにして、神代との距離を詰める。シルバーの指輪をいくつもつけた拳が振り上げられる。

 一宮は油断していた自分に喝を入れ、直ぐに駆け出そうとするが、目の前にいた神代がそれを制するように掌を一宮の前に出した。

 少しだけ横に傾けた顔には、薄い笑みが見える。

 その口は、手を出すな、と動いた。女の子らしい朱色の艶めかしい唇が、そんな言葉を紡ぐために動いた。

 一宮はそんな神代を見て、駆け出そうとした気持ちを一気に削がれ、呆れ、溜め息を一つ吐き、見守ることにした。

「綺麗なお顔の無様な泣き面みせてみろやあ!」

 距離は一気に縮まる。不良は神代を射程範囲に捉え、肩を使って腕を引き、殴る動きへと移る。対する神代は両手に力を入れずダラリと伸ばし、足は肩幅程度に広げて無表情のまま立ち尽くしている。見方を間違えれば呆然と立っているようにしか見えない立ち姿だ。

 だからだろう、勝ったと思った不良の表情には笑みが浮かび、拳を一気に振り下ろす。力一杯。男が女に対してやるには最低な速度で。不良は容赦なく、自分の持てる最高の速度でその右拳を振り下ろしていた。しかし、それはあくまでも彼にとっての最高速度でしかない。

 神代絢の目から見れば、到底速いと呼べる代物ではなかった。

 真正面に繰り出される拳を、神代は膝の上下移動と足首の横移動のみで斜め下方向へ躱してみせた。そのまま不良の懐へ身を捻じ込み、背中を彼の腹部へ当てる。続けて空を切った右腕の肘関節辺りを両手で持ち、殴る勢いで前に向かっている彼の速度を利用し、自身の肩に彼を乗せていく。勢いに任せて左足が宙に浮いている不良の残った右足を、身体を回転させた水面蹴りで刈り取り、彼の身体は地面から離れる。

「は――……っ?」

 何が起こっているのか理解できていない彼の表情が、スローで滑稽に見えた。

 笑みは涸れ、呆然と口を開いているだけに成り下がっていた。

 神代の身体は地面を滑りながら横回転を続け、不良を持ち上げた腕は彼ごと地面へ振り下ろす斜め回転。大した力を使うでもなく、彼女の肩を軸に不良は為す術もなく持ち上げられて、そのまま地面に落とされた。

「ぐ――あ……っ」

 惨めな声と共に背中から地面に強打した彼の意識は、驚愕の表情を一瞬浮かべた後に、静かに失われた。

 少しだけ投げた体勢のままでいた神代は、その数秒の残心を終えて身体を正す。

「お父様がどうこうとか、そんなの関係ないわ。こんな些事にまでお父様の手を入れる気は、私には無いから。それにこんな軽い荒事なら私一人で十分なのよ。かかってくるならかかってくれば良いじゃない。十人組手くらいなら、小さい頃からこなしてるから。それで気が済むなら向かってきなさい。生徒会長としてその曲がった精神ごと、歪みを正して差し上げるわ」

 笑顔の無い無表情の言葉が、不良達に突き刺さる。

 威勢は完全に失われ、そこには怯え、震える只の男子生徒しかいなくなった。

「お、俺は最初からこんなこと、嫌だったし?」

「イジメとか、そんなん、しねえよ。うん」

「はっは、ごめんな雨獅子。もう関わらねえから。お前には。な」

 口々にそんな言い訳を震えた声混じりに言い残すと、残った五人の不良達は倒された不良もいじめていた男子生徒も置き去りにして、一目散に逃げ出した。

「せめて仲間ぐらい連れて行ってあげなよ。薄情な連中」

 言い捨てながら神代自身、倒れている不良にも逃げ去った不良にも、既に興味を失っているようで視線は自然と残された一人に向く。

「雨獅子くんと言ったかしら、災難だったわね」

 言葉をかけるも、雨獅子は神代には返事もせず、散乱した自分の持ち物を淡々と片付けると折れ曲がった猫背を一層曲げて、校舎裏から出ていこうとする。

 神代は特に何も言わずに自分の横を通り過ぎていく彼を失笑気味に見送るが、その後方にいた一宮は見過ごせなかった。

「せめて一言くらい礼でも言ったらどうかな? 君は助けられたんだろ?」

 無意味と分かっていて、傾いた眼鏡を正す俯いた雨獅子にそんな言葉をかけた。助けた当人の神代が見過ごしたのだから、最早完全な御節介でしかないのは明白。それでも礼儀として、不本意だとしても、恥ずかしくとも、助けられておいて礼の一つもないと言うのは頂けないと一宮は思ってしまった。

「――……」

 返答は無い。

 冷徹な、凍った真っ黒な瞳が、虹彩が、黒ずんだ視線が返ってきただけだ。

 黒縁の四角い眼鏡のレンズの向こう。

 闇とも淵ともとれる、暗澹としたモノを秘めた目だった。

 その瞳を見、視線を合わせただけなのに、一宮は軽い身震いを覚えた。不良達に何もやり返せず、されるがままにいじめられていたその生徒の瞳に、圧倒された。

 汗腺が反応し、嫌な汗が滴り落ちる。

 無表情の暗い感情が、丸ごと瞳に押し込められているように感じる。

 一宮はそんな雨獅子にそれ以上の言葉を発することも出来ず、やがて視線を外して彼が一宮の横を通り過ぎるまで、開いた口が塞がらなかった。

 彼が視界から消えた今でさえ、彼の瞳に囚われているような不思議な感覚が抜けない。

「一宮唯。こんな場面、見ていて楽しかった?」

 神代が近くまできて、そう口にするまで呆然と立っていた。

「ん、ああ。偶然こっちから聞き覚えのある声が聞こえたから、立ち寄ったんだ。楽しくはないけど、放ってはおけないと思ったから」

 何とか意識を平常に戻し、返答する一宮。

「そう。まあ役に立つ立たないは二の次にして、後ろに構えててくれたのは嬉しかったわ。ありがとう」

「それは嫌味? 確かに僕は喧嘩とかはからっきしだけど」

「全然。お礼を言ってるのよ。ありがとう、って言ったじゃない。これでも私は女なのよ。沢山の男子を前にしたら、表には出さなくても、恐怖しているのよ」

 嘘か気休めか判らないことを、神代は真実味のあるトーンで言う。浮かべた笑顔は先程不良と対峙しているときのものとは違って、女の子らしい笑顔だった。

「それが本当かどうかは知らないけど、いるだけで微少にでもお役にたてたのなら光栄だよ」

「本当よ、ありがとう」

 噛み締めるように神代は再度その言葉を口にする。一宮はその言葉への返答を「どういたしまして」と定型句で返し、二人は揃って校舎裏から出る。

 雨獅子から感じた暗いしこりは完全には消えなかったが、神代の笑顔と言葉のやり取りで大分緩和され気にならない程度になったので、一宮はそれ以上気にするのを止めた。どちらかというと気にしたくない、に近い感情だったが。

「にしても、恐ろしく強いんだね」

「そうかしら? 女だって最低限の自衛手段を持ってるわ。まあそんなんのはどちらでも良いんだけど、丁度貴方に言っておきたいことがあったから、こうして会えて良かったわ。

放課後と休み時間の全部を私にもらえない? 話があるのよ」

 校舎の靴箱に差し掛かる辺りで、神代が言った。同じクラスである以上、授業と授業の合間でも時間はとれるので小話なら休み時間でも済む筈だ。それを放課後と休み時間、つまり授業以外の学校での時間全てを使ってと言うからには、短時間で済まない話題ととれる。

 即応しない一宮を見て、神代は言葉を重ねる。

「昨日の話の続き。是非聞いてもらいたくて」

 昨日の話と言えば、電話でのやり取り。世界法律がどうという話まで飛躍したあの話のことなのは一宮でも察しがついた。つまりは国家機密レベルの話で、一宮自身には然程関わらない問題だ。日本の国民と言う時点で関与は有りうるにせよ、一国民でしかない一宮にとって、それを聞き、知ったところで何が出来るわけでもない。となれば、少しスパイスの効いた世間話を聞く。それだけのことだ。神代は、誰かに話をして共有したいのだろう、と一宮は考えた。なので一宮は、形式上の質問だけ口にする。

「急く内容なのか?」

「ええ、早めに耳に入れておきたいの」

「判った。じゃあ一年のクラスの奥にある、空き教室でも使おうか」

「そうね、適当な教室をおさえておくわ」

 お互いの靴箱からそれぞれ学年色の爪先が赤い上履きを手に取り、それぞれの革靴を代わりに靴箱に仕舞う。地面からタイル、靴を履き替える場所となる簀子の上を進み、リノリウムの床まで辿り着き、二人は教室への足取りを合わせた。周りの生徒の足音に加え、反響した足音が廊下に響いていく。

 生徒を急かす予鈴の音は、まだ鳴らない。


     10


 結果から言えば、一宮が神代から話を聞く機会は無かった。

 あの後教室に向かった二人を待っていたのは、クラスメイトでも教師でもなく、他クラス他学年の生徒会役員だった。肩にもつかない黒のショートカットに黒縁眼鏡、制服を面白味もなく着こなしたその生徒の表情は、焦りと不安とその他諸々のマイナス的感情で溢れかえっていた。話を聞くまでもなく、何かがあったのは明々白々だ。

 神代は隣にいる一宮にだけ聞こえる程度の音量で、溜め息を一つ吐く。

「さっきの話、一旦取り消しね。余裕が出来たらこっちから言う。出来なかったら、またの機会を私から提示するわ。ごめんね」

 口先だけで一宮に小声で語る。目線は既に眼前の生徒会役員に向けられている。

 一宮がどう答えても、神代が申し入れを取り下げるとは思えなかったので、一宮は笑って返答する。「気にするなよ」と一言。

 一宮の返答を受けて、神代は一宮の隣を外れ、浮かない表情の女生徒に向かった。

「それで、――何があったか一から事細かに説明してくれるかしら?」

 言う神代の表情は生徒会長のそれだ。

こういう時に、つくづく神代が凄い奴なのだと思い出す。先程の不良生徒とのやり取りも異常だが、一宮にしてみれば先輩でもある役員に物怖じせず、むしろ助けとなるための言葉をこうも綺麗に言ってみせる姿の方が印象強い。何より、相手の役員が本当に困った表情でここに来ていて、神代の言葉に安心したように口端を上げる瞬間をみてしまうと、神代は既に人柄で先輩役員からの支持も得ているととれる。

 腕っ節でも、容姿でもなく、ましてや親の七光りでもなく、そんな姿に一宮は少し憧れた。

 神代との席が近い一宮は話の流れに聞き耳を立てていた。一宮から見て神代の席は斜め前。視界には入らないだろうが、念の為視線はやめて聞き耳だけにしておいた。

彼自身良くない事とは理解していたが、聞こえてくるものに思考を送るくらいは仕方のないこと、と自分に言い聞かせた。

 要約するに、彼女は生徒会の会計職に就いており、今期の予算のズレが発覚したとかなんとか。一学期に控えた体育祭と二学期の文化祭に充てる費用が足りないと、そういう話らしい。話を聞いているだけの立場である一宮からしても、一筋縄ではいかない案件なのは判る。

 なのに神代は声のトーンも変えずに、

「判ったわ。じゃあ、手始めにその発覚に至った経緯を示す資料を見せてくれる? 目を通してみるから」

 と言ってみせた。

 格好良いと、素直に感じてしまうのを一宮も止められずにいた。

 それから会計の女生徒から資料を受け取り、頭を下げる先輩に、

「そんな、先輩なんだから後輩に頭下げるとかしないで。それにまだ問題発見の段階だから、対処のしようはいくらでもあるわ。取り敢えず、昼休みにもう一度会いましょう。場所は生徒会室で。それまでに資料は精査しておく」

 と余裕の微笑を浮かべて告げていた。

 相手の先輩は、謝る時よりも頭を下げて、お礼の言葉を幾度も重ねていた。そうして下級生の教室から去る時とは思えないほど丁寧に、教室の後ろ側のドアから静かに退室した。

「で、どうしてこっちを見てるのかしら? 一宮唯。最初は聞き耳だったみたいだけど、途中からは隠す気も無くしたのかしらね?」

 客の退室直後、振り返った神代は満面の笑みと視線を一宮へ、真正面に向けて言った。

 やはり彼女に隠し事は無理なようだ。一宮は一息吐いて言葉を返す。

「聞き耳も覗き見も認めるけど、興味本位だよ。加えて、素直に末恐ろしい生徒会長だこと、と思っただけだよ」

「それは褒め言葉?」

「そのつもりで言ってるよ」

「そう、なら良いわ。取り敢えず今日は時間がとれなそうだから、明日以降のどこかで時間をもらえるかしら?」

 言葉尻から姿勢を直し、手元の資料に目を通し始めた神代は既に仕事モードに入っている。

 こうなればこれ以上の会話が無為なのは、一宮でも判った。

「ああ、構わないよ。取り敢えず、その案件、頑張れよ」

 激励の言葉を告げるも返答は無い。頑張っているという何よりの証拠だ。

 一宮はそんな神代の後ろ姿を数秒見てから、視線を下ろした。現国の教科書に載った文豪の小説に、意識を向ける。一行読み終わるより早く、予鈴が学内に鳴り響いた。

 一宮は後々になって、この場面のことを思い返し、後悔することになる。

 ここで神代が言う、話とやらを聞いていれば、至る結果の何かが変わったのかもしれない。

そう回想せざるを得なかった。

 悔恨の中心はこの時にあり、岐路もこの瞬間に有った。

 自分の置かれている状況をとことん理解できていない、そう一宮は思い返すことになる。

 欠片は既に、この時点で大半が揃っていた。

 一宮自身が気付けなかっただけで、積み重なった欠片は既に答えを示せるほどの大きさにはなっていたのだ。

 だが、それは未来の一宮が思う事柄であって、この時の一宮には関係のないことだ。

 一宮は予鈴を聞いて、それ以降ホームルームも授業も、クラスに入ってくる教師と神代の背中に視線を交互に向けながら、落ち着かない一日を過ごすことになった。

 そうして休憩時間も昼休みもその資料に時間をかけ、放課後も「ごめんね」と一宮に一声かけて教室を後にした。

 そこまで至り、もしかしたら時間がとれるかもという可能性も消えたので、一宮は大人しく帰路に就くことにした。

 靴を外履きに変えて、校門を後にして自宅のある住宅街の方へ歩みを進める。その辺りで一宮は思った。と言うより、思い出した。

「そう言えば、ミサキどうしてるかな」

 一宮は、純粋な疑問と言うより、茫漠とした不安の独り言を、未だ青い空に溶かした。


     11


「お帰りなさい、唯。お風呂とご飯どっちも用意が出来てるけど、どっちからにする?」

 一宮が自宅の施錠を解き、玄関を開いて帰宅すると、ミサキが迎え入れてくれた。

 そこまででも非日常ではあったが、許容の範囲内だった。問題はその後にあった。

「――……――」

 一宮は一瞬、息をするのも忘れた。

 何足かの靴が乱雑に置かれているだけだった玄関は、全て揃えて置かれており、整頓されていた。目に見えて掃除が施されているのが判る。この広い家に一人でいる期間は、一宮自身掃除など余程気にならなければやらないことだったので、変化は著しい。見て判るぐらいに掃除が行き届いている。触れば、より判ることだろう。靴を脱いで上がる段差の先、フローリングも適度に光沢が見えており、見違える程だ。この様子では奥の階段や、その他の部屋なども清掃されているのだろう。心なしか空気も良く感じる。

 息を吸い、大きく吐いて、一宮はようやく落ち着いて目の前のミサキに目線を向けた。

 自宅に入った瞬間に視界に入って、その後は他に意識を飛ばすことで何とか避けていた、ミサキに視線を合わせた。

 変わらない白銀の長髪が、一宮宅では明らかに浮いている。蛍光灯の明かりの下でも、一寸の乱れもなく美しかった。透き通ってしまいそうな真白な肌も窺え、小さな顔、整った目鼻立ちを一層綺麗に見せている。

美しすぎて小さな汚れでさえ気になってしまうようにも見えるし、逆に小さな汚れなど霞んでしまうようにも感じられる。

 常時では感じられない美貌が、一宮の眼前に在る。それだけならまだ良かった。十分に異常なので看過できる程度ではあるが、ミサキと対面して少し経った今、最初の時ほど動揺したりしてしまうこともなかった。

むしろ問題は、白い肌が見え過ぎていることにあった。

 と言うのも、ミサキが纏っている服が昨日から着用している黒のドレスでは無く、白のエプロンになっているのだ。

 露出度具合には大差は無いし、服装が変わっているぐらいは構わない。

しかし、そのエプロンの下に何かを着用している気配がないというのは重大な問題だろう。

 白のエプロンが覆っているのは、鎖骨下の胸元から膝上の太腿辺りまで。最低限隠れていなければならないところは隠れているが、逆を言えばそれ以外は全部露出されている。足元も靴下等は無く、素足。体型の誤魔化しようがない無茶苦茶な姿だったが、ミサキに隙は無い。むしろ最低限隠していれば十分なくらい、元の資質が良い。顔のラインから伸びた艶めかしい首元に、エプロンの紐が縛り付けられている。首直下の鎖骨の陰影を邪魔しないようにその紐は下へ伸び、身体の中心を覆う。緩やかでありながら、綺麗な曲線を描く胸から腰までの流体的なラインが、白という色のせいで少しだけ透けて見えるのが余計に扇情的だ。

 そして色が黒から白に変わったのは大きい。黒はミサキに妖しさと美麗さを与えていたが、白はミサキに無垢さと可愛さをもたらしている。

仮に、彼女が持っている黒のドレスを下に着ていれば、少なからず色が透けるか、はみ出してドレスが見える筈である。

 なのに見えるのはエプロンの白が汚く見える程の、真白い肌と白銀の髪。同系統の色合いだと言うのに、負けておらず、同化もせず、むしろ余計に彼女の肌の美しさ、髪の麗しさを際立たせる要素の一つになっている。

 つまりは、少なくとも白いエプロンの下に、あの黒のドレスは着ていないということだ。

「――ん? 私、何か間違っているかしら?」

 ともすればあられもない姿で、ミサキは小首を傾げてみせる。

 一宮は自分の心臓の拍動が、強さと速度を増していくのを感じる。血流が異常に早い。血が心臓から送り出され、体内を巡る。脳に行き渡る熱量が強い。

「――あ、」

 視線を外したいのに、声を上げたいのに、それらは許されない。目を逸らさなければという観念より、見ていたいと望む欲の方が強いのだ。

 まさかとは思いつつも、そのエプロンの上、エプロンと肌の隙間に視線を送ってしまう。

 荘厳な美しさを前に、一宮は身体の機能を停止させて、ただミサキに見入っていた。

「そんなに見られると、恥ずかしいんだけど……。このエプロンはキッチンから拝借したの。ごめんね、了承を得るのが後になってしまって。作業用のみたいだったから、勝手にとは思ったけど使わせてもらったの。ダメだったかな?」

 そんなことはない、と言ったつもりだったが、顔の筋肉が動いてくれず、呆然と開かれたままの口が少し動くだけという間抜けを晒す。

「えと……、そしたら取り敢えずお風呂、追い炊きしてくるから先に入りなよ。春先って言ってもまだ寒かったでしょ。さっぱりしてからご飯にしよ」

 そう言ってミサキは身を翻そうとする。

 背中を向けようとしている。

 見るからにエプロン以外着用していない肢体を、晒そうとしている。エプロンと言う代物は前方は用途上布地が多いが、逆に後方は不必要なので布地は極端に少ない物だ。と言う事は、振り返りでもされれば、ほとんど隠されていない肌が見えてしまう。見たくないとは一宮も思わなかったが、見てもいいとは割り切れなかった。

 ここに来ても、流石にそんなことはあるまいと一宮は思っていたが、スローモーションに見えるミサキの翻るエプロンと柔肌の間に、――服は見えない。

 一気に頭に血が上り、紅潮したせいで動き出した筋肉のお陰で、やっと一宮は声が出せた。

「待って! その前に、服! 服、を!」

 身体が横向きになってギリギリ後ろ向きになる前で、ミサキを呼び止められた。おかげで何とか翻す肉体を横向きで留めることに成功した。ミサキの視線が再度一宮へ向く。

 普通なら、横向き、ないし後ろ向きになってしまったら、下にはエプロンより短いショートパンツやシャツを内側に着ていて、というのが定石の展開なのだろうが、横向きになったミサキの姿は、艶やかな肢体とエプロンの紐以外見当たらない。明らかに素肌にエプロンを着用しただけの姿だったのだ。

 気にしないように、見ないようにと思いつつも、視線は確実に彼女の姿を追っている。まさかと思っていたが、ここまでくれば間違いは無い。どう見てもエプロンの下に布地は無い。見てはいけない、殊更に自身に言い掛けるが、それを反故にしてでも一宮の瞳は彼女を追う。

その矛盾を感じつつ、右往左往する視線のまま一宮は言葉を続ける。

「僕の服を貸すから! だからせめて、服を、着よう! ね?」

「えっと、でもこれも正装なんでしょ? 恥ずかしいとは思ったけど、インターネットに載ってたわ。裸エプロンって言う格好で、男性をもてなす最上の姿の一つだって。他にもメイド服とか従事にそぐう服装もあったんだけど、服そのものが無かったから、だから一番手軽にできて動きやすいこれにしたんだけど、ダメだった?」

「ダメ、って言うか……悪くは無いし、……綺麗だけど、でも! 女の子がそういう姿を知り合って間もない異性に見せるのは、良くないと思うと言うか!」

「異性は異性でも、単なる異性じゃなくて、主従の関係よ?」

「それでもだよ! せめてもう一枚服を着てくれ! 多分君が見たインターネットのサイトって言うのは常識の埒外の代物だよ。だから、服を着よう。ね? それじゃあ風邪を引く!」

「『人形』は風邪なんて引かないわよ?」

「あー判った、じゃあそれは無しで良いから、とにかく服を着よう!」

 帰宅して玄関で裸エプロンの女の子に迎えられ、挙げ句服を着てくれと懇願している。その様は思い返せば相当に非日常的で、一宮は嬉しいやら疲れるやらだった。

 言われたミサキも指摘されたお陰で、恥ずかしさが生まれたのか、顔が真白から微かな桃色に変化していく。

「恥ずかしいけど……それでも正装ならって思ったのに……、インターネット……嘘の情報を私に与えるなんて……」

「嘘と言うか、少しずれた情報、だけどね。とにかく、居間にいてもらえるかな。部屋から服を持ってくるから。君のドレスは?」

 靴を脱ぎながら聞く。ミサキは身体を一宮に対して正面へと向け直し、少しだけ摺り足で後ずさりする。

「洗濯機というのにかけたら、小さく縮んでしまって……」

「ああ……明らかに洗濯機は止めた方が良い生地だったもんね。それで、服もなくエプロン一枚以外に選択肢が無かったのか」

「それもあるけど……これは持て成そうって思って」

「判った。その気持ちは有り難いよ。嬉しいは嬉しいし。それに、僕は別に嫌だとは言ってない。綺麗だし、とても魅力的だと思うけど、でも女の子なんだからもう少し恥じらいを持ってほしい。……それだけだよ」

 一宮は恥ずかしさからミサキには視線を向けず、靴を脱いだ後は足早に階段を上った。

 目線を合わせるのも、ミサキの姿を見るのも恥ずかしかった。普段そんなに異性に見惚れることのない一宮だったが、ミサキの今の姿は危なかった。我をも忘れてしまう。そのレベルの代物だった。二階に着いて自室のドアを開けても、まだ脈動の速さはおさまらない。それどころか加速しているようにも感じる。目の前にいないからこそ、余計に脳裏に焼き付いた光景がフラッシュバックして、幾度も思考を阻害する。白銀の髪、透き通る瞳。それらに思考をぶらそうとしてもままならない。どうしてもあの肌が、一糸纏わぬ姿を連想させて、一宮の思考も脳内もパンク寸前だった。

 タンスを開け、クローゼットを覗くも、服装というものをおよそ気にしたことのない一宮の持つ服は数が限りなく少なかった。最低限の代物しかないし、学生になって制服で大半が済む段階になってからは、私服を買うことも稀になった。おかげで、ワイシャツとパジャマくらいしかない。しかもパジャマは明らかに着古した風だ。

「しょうがない……許可は後日承認で良いか」

 呟き、一宮は自室を出て、両親の寝室に踏み入る。

 自分と同じくらいの背の母親は、丁度ミサキくらいの背丈だということを思い出したのだ。仕事続きで家にいることは皆無な両親故、この際止むを得ないと判断した。携帯で連絡をとろうにも不可能なのは、過去の経験から判っている。だから、申し訳ないと思いつつ、一宮は実の母親の服を漁る。タンスには下着もあって実に忍びなく、加えて嫌な気持ちにもなったが、世間様から年相応には見えないぐらい可愛いと言われる母親だ。複雑な気分ではあるが、それほどまでに嫌な気分には――、

「いや、なるな。実の親だぞ。しかも――」

 下着の類は明らかに派手なレースや色彩、照れもする。それもあのミサキが纏うのだ。そんな姿を想像するなどと言う危険思想に及べば、自我の崩壊も招きかねない。

 現状裸エプロンの昨日知り合った女の子に着せるための服と下着を、実の母親の寝室から拝借するとか、字面でも事象でも犯罪すれすれだ。

「何がどうして、こんなことに……」

 溜め息を吐くのもここ数日で大分こなれてきた一宮は、無難な白の下着と赤のワンピースを選び、居間へ降りる。

 居間に続くドアを開ければ、ソファ横に入ってきた一宮を真正面に見るような格好で、ミサキが立っていた。表現するならば、ちょこんと立っていた。彼女の存在感が一宮宅では明らかに浮いていた今までと違って、ミサキは自分の存在を溶かすように身を縮めていた。それだけ照れやら何やらが生まれてきたという事だろう。ソファ前の机には、縮んだドレスがくしゃくしゃに置かれており、何だか悪いことをして怒られている子供みたいだなと、不謹慎ながら一宮は小さく微笑んだ。

「服、これで良いかな……母さんのなんだけど、サイズは丁度良いと思うから」

 視線ごと首を窓側に向けながら、ミサキに歩み寄って服とその内側に入れた下着を手渡す。

「お母さんの? そんなの、勝手に、良いの?」

「どうせ家には滅多に帰ってこない。許可は後でとるから、大丈夫」

「仕事で?」

「そう、父さんも同じところ。だから気にしなくて良いよ。服を買うまでは母さんのを借りよう。ミサキの服は後日、一緒に買いに行こう。だからそれまでは我慢してもらえる?」

「我慢だなんて。十分よ、ありがとう。その代わり、私からもお母さんに今度お詫びとお礼言わせてね」

「ああ、会う機会が出来たらな」

 いつの間にか親に紹介してくれと言うようなことさえも、一宮は承諾してしまっていた。

 服を手に居間をミサキが出ていくのを、見ないよう背を向けて見送ったところで、表情を苦笑いに変えた一宮は自宅で所在無さげに立ち尽くしていた。


     12


 簡素なメールを打った。

『問題の案件、解決の目処は立ちそうか?』

 たったの一文だけを、ミサキが入れてくれた風呂に入る前に、一宮は神代に送っていた。

火照る身体で浴室を後にして、脱衣所に用意してあった大きめのタオルで体を拭く。熱過ぎず温いということもなく、適温の設定だった。元々、風呂自体好きでも嫌いでもなかったのだが、体の芯からしこりが取り除かれた今回ばかりは、良い風呂だったと一宮も思った。

入浴前のメールの返信はどうなったかと、着替えの近くに置いてあった携帯電話を手に取った。メールの受信箱を開くも、登録サイトの情報メールぐらいしか来ていなかった。

「いくら神代でも、一日でどうこうできる案件じゃないか」

 会計の先輩が語った口振りから察するに、ちょっとした予算のズレでは済まされない問題であるのは予想できる。学校での一大イベントとも言える、体育祭と文化祭に資金を回せないなどと言っていたのだ。並大抵の事ではない。神代が常人離れしているからと言って、短期的な解決の糸口は見えないだろう。

 ある程度の水気を拭き取り、部屋着を手に取る。ジャージに近い素材の黒と白の服だ。制服は服装を選ばずに済む点は楽なのだが、慣れるまでは窮屈に感じてしまうものだ。今までその窮屈な格好でいたからか、普段通りの部屋着が余計に楽に感じる。締め付けられる感覚が無くなり、ゆったりとした余裕が持てる。

 着替えた後は髪をドライヤーで乾かし、脱衣所を後にする。制服を一度部屋に戻してから、居間に続くドアを開ける。

 と、食事の良い匂いが一宮の鼻梁をくすぐった。

 最近はほぼ一人暮らし状態で、家事から何からを全て自分でこなしていた為、帰ったら風呂が沸いていて、風呂から出たら食事が出来ていて、という学生にしてみれば普通の日常が、妙に嬉しく、感慨深く思えた。

「良い匂いだね」

 言いながら、丁寧に食器等が並べられたキッチン真正面のカウンター越し、四人掛けのテーブルを視界におさめる。

「もう出来るから、座って待ってて」

 キッチンから料理の音が聞こえる。食材が火にかけられ、踊る様に音を奏でている。カウンター先に見えるミサキの姿は、先程渡した赤のワンピースに件のエプロンを纏っていた。彼女ならどんな服でも着こなしてしまうのか、関心と共に一宮はミサキを見ていた。

 ふと料理中のミサキが顔を上げる。目と目が合った。

 誰かと話す時、誰かの話を聞く時、擦れ違いざまにたまたま、他人と視線が交差するパターンは幾通りもあるが、それらは総じて無意識に行っていることで、毎回気にするような事柄ではない。意識していてはもたないぐらいの些事。視線が重なるということは、世間の認識ではその程度の事なのだ。

 当然、一宮だって、誰かと視線を交わすことを意識するなんて、今までそうは無かった。例外は神代との初対面ぐらいか。他で誰かの視線を強く感じた場面など、思い起こせるほどの印象深さでは無い。

 なのに何故だか、ミサキだけは例外だ。

 ここまで何度も視線を交わした。目線を合わせた。

 それでも慣れない。意識してしまう。脳が必要な記憶容量の方へと分類してしまう。他愛もないタイミングでの目線でさえ、脳裏に定着してしまうのだ。

 だから、カウンター越し、キッチンで料理する合間のミサキと交わした目線でさえ、強く意識してしまう。

 交わした視線の先で、ミサキは不思議そうに小首を傾げた後、小さく笑った。それがやけに落ち着いた笑みに見えて、一宮の心に安らぎを与える。

「どうかした? 席なら箸が置いてあるとこに座って。あと五分もしないで全部できるから、先に食べてても良いけど」

「いや、折角だから全部揃ってから頂くよ」

 テーブルの上には、既に湯気を伴った純和風の食事が置かれている。白く艶のある白米に、色合いから濃さの丁度良さを感じさせる味噌汁。更に魚の焼き物に煮物と、これだけでも夕食としては十分なんじゃないかと思わせる量があった。

 それでも久し振りのまともな食事だからか、一宮のお腹は空腹を訴える。唾液も適度に分泌され、食したいと言う欲望が強まる。

 席についてそれらの彩りを眼前にしてみれば、余計にだ。自分でも作れないレベルとまではないが、それでも誰かが作ってくれた料理とは、こんなにも違えて見えるものなのかと、実感させられていた。

「はい、これで出来上がり。どうぞ食べてみて」

 料理に見惚れている一宮の前に、金色の卵焼きが置かれ、湯飲みに注がれた玄米茶も足されて、机上の料理達は一食の料理として完成した。

 手は直ぐに箸に伸びる。即座に口に運び始めようとした。しかし、その前に一宮はふとした疑問を覚えて、テーブル横に立つミサキを見た。

「これ、凄く美味しそうだけど、一人分だよな? ミサキの分は?」

 何を当然のことを聞くのか、そう言いたげにミサキは呆けた表情で首を横に少し傾けた。

「私達『人形』は、食物から摂取した栄養では機能を保全できないから。基本的には食事って行為はしないの。日光や月光から得られるエネルギー、及び電力が稼働の要因だから、私達にとっての栄養ってそういうのから取り入れるの」

 自分が人間では無いと言う証明。

 ミサキが人間では無いと言うことを、改めて突き付けられる。

 それで昨日は食事を拒否したのか、なんてことも思い出していた。

 一宮は動揺からそれに返す言葉を、上手く舌に乗せることが出来ない。

「そんなの、虚しい……じゃないか」

「そうかな? 私にとっては当たり前だから、そうは思わないな」

 言うミサキの言葉に感情は見えにくい。でも、正の感情では無いモノがあるのは、一宮でも理解できた。

「とにかく、食べてみてよ。味は平気だと思うけど、やっぱり食べてもらわないと安心できないからさ。ダメなとこ、あったら教えて」

 それでもそんな曖昧な何かを感じさせないように、ミサキは照れ隠しみたいに笑った。

 一宮はそんなミサキを一度見て、視線は重ならなかったけれど、料理に視線を戻す。湯気の立ち上る全ての料理は、申し分なく美味しそうと言えた。それを、美味しいと断定してミサキに伝えるために、一宮は箸を手に取る。

「いただきます」

 軽く目を閉じ、一礼して食事にありつく。魚をほぐし、口に含み、白米を入れ咀嚼する。嚥下し、卵焼きを一切れ取り、含み、咀嚼、嚥下。一際濃い湯気が上る味噌汁を飲み、最後に玄米茶を飲み下す。

 一通り手を付けてから、一宮はミサキを見た。感想を待つ彼女の目を。

「美味しい。美味しいよ。僕には詳しく何がどう美味しいとか言える程、表現力は無いけど、でもこれだけは判る。美味しいってことだけは」

 目線を合わせ、しっかり絡めて、言った。

 ミサキの表情が、みるみる嬉しさを灯していく。

「良かった」

 そう言って、笑った。

彼女の笑顔を見ていないわけではなかったが、この時の笑顔が今まで見たミサキの笑顔の中で一番の輝きを放っていたように、一宮は感じた。

 自分の作った料理を食べてもらい、美味しいと言ってもらえた嬉しさが滲み出ている。

 ほんのり桃色に染まった頬が、可愛らしい。

 女の子らしい、人間らしい表情だった。

「ねえ、ミサキ」

「ん、何?」

「さっきの君の言い方だと、食事を摂ることができないってわけではないってとれたけど、そうなのかな?」

「ああ、バレた? そうね。確かに私達『人形』は食事を摂ることが出来ないわけじゃない。飲み物同様、嗜好としてなら食べることは出来る。ただ、意味が無いからしないだけ。勿論食べて消化することは出来るから、食べる行為で及ぶ支障はない。でもそれがどうかした?」

 疑問の口調に、一宮は満足そうに頷く。

「ならさ、今度僕の作った食事を食べてよ。栄養として意味が無くても、食事を楽しむことはできると思うからさ」

「それは――、食材の無駄遣いだよ? 唯達が食べれば身体を機能させるため、向上させるための栄養分が、ただ分解され消化され取り込まれないんだから」

 良い発見をしたと調子に乗る一宮とは裏腹に、ミサキは困惑の表情を浮かべている。

「食事って、栄養素を体内に取り込むことだけが全てじゃないと思うんだよね。目で見て、口にして楽しむ。それも食事だって僕は思うんだ。だから、是非今度僕の作る料理を食べてもらえないかな?」

「私が作る量を増やして一緒に、じゃダメなの?」

「それでも良いけど、それじゃ味気ないから。折角ならミサキには、誰かがその人の為に作った料理を食べて欲しいんだよ。ミサキが僕の為に作ってくれたみたいに、僕がミサキの為に作った料理を食べて欲しいんだ。ダメかな?」

「それは、主人としての言葉?」

「そうだね、主人としてのお願い」

 ミサキの言葉に一宮が返すと、ミサキは軽く両手を挙げた。

「負けたわ。それを言われちゃ逆らえないし。どうせだから、楽しみにさせてもらう。だからちゃんと私を楽しませてよね?」

 挑戦的なミサキの笑顔。自分はこれだけ出来るから、これ以上で持て成してね。言われてもいないのに、一宮は言外にそう言われたように錯覚した。

 なのに一宮は嫌な気持ちなど感じず、むしろミサキを笑顔にする料理を作ってやると意気込みさえ生まれてきた。

 一宮から感想を聞いて満足したのか、身を返したミサキはキッチンで調理器具等々の片付けを始める。

一宮は改めて箸を動かす。ご飯一粒、味噌汁一滴も残すつもりは無かった。

 そうして一宮が食事を楽しみきって、居間でくつろいでいる頃。

遠く一宮の自室に置かれた携帯電話が唸っていた。

 日は既に落ち、時刻は夜半に傾いている。

 一宮は食後の紅茶をミサキから受け取り、それ程興味のないテレビに視線を預けていた。ミサキは休みなく動いている。どうやら一宮の不在時に家にはかなり慣れたようだ。家事の大半を任せてしまっていることは一宮自身忍びなかったが、ミサキの楽しそうな横顔を邪魔するのも憚られたので、大人しくされるがままになっていた。生き生きと動くミサキを見ているのは一宮としても嬉しい限りだった。

携帯電話はバイブレータになってベッドの上で震えている。

直ぐに止むと言うこともない。メールよりは長い振動が続く。

画面に表示されているのは、神代絢の名前だった。

 やがて、震えは止んだ。

 窓の外は独特の匂いが広がっていく。

 雨の匂いが。


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