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ヒト+モノ=  作者: 白雲
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間章


  間章


     1


 薄暗い路地裏で、篠旗彰は朝から拭えない苛立ちをぶちまけていた。

「くっそ、あのアマ! 神代絢……許さねえ! 俺の事を虚仮にしやがって。ぜってえ許さねえ。どうにかして、何とかして貶めてやる……。雨獅子の野郎もだっ。二人まとめて、生きているのを後悔するぐれえの生き地獄に晒してやる……っ!」

 壁を蹴り、ごみ箱を蹴り飛ばし、散らばったゴミを力の限り踏み付ける。思いつく限り、本能のままに苛々を辺りに撒き散らしていた。

 篠旗彰は、登校時校舎裏で神代に撃退された不良グループのリーダー格だった男だ。あれから意識が戻っても授業に出る気力が削がれた彼は、苛立ちのままに街に繰り出し、ゲームセンターやらコンビニやらで時間を浪費した。それでもつるんでいる限り、朝の苛立ちは拭い切れない。そう感じてしまった篠旗は、メンバーに今日はもう解散だと告げた後で、一人街をぶらついていた。通行人に当たり散らしながら、当て所の無い彼は路地裏に行き着いたのだった。

 暗がりへ暗がりへ行ってしまうのは、精神的な疲弊ゆえか。それでも強い激情を薄れさせることもなく、むしろ怒張は増していくばかりだった。手当たり次第に蹴りつけているからか、爪先が少しだけヒリヒリする。水道管のパイプやゴミ袋、そう言った物が乱雑に配置された中を歩いていく。歩幅は広く、手はポケットに入れたまま。歪めた表情で堂々と歩く彼一人分程度しかない路地裏を、ただ歩いていく。

「――ちっ……」

 舌打ちもし過ぎて口内が疲れ始めているが、怒りから反射的に出てしまうものなので、篠旗の意思では止めることが出来ない。

 そんな彼を煽る様に、小さな雨粒が空から降り始める。小雨とも霧雨ともとれるが、雨の降り始めなのでまだ何とも言えない空模様だった。鼻に当たった雨粒に舌打ちを返し、篠旗が見上げた空は夜にしては灰色に近い。黒でも紫でもなく、それらには近いのだが明らかに灰色の雲がかかっている色合いだ。

 一粒、二粒と降り始めた雨は、そのまま数を増やしていく。風は無いので、真っ直ぐ地面へ降り注ぐ。世間の汚れを溶かすように、雨量は増していく。速度は緩やかだったが、確実に雨は強まっている。降り始めは既に終わり、路地裏から覗く大通りの人々が走ったりタクシーを呼び止めたり、折り畳み傘を開いたりするぐらいにはなってきていた。

 篠旗はと言えば、余計な荷物など持ってもおらず、走る気力も湧かなかったので諦めて雨に降られることを選択した。

 最初は雨粒にも苛立ちを感じていたのだが、雨量が増していく程に、自分の中の何かを浄化してくれるような気がしていた。怒りと言う不純な感情を根っこから拭い取ってくれている。そんな感覚を覚えたのだ。

 気付けば篠旗は歩くのも止め、濡れるのも気にせず、コンクリの壁に背中を預けた。

 濡れていたコンクリのせいで背中が徐々に冷たくなっていく。髪は額に張り付き、服も体に気持ち悪く張り付いていく。靴の中まで水が浸食していた。水気を含んだ衣類が重くなっていくのは当然だ。篠旗もその重さを感じていた。

それでも、重くて気持ち悪くて冷たくても、少しだけ気分が晴れやかになる。その感覚のお陰で篠旗の表情は苛立ちから、微笑程度には回復していた。

 自分がどうしてこんなことをしているのか。

理由も判らずに感じるがままにしていた行為だったので、篠旗自身疑問を拭えずにいた。

 雨音が耳朶を叩く。鼻梁を刺激する香りは雨独特のそれだ。目を閉じてみれば、世界から切り離されたような感覚を覚える。周りにはもう何もなくて、自分と雨しかない。そんな不思議な感覚を篠旗は覚えていた。

視覚に頼らない世界は、また違った世界の見え方を彼に提示した。

 降られるがまま、濡れ鼠になっていく篠旗はどれほどの時間そうしていたのか。彼の体感ではほんの数秒の様にも、一時間近かったようにも感じ取れ、時間感覚が酷く曖昧だった。

 薄くなっていく時間感覚を取り戻すため、閉じていた瞼を押し上げると、変わらない暗い路地裏が見える。雨のせいか、やけにさっきよりも暗く見える。気のせいだろうと首を振り、背中をコンクリから弾くように離す。

 視線を路地裏から大通りの方へ、地面を経由して向ける。後はそのまま歩き出し、家への帰路を傘も差さずに歩いていく。それだけのはずだった。

 なのに、篠旗は視線と身体の向きを大通りに向けたまま、動き出さずに停止した。

 視線の先には、大通りに至る一本の道。その合間に立つ、小さな女の子が見えた。男の中でも背が高い篠旗と比べると約半分ぐらいの背丈だ。真っ黒なドレスを身に纏っている。手首辺りまで覆い、首元も襟が高く露出する面が極端に少ない。ロングスカートの様に、足元は足首よりは上まで見えていたが、バルーンスカートように横に広がりが強い。靴は黒の革靴。髪は黒いストレート。前髪が額を覆い、横髪が耳から頬を覆う。顔の中で見えているのは目と鼻と口だけ。肌が見えているのはその一部分の顔と、掌と少しの脚。

雨の中親と逸れてしまったのか、一度はそう思うも篠旗はその思考を取り消した。どう見ても、その少女がどこかの小学校に通っているような普通の少女には見えなかったのだ。

傘も差さずに異常なまでに華美な服装を纏って、無表情で立ち尽くしているせいでそう見える部分もあったろうが、ランドセルを背負わせても、笑顔を貼り付けても、少女らしい服装に変えたとしてもその違和感、異質さは拭い取れないと篠旗は確信していた。

 不良と自身が揶揄されているのは、篠旗も判っていた。それでも明るく呑気に過ごす連中とつるむ気も起きず、汚点の様に見られても行動を改めることはしなかった。同じように明るい部分を見ようとせず、暗い方へと来る連中は多かったし、暗い所にいる奴らは底が知れないというのも確かだった。どれだけ自分が汚れていて闇の中にいると思っていても、いずれはそんな自分を越える闇を抱えた人物が現れる。篠旗はそうした人間の悪意と害意と闇を、幾度も見てきた。それが嫌ではなかったし、むしろ人間の本質に近付いた気がして、面白ささえ感じていた。

 目の前の闇は、過去の記憶を遙かに凌駕するモノだった。

 少女の闇は深い黒。漆黒とも暗黒ともとれる、真の黒。深く塗り潰されて縁取られた圧倒的な暗闇だった。

 それを体現した瞳は、恐ろしく暗い。

まるで持ち合わせた全ての絵の具をグチャグチャに掻き混ぜて作り上げたような、混沌とした経緯を持ちながら、それでいて美しい一色になり得たと言える。

 そんな、暗く黒い瞳の色だった。

「――――……」

 自分が見たことのない度量の暗闇に、眼前にいるのは少女の筈なのに、身の芯から竦んでいるのを篠旗は自分で認めざるを得なかった。

 息を呑み、唾液を飲み下し、渇いていく口内が次第に焦りを呼び起こす。

 本能的に恐怖が滲み出る。

逃げなくては。

 思考がそこに纏まるまでに随分とかかった。篠旗は覗いていた少女の瞳から視線を振り解いて、体裁も格好も気にせず、脇目も振らず逃げ出した。少女が立ちはだかる方向とは逆へ、路地裏の奥の方へと駆けていく。

 強まる雨足を身体で切り裂き、突き進む。生憎篠旗はここの路地裏を知らない。このまま進めば抜けられるなんて保障は何処にもない。それでも走るしかなかった、少なくとも、少女の横を抜けて大通りに出ると言う選択肢は有り得なかった。選ぶまでもなく、それが出来ない禁止事項であると思考が拒絶したのだ。

「――っ…………」

 暗い路地裏を奥へ奥へと進んでいく。まるで出口のない迷路を進んでいるようで、精神が引き絞られるような感覚を篠旗は感じ取る。

背後を振り向くなど、到底出来ない。足音がするわけでも気配がするわけでもない。けれども、振り向いてはならないと、身体の緊急信号が知らせてくる。微少な筋肉の震えが、そうしてはならないと告げてくる。

 だから、篠旗は走るしかなかった。

 前を向いて、前に向かって、進むしかなかった。

「――……ふっ、ふっ、っくあ……」

 息が荒くなっていく。肺が酸素を欲する速度が増す。心臓のポンプが体内へと血を巡らせる速度が急速に増していく。

 路地裏の道は曲がったりしつつも、分かれ道は無かった。だから、篠旗は行き当たる道をただひたすらに進んでいればよかった。何も考えずに道なりに身体を進めていれば良かった。

 しかし、それも長くは続かない。やがて、路地裏の道は行き止まりに当たる。

ビルとビルの隙間の路地裏なら、通常抜けた先も通りがある筈だった。当然のように篠旗も思っていたし、事実目の前には少し先に通りが見えている。まばらではあるが、人通りが見えている。なのに、そこには至れない。

 篠旗は目の前にある行き止まりの壁に行き着く。透過した紅い壁に。

 触れると非常に硬質で、軽く叩いても割れもしないし、むしろ叩いた分のエネルギーがそのまま跳ね返ってくるような強靭さを感じる。拳で殴っても足で蹴っても、これでは骨と肉がいかれると篠旗は思った。

 見たこともない壁を目の前に、幾度かそれを叩く。

「おい! 見えてんだろ、そこのサラリーマン! おいっ!」

 叩く音は渇いて簡素だ。透過したその先に見えるスーツ姿の男に幾度も呼びかけるも、反応は無くただ通り過ぎていくだけ。

「おいっ、助けてくれ! この壁をどうにかしてくれよ! 誰か、おいっ!」

 叫び声は壁に跳ね返り、惨めな自分の声が自分の耳に響き渡る。不快は不快だったが、それ以上に篠旗は恐怖していた。

 雨音が、響く。

 気配が背後に突出して現れた。突如現出したかのようなそれが、背後に鎮座している。

 先程まで微塵も感じなかった濃厚な気配だ。続けて足音も響く。

 雨に濡れた地面を踏む、小さな足音が一つ。雨音に隠れて聞こえてくる。

 篠旗は息を呑んだ。呼吸さえ、忘れた。

 目の前は紅い。ひたすら赤く、紅い。

「――っく、はあ……」

 喘ぐように息を吐く。見てしまう恐怖より、見ないでいる恐怖が増していく。篠旗は諦めて背後を見ることを決めた。ゆっくりと、確実に視線を背中の方へ傾けていく。喉を鳴らす。

そこには真紅の瞳を携え、黒髪に赤い筋が幾つか通った、先程とは別種の、しかし確実に先程の少女が立っていた。

変化の中で変わらずにいた無表情が、冷徹な刃物のように、篠旗を射抜く。

 雨と空気を切り裂く悲鳴が、路地裏に木霊した。


     2


 人の血は噴き出た時が最も美しい色をしている。切り裂き、朱い血が辺りの空気ごと染めるように射出されるあの瞬間こそが、最も美しく透き通った赤なのだ。加えて言うのなら、生きている人間が放出する血液こそが最も美麗である。当然その人物の血流状態等々も鑑みて、等と言えばキリがないが、どんな人間でも美しい朱になるためには、生きていて、噴水のように噴き出すことこそが最低条件と言える。肌を裂き、肉を断ち、骨に断裂を入れて、血液を一気に内部から外部へと飛ばす。痛覚を劇的に刺激する痛みが、人を狂わせあられもない悲鳴を上げさせる。高く惨めな悲鳴は朱色の圧倒的な光景を、更に彩り豊かにする香辛料になる。声が涸れるまで泣き叫び、咽び、のた打ち回っている様を見、更に追い打ちをかけていく。人間の急所を避けて、大きく太い血管を狙って断裂していく。身体から血液が、体温の要が抜けていき、空恐ろしい寒さが過ぎった後、意識は静かに薄れていく。そうなればもう香辛料は無い。後は一気に身体中に穴を開け、四肢を含めて細切れにしていく。ここまでの作業の中でどれだけ綺麗に、どれだけ派手に、どれだけ凄惨に辺りを赤く染めるのかが重要なのだ。

 広がる光景は、残忍さの表れでもあったが、見方によっては恐ろしく綺麗で麻薬的な壮絶さを含んだ芸術の様にも見える。

 雨が降り注ぐ街の路地裏で、一つの命が灯を消した。

 過去彼が犯した罪や、誰かに与えた痛みを全て足しても足りない。それ程の痛みを一挙に味わって、彼は殺された。

 篠旗彰は、血の通った人間から、血潮に塗れた肉塊に成り下がっていた。

 そこに命など無く、ただのモノ、物質的価値しか有り得ない。

「……汚い」

 篠旗彰の肉塊の正面、立ち尽くしているのは真っ赤な少女だった。篠旗の生き血だったモノが、赤い髪や黒の服、少しだけ覗く肌をも染めている。

 時間が経てば経つ程に、血は美しさを加速度的に失い、穢れた黒い塊になる。少女が美しいと感じた赤は既にそこにはなく、少女にこびり付いた赤も、既に黒く汚らしい。

 眼前の肉塊も、先程までの生きも失い、美しい赤でさえない。少女にとって、死体が汚いのではない。肉塊が汚いのでもない。

彼女にとっては生きていた人が死んだことなど心底どうでもいいことで、とにかくあれほどまでに官能的な赤が失せてしまい、黒く穢れたことが不快だったのだ。

「……汚らわしい」

 貼り付けたような能面が、少しだけ歪む。

 酷い不快感と倦怠感に耐え切れなかったのだ。

 少女は肉塊に背中を向けて、雨の中を歩いていく。こびり付いた黒い血の跡は容易には消えない。むしろ罪の象徴のように纏わりつく。それを気にも留めずに彼女は歩く。

 水たまりを踏み、身体中を濡らして、訥々と歩を進める。

「次のターゲット。もっと……今のよりもっと綺麗な赤が見れるかな」

 無邪気な子供が絵の具の色で喜ぶような言葉を、殺人鬼のような据えた声で語る。

 笑みは無い。微笑も無い。そもそも彼女は、期待などしていないのだ。

この世にどれほどの美しき景色や光景があったとしても、命が消えていく瞬間に勝るモノは無いのと同様に、どれほど綺麗に作られた色彩だったとしても、少女自身が携えた真紅の瞳を越える赤色など有り得ないと理解しているから。

 それでも少女が美しき赤を求めるのは、彼女の根源的な欲求が求めるからなのか。

 いや、そうでは無かった。

 少女に意思は無い。命令される事項を遂行しているだけに過ぎない。その中で、自分が納得できるような、簡単に狂ってしまえるような至上の赤色に遭遇出来たら良いなと、淡い期待を抱いているに過ぎない。

 鏡越しや、水面に映る自分の瞳は美しかったが、自分の目で見ることが出来ない。所詮それらは虚像であり、自分自身の目でもって見ることは、絶対に出来ないのだ。加えて、自分の瞳が至上の赤色とも思えなかった。

だから少女は、自分の瞳を越える美しき赤を探す。くすんでいく紛い物の赤色では無くて、どれだけ時間が経っても、退廃しない至上の赤い景色を求める。

 血と雨を含んだドレスは、黒いと言うよりかは、暗い。殊更に闇に紛れていく。

 水分を吸った服は重くなり、足取りも重くなるのが普通だろうが、少女はそんな重さを感じさせない動きで地面を蹴った。

 歩き出すわけでも、走り出したわけでもない。

 上空へと跳び上がったのだ。

 夜の暗い空に向かって、落ちてくる雨に逆らって上へと。

 人間では到底出来ないだろう脚力が、異常な跳躍力を可能としている。少女が舞う高さはビルをゆうに超える。路地裏の左右に建ったビルの片方、その屋上まで軽々と跳んでみせた。階層で言えば十階以上はある。

 高層から臨む景色は、夜の闇と注ぐ雨のお陰で暗かったが、美しくはあった。それでも少女の心を揺らすほどの美しさは持ち得ていなかった。

 少女はビルの端に足を掛ける。方角は街の中心とは逆、住宅街が聳える方向だ。折り重なるように並んだ住宅街、その奥。木々が立ち並び、一般的な住宅街とは敷居も優美さも格段に違う、見るからに豪邸の佇まいを見せるそれに向かって、宙を舞う。

「神代絢、私に……綺麗な朱色を見せて」


     3


 和木志侑は父親と共に幼少期から神代家に勤めている執事だ。

和木志は神代家令嬢の絢より四つ年上で丁度二十代にさしかかった年齢。風貌は朗らかで、絢からも兄の様に慕われている。最初は付き添いや単なる給仕係としての日々だったが、二十歳になってからは神代絢専属の執事として認められることとなった。

そんな、絢が高校に入学するのとほとんど同時に専属執事となった和木志は、黒の執事服と呼ばれる特別なスーツを纏い、絢の部屋前に立っていた。

 小さく二度ノックすると、中から神代絢の声が「はい」と聞こえてくる。

「失礼します、御嬢様」

 戸を開き、一度深く腰を折ってから、和木志は言う。

 開いた戸の隙間から中に入り、音を最小限に抑え、再び戸を閉める。向き直って奥の机に腰掛けた絢を見る。

「どうかした? 侑」

視線は机上に向いているが、彼女の意識は確かにこちらを向いている。それを感じつつ、和木志は手に乗せた銀の御盆を丁寧に素早く、しかし慎重な足取りで運ぶ。

「帰ってからずっと机に向かっていらっしゃるので、そろそろお疲れかと」

 言いながら絢の右手後方から歩み寄り、会釈をしてから机の空いている部分に、ソーサラーとカップを置く。音は最小限に、湯気立ちのぼる紅茶を。

「ありがとう。良い香りね。丁度喉が渇いていたのよ、助かるわ」

 ここで絢は初めて視線を和木志に向ける。表情にも瞳にも疲れは見えない。それでも疲弊していると和木志は感じ取る。絢は自身のマイナスな印象を表に出すことが無いが、それは事実マイナスな疲れ、怒り、悲しみなどの感情が無いこととは違う。彼女は疲れていても、感情の起伏があっても、それらを隠して普通を装う。技術や経験でなく、最早彼女が神代家令嬢という立場だから当たり前に持つモノだと、和木志は思っていた。だから、和木志は絢が不快に思わない範囲で疲れや感情の乱れを見抜く。

 彼は絢程の能力や知識を有しているわけではないが、執事として担当する絢の変化を察知するその力量は、和木志侑の父親である和木志拓磨、そして雇い主たる絢の父親も認めている。元々修行中表情の見えにくい絢の本質を見抜くような観察眼を持っていると言われた経緯を経て、今のように専属の執事となったのだ。

「――、ふう。一息入れましょうかね」

 紅茶の香りを辺りの空気ごと吸い、一口飲んでから絢が言う。車輪のついた椅子を回転させて、身体ごと和木志の方へと向ける。

「お休みするなら、いっそ横になられては如何ですか? ベッドの用意も整っておりますし、浴室の準備も済んでいるので入浴後でも大丈夫ですよ」

「気遣いありがとう。そうしたいのは山々なんだけど、早急に解決しなければならない学校の問題があってね。それに電話も応答無しだし。流石にこのままじゃ、眠れないわ」

「左様ですか。せめて、身体を壊さぬ程度になさって下さいね」

「ええ、勿論」

 和木志の心配を受けて尚、笑顔でそれは出来ないと絢は言う。

 机に向かってパソコンや書き物をする合間で、絢が誰かに電話をしているのは和木志も知っていた。恐らく例の数少ない学友だ。絢が立場的に大人も子供も関係なく畏まられてしまうような立場のせいで、友達が出来ないどころか教師にも壁を敷かれて応対されているのが現状。

和木志にも絢はもっと軽い言葉で応対して欲しいと頼まれているのだが、それは流石に執事の立場上、和木志には出来かねた。なのでせめてという事で、表情だけは二人の時はなるべく柔らかに見せるようにしている。強張った表情ばかり相手にしてきた絢にとってはそれだけでも気が楽になったようだ。

 そんな絢が高校生になって、初めて出来た学友。相手は男子らしいが、絢の関係を知っても尚変わらない対応をしてくれているらしく、前に比べて随分と楽しそうに学校生活を営んでいるように和木志は感じていた。

 良き発展、良き一歩とは判っていたが、異性という事で慕情等に至る可能性も考慮しなければならないか、とも考えていたが、今は和木志が見る限りその様子は無い。

 ふと、絢の視線が床へと落ちる。

 直視はしないように、それでも一挙手一投足も見逃さぬようにしていた和木志の視界が、その一瞬を捉えた。

 ここで、どうかなさいましたか、と声を掛けるのは簡単だ。喉にまでその言葉は出て来ていた。それでも和木志は音にはせず、呑み込んだ。

 仮に言ってしまえば、何でもないと絢なら言う事は目に見えていたからだ。

 和木志がその一瞬を見逃した振りをして、その時は終わる筈だった。なのに、絢の視線は元の位置で止まらずに、和木志の方へ向いた。

「ねえ、侑」

 言葉に籠った感情は読めない。

「何でしょうか?」

 和木志が反射的に告げた言葉に、絢は笑顔を返す。

「私が仮に御父様の立場を脅かす行動をしたとして、貴方はそれを黙認してくれる?」

 絢らしくない台詞を、真剣に虚実なく語る。

 瞳は真っ直ぐに和木志に向いている。

 答えは本来、考えるまでもない事柄だ。和木志は確かに絢の専属執事だが、あくまでも雇い主は現神代家当主である絢の父だ。絢に従うために、その上の立場たる絢の父を脅かす行為を見逃すなど、有り得てはならないこと。

 首を横に振るなり、出来ませんと一言告げるなりすれば良いだけの事。

 それでも和木志は即座にそれらを出来なかった。

 反射的に行動する一瞬を終え、思考して行動する数秒を終え、十秒が経過しても、和木志は表情を変えず、口も閉ざしたままだった。

 和木志のその反応しないという返答に対して、絢は満足そうに頷いてから、視線を壁に逸らし、口を開いた。

「私は、御父様が実行に移した世界法律に対する日本という国の対応を、認められない。反人道的、反道徳的な行為であるあの計画を、どうしても認められないの。勿論私みたいな親の七光り、腰巾着には何の権利も無いし、反論する立場さえ無い。

それでも嫌だって思ってることは確かなの。だから仮に今実行され続けている計画を消せる何かがあったなら、私はきっと利用する。御父様の立場を潰しても、それで私も一緒に失墜しても、あの計画を潰すわ。潰した先のこととか、それに代わる代替案があるわけでもないけれど、それでも潰せると私が判断したモノがあったなら、私はそれを躊躇なく使うわ。

 ――許したくない。……いいえ、許してはいけないのよ。あんな計画。

 って言っても、貴方はその計画についての知識は皆無だし、知ることは無いかもしれない。だから何って話でもない。

 こんなにも貴方にとって不明瞭な事を起点に話した私を、ほぼ無条件に信用して、あまつさえ私の父を裏切る行為に、貴方は加担してくれる?」

 和木志は続いた絢の言葉に、またも口を噤んだ。

 拒絶も承諾も、出来なかった。

 どこかで承諾したいと考える自分がいるのは和木志にも判ってはいたが、雇い主たる絢の父を、そしてその専属執事たる自分の父を裏切る事を、即答など出来る筈も無かった。

 年は確かに絢よりも上ではあるし、学校にも通わずに働き続けた人生で得てきた経験は単純に生きる一般の人達よりも、豊富な経験量であるのは確かだった。

 それでも、そんな和木志でも、絢が持つ経験量には満たないということだ。

 だから絢は、返答は無くとも視線を逸らすことは無い和木志の瞳を、真正面から見る。

「直ぐに答えを出してほしいことでもないし、いつまでに答えが欲しいってことでもない。

ただ、仮に嫌だって言われても、私は変わらないし、侑には私の執事でいてもらう。何も、変わらないわ。それだけは知っておいて。気が向いたら答えを頂戴」

 言葉の後も五秒は視線を残していた。

 五秒経つと、絢は返事も聞かず、反応も見ずに机へと向き直った。

 話が終わったと言う示唆だ。

 和木志はそう判断して、一礼してから部屋を後にする。

 豪奢な扉を閉めながら再度一礼。見える絢の背中が、やけに遠く感じた。

 勿論と、即答できない自分が嫌だったし、出来ませんと、言えない自分が嫌だった。真実を言えるわけでもないし、体裁を保つ嘘を言えるわけでもない。

 そんな自身に、和木志は腹が立った。

 銀の御盆を脇に挟み、軽く拳を握って、廊下を進む。

自分から意見を言える程、和木志は自身が強くないのを知っていたが、それでも次はしっかりと、嘘でも真実でも絢を安心させられる言葉を返せるようにしようと、心に決めた。


     4


 雨音が窓越しに聞こえる。夜間にかけて強まっていくとの予報だが、今の段階では通常の雨量を越えている様子は無い。それでも傘を差さずに歩ける程弱いわけでもないので、カーテンを開けた窓の先に見える住宅街を見ながら、神代絢は一息ついていた。

 すぐ眼下には庭園もある。名前も知らない花や植物が栽培されており、広さは学校の体育館くらいはある。それ以外にも裏庭や門までの道等も含めると、植物の種類は多岐に渡る。住んでいる神代自身でも全部は知らない。

 神代は疲れたりした時に、時間に関係なく庭園を散歩することがある。今も生徒会予算の見直しが一向に目処が立たずに、計算反復の繰り返し、話をしたい相手とは連絡がつかないという二段構えの事態に苛々を感じ、散歩でもとカーテンを開けてみれば、雨が降っていたというわけだ。

「ふう――」

 この雨の中外に出ても、気分は晴れないどころか苛立ちを増長させるかもしれない。傘を差して歩くのと荷物を持たずに自由に歩くのとでは、ストレス発散の度合いに差があり過ぎる。

 普段表には出さないが、神代も高校一年生。しかも入学してからは生徒会長に就くまで、そして就いてからも、慣れない日々プラス忙しさの渦中。年相応なストレスは感じていた。

高校に入学してからは夜間に庭園を歩く機会はめっきり減っていた。神代のストレスが、中学までとは違って明らかに軽減されていたのがその要因と言える。

理由は一宮の存在だった。過去友達と呼べる相手がいなかった神代にとって、彼との出会いは大きなものだった。

 途方もない会話にも他愛のない会話にも、総じて付き合ってくれる。邪険にするわけでもないし、かといってへりくだるわけでもない。

 そんな存在が同年代で現れたことは、神代にとって大きな利点だった。

 だが、こと今日に至ってはその一宮唯との連絡がとれないことが、余計にストレスを生み出しているのは確かだった。自分でも何故そんなにイラついているのか、神代は判っていない。朝彼に話そうとしたことは、性急さを求められていることではない。別に話す日にちが後回しになって困ることでもないのだ。元を辿れば彼に語るような内容でもないのだが、神代にとっては彼に語らないという選択肢が無かった。

 ここまで考えれば彼女でも薄々勘付いている。生徒会の予算の目処が立たないよりも、彼との連絡がつかず、話せずにいることがストレッサーなのだという事に。

 部屋の中とは打って変わって真っ暗な窓越しの闇を視界の端に置きながら、神代は本日幾度目か数える気も失せた携帯電話の発信画面を見る。

 コール音が十度程鳴ってから、留守番電話サービスになる。

 それが不自然なわけでもないし、有り得ることではあるだろう。連絡がつかないぐらいのこと。電話をかけ始めたのは夜からなので、既に相手が寝てしまったことや、気付かずに手の届かないところに置いてあるなど、考えられる原因はある。むしろ、これほど気になるなら学校で話せば良かったとも思ってしまう。学校なら探すことも待つことも無く、会えたし話せたのに。そう後悔しつつも、神代は溜め息を吐く。

「とにかく、予算案の見直しを終わらせましょう」

 一人だからか余計弱さが滲み出る。

 神代はそんな弱さも不安も無くせる彼の姿を思い浮かべながら、自分を鼓舞するように独り言を語る。

 言って、少しだけ、ほんの微少な安堵が出来てから、神代は机に戻ろうとカーテンを手に取り、外の闇と家の中を再度、隔離しようとした。

 レースのカーテンと布のカーテン、二つを同時に手にしたその時だった。

 視界の端に、何かが映った。

 室内では無い。室外の闇に何かが見えたのだ。

 窓は滴り落ちる雨が多く、軽い靄のようなものがかかった闇は、暗くて物の認識はそう簡単にはいかない。

 なのに、視界の端に過ぎったのが判った。瞳が移し、調節された光量の情報が脳に届いたのが明確に理解できた。

 それが物か者なのかは判りかねたが、それでも何かが見えた。その違和感を拭えずに、神代は閉めようとしたカーテンを二枚とも握って、窓の外を覗き込んだ。

来客の知らせは無かった筈だ。だがそれは、良く見れば者であるくらいは判った。

古風とは言え、この家にも最低限のチャイムはある。部屋に籠っていたとしても、来客があれば侑が最低限知らせてくることは神代も判っていたので、来客のチャイムの呼び鈴がある門を越えて、庭園に立つ人影が不審なのは間違いなかった。

 訝しげに目を細める。

神代は視力矯正具に頼らずとも視力は両目ともかなり良い。それでも目を細め、見ようと努力しなければ見えないくらいに視界が悪かった。

 加えてその人影が纏う服があまりにも黒く、景色に溶け込んでいたので、余計に見えづらいと言うのがあった。

 更に目を見張り、その人影が少女であることを認識すると、神代は首を傾げた。親戚の知り合いにあんな子はいただろうか、と。

 ゴシック調の黒いドレス。腰から下はバルーンスカートの様に広がっており、宮廷や城の御姫様を思わせる装いだ。しかしどうやってもその姿が姫には見えない。百歩譲っても悪女の姫にしか見えない。華やかで美しい御伽噺の御姫様には到底成り得ない風貌だ。

暗い闇を纏う様に背負い、冷たい灰色の雨を背景に立つ姿が様になっている時点で、姫であるなど思える筈もない。ドレスの形がそのように見える。それだけのことだ。

 神代の視線は自然とその少女から離れなくなっていく。

 魔的な美が、魅惑的な暗澹が、神代の視線を釘付けにして離さない。

 表情は見えない。それどころか雨で額に貼り付いた黒髪のおかげで、口より上は見えない。

「――誰、……?」

 素朴な疑問が舌に乗る。

 声など届くわけがない。それだけの距離があったし、しかも窓越し、雨の降る外だ。呟くような独り言が外に届くなど、有り得ない。少女の聴力がどうこう以前に、声が音としての機能を保って少女の下に辿り着くことが有り得ないのだ。

 なのに、呟いた神代の方へ、少女の首が傾いた。

 斜めに傾いで、べったりと雨に濡れた髪の隙間から、大きな黒の瞳が覗く。

「見つけた」

 そう口が動いた、気がした。

 じわりと、背筋から上ってくるような寒気が、首元まで上がってくる。

 恐怖という感情を、物心ついてから人の視線や感情で覚えたことは、神代には無かった。過去の経験が異常な程に大人びていて、常人では理解しがたい仕打ちや対応に晒されてきた神代は、大人の威圧や侮蔑、邪な考えに、過敏な恐怖では無く、冷徹な無感情を以て接することが常になっていた。

 だがその瞬間、彼女が覚えた感情は、紛れもない純粋な恐怖だった。

 少女の口の端が上がり、目元が笑みを作ると、黒かった瞳が虹彩から赤く染まった。

同時に黒い髪の所々に赤い髪が見えてくる。気付けばメッシュになっており、髪は二色に染まっていた。

一瞬でと言うよりかは、じわじわと赤色が覗いてきたように神代には見えた。

 不気味な空気が漂う。少女は明確に嗤っている。

 彼女の赤は純色の様に綺麗で、それでいてくすんだ様な穢れを持った赤だった。

 暗い闇の風景に溶け込んでいた少女は、変わって、闇に映えていた。

 聞こえない声が聞こえる。少女の口元が派手に、耳の聞こえない人に話すように大きく広げられる。事実声は聞こえないが、意味は伝わる。読唇術が使えるわけでは無かったが、それでも伝える意思が強いからか、彼女の唇の動きはそうとしか見えなかった。

「殺しに、きたよ――?」

 少女の言葉を反芻するも、現実味は無い。

 視界にいた少女が動き出す。その後、段階的に地面が揺れた。正確には神代が立っている家が左右に強く揺れた。振動は地震と言うよりか、大きな何かが激突したような振動だった。

「な、にっ! これ!」

 バランスを崩して神代は床に伏せるように落ちた。

 そのせいで、さっきまで捉えていた少女を、視界から外してしまう。

 神代はそれが恐ろしくて、揺れる家の中、窓のサッシを握って強引に立ち上がる。

 窓の外には少女はいない。見えるのは暗い闇と灰色の雨。

「御嬢様! 御無事ですか! 侵入者が屋敷を襲っています。一刻も早く逃げなくてはならないので、屋敷の裏道を使って外に逃げます! ついてきて下さい!」

 部屋のドアをいつもの数倍増しの力で開け、入ってきた和木志が神代の手首を掴んで、揺れる床を走り抜ける。

 神代は叫ぶ和木志の焦りを、まるで蚊帳の外の出来事の様に傍観していた。

彼の動揺や焦燥よりも、少女が何処に行き、何をするために、何処へ向かっているのかの方が気になったのだ。


     5


 神代家の御屋敷を襲った現象は、到底自然現象では有り得ないことだった。地震や火事であればまだ対処のしようはあった。あるいは組織的な、所謂人為的な襲撃に対しても使用人は必要以上の訓練を受けていたので、銃や刃物を相手取る事も出来た。

 しかし、相手が人では無いモノとなれば別だ。

 化学兵器や機械などでもない。ある意味では人が辿り着いた技術の結晶と言えなくもないかもしれないが、技術者達の結晶として世間に公開出来るような大それたモノでも無いし、むしろ倫理的に公開が許される代物ではない。人が行き着いてはいけなかった人体実験のその先にある非人道的な研究の結果。単純に人を殺すよりも残忍で、酷なやり口であるのは確かだ。

 全ての始まりは世界法律の改変だった。

 技術的な要素で世界に貢献できないのであれば、最も迅速かつ簡単な手段として、国は国民の命を捧げて世界に貢献せよとも言えるあの改変だ。

 世界諸国、特に発展途上国はその改変を受け、選択の余地も無く国民の虐殺に及んだ。それで既に世界への貢献が認められた国が幾つかある。しかも貢献を認められた国が現れたことで更なる国民の虐殺は過熱した。事件や事故に見せかけて行われる虐殺は、世界の画策で他国には明瞭な情報が漏れないように施す。異変を感じ取れるのはそこにいる人達だけなのに、その人達の全てが殺されるので、他国民に情報は漏れていかない。

 恐らく数えてみれば、現段階は出生し増えていく人口よりも、虐殺で消えていく人口の方が多いだろう。当然それも情報規制がかかっているので、一般市民は知り得ない。

 毎日凡そ三十八万人が生まれている世界で、本来それよりも下回る筈の死者の数値が、明らかにここ最近では上回ってきている。平均概算で一日五十万人以上の死者が出ている。自然に死する者の他に作為的な死者が含まれて、そんな数値を生んでいる。

 そんな中、技術大国等として有名な島国、日本は困窮していた。何故ならオゾン層復元や、温暖化対策の手が明らかに無かったからだ。アメリカやロシアなどの大国が技術、情報としての価値を見せつけていく中、日本は何も出来ず手をこまねいているわけにもいかなかった。そして無駄なプライドばかり高い日本は、それを他国には言えなかった。

 結果、日本は人を殺すよりも酷い所業に手を染めることになったのだ。

 人体実験による、人を人ならざるモノにする悪魔的な実験を。

 それはヒトでなく、ニンギョウでありヒトガタである。

 人の形を模した人を元に生成された人体兵器、それが『人形』と呼ばれるモノだった。人の形を元にしながらも機能としてはその大半を残さず、エネルギーとして食物を取り入れ消化しての過程も無くした。他にも内臓として機能していた全てのモノを取り除き、あくまでも形としてしか人としてのそれを保てない段階まで削ぎ落とし、そこで『人形』が『人形』たり得るためのエネルギー要素を組み込んだ。

 日本が自国で生産しているものなど殆どない。エネルギーの源になったそれも、大半が外国の輸入によって賄われている嗜好品だった。

 男性では無く女性が求める嗜好品。快楽でも喜びでも無く、女性が根源的に求める欲求を満たすモノだった。

 それは、鉱石だ。

 鉱石が宿すエネルギーは底知れず、それが放つ美しさは女性が根源的に求める美への欲求としてアクセサリーなどにあしらわれることが多い。鉱石と呼ぶよりもパワーストーンと呼んだ方が馴染み深いだろうそれらは、実際計り知れないパワーを有していた。現段階で人間が見つけている電力、熱力、風力、水力、原子力等々の力では測れず、しかもそれらを凌駕する程の力を持ったモノ。それが所謂パワーストーンだった。

 人体を解剖し、不必要な物を取り除いて、逆にそのヒトだったモノを動かす原動力としてパワーストーンを埋め込んだモノ。

 それが『人形』と呼ばれるモノだった。

 但し、パワーストーンが持つ力を受け入れ、発揮できるのは女性の身体のみで、加えて若い肉体でないと耐え切れないほどの力を有していることが判明した。結果、男性は対象から省かれ、女性の中でも年齢による査定を受け、更に人格的な適性を見て、人類を『人形』へと変化させる行為は行われることとなった。

 国の所信としては、将来人口を増やす可能性のある未成熟の女性体を人間では無いモノにすることで、将来的な人口低下、プラス即時の人口低下を促す行為である、と言われている。

 実際は年端もいかない少女の肉体を解し、人ではないモノに変えてしまうと言う道徳的に有り得てはならない事なのだが、反対されるより先に神代家当主の強行により実験は行われ、既に人ではない『人形』となって送り出されてしまった少女達がいる。

 神代家を襲っているのは、その『人形』だったのだ。

 神代絢が知った情報は、その『人形』というモノが作られる過程だ。

 データ的に殺されて、人口の一人から削られて、人体に凡そ想像もつかない行為を施された上で人外にされ、放り出される。その道筋を知ってしまったのだ。

『人形』は個体ごとが持つ力が過大なため、自身による判断が出来る範囲を絞っている。もっと言うなら、彼女らには従者としての生き方しか存在しない。神代家が調べた中で適応した人物を主人とし、その従者として仕える身として彼女達『人形』は宛がわれる運びになった。当然それだけでは賄えないため、『人形』としてではなく養子として適性のある家族の所へ送られるというパターンも存在する。そうして彼女達は自然と人間社会に溶け込んでいくことになった。今やどの程度の数の『人形』が存在するのか、そこまでは神代も調べきれなかった。父親のデータに潜り込むにもそれ以上は技術的に出来なかったのだ。

 そして加えて厄介なのが、感情認証システムというシステムの存在だ。本来人が『人形』に変化したとき、内臓の大半を処理するわけだが、人の中枢たる脳にはほとんど触れないというのが、この人形化の特徴でもあった。それ故彼らは人間らしい会話や仕草を普通に行える。脳内の感情を残し、『人形』を人らしく残すか、完全な操り人形にするか。それを選べるという悪魔のようなシステムだ。主人のエゴで元人間だった者の人格と価値は定められるとも言える。

 但し、この感情認証システムも全ての主人がオンオフを選べるわけではない。基本的にはオフが『人形』の形であり、神代家によって適性を見られた主人以外はその選択権を持たない。それでも『人形』は感情認証システムをオフにされても、人らしく振る舞える。感情を持った個体としてではなく、単なる『人形』として演じることが出来てしまうのだ。つまり、客観的に見ればオンもオフも大差は無い。変わるのは『人形』達の主観的見方と、主人の感じ方だ。ある意味研究者達の偽善で作られたシステムとも言える。

 彼女達『人形』が、ヒトを見るとき、無機質な機械の様に見るのか、それとも感情を持った個体として見るのか。その違いだ。

 後は主人が『人形』から無感情を見ず、まるで普通に人と接しているような感覚を残すということだ。

それらを知り、神代は『人形』の成り立ちとこのシステムの非情さに腹が立っていたのだ。

 主人になった者達の意向は知らないが、感情を持たされた『人形』達にしてみれば良い迷惑だろう。人だった頃の記憶などを呼び起されて、それでいて今の自身が人ではなくなっていることを明確に自覚させる。人権侵害どころの話ではない。

 実の父親がそんな強行に及んだのも信じられなかったし、世界法律の有り方も疑った。日本の下した決断に吐き気がして、信じられないと目を疑ったし、人口を減らし、他国に対しての軍事的脅威にもなるなどという大義名分が、神代の苛立ちを助長した。

だからと言って神代絢には何が出来るわけでもなかった。父親を弾劾できる程の発言力があるわけでもないし、更なる強行で実験をどうこうできる立場でもない。故に何も出来ず、それでも知っている人物には話しておこうと、唯一の学友たる一宮唯にそれを話した。まず世界法律のことを語り、時間を置いて『人形』の事も語ろうと思っていた。

 けれど、その矢先に彼の下に『人形』が贈られた、という情報を知った。父親のデータに介入し、知り得てしまった情報の一つだ。『人形』の所有者として選ばれた中の一人に、彼の名前を見つけてしまったのだ。しかも感情認証システムをオンで設定していることも知ってしまった。それで一宮に何をしようとしたわけでもない。接触してどうしようなど考えたわけでもない。単に話をしなければ、『人形』について語らなければ、そう思ったのだ。

これは、彼が有する『人形』がどのように行動しているのかは判らなくとも、せめて彼には実情を知っていて欲しいという神代のエゴだ。一宮が実情を知らずに『人形』の主人になっていたとしたら、彼は発狂するか絶望してしまうかもしれない。それぐらい優しい奴なのは、神代自身良く知っていた。それでも神代は自分のエゴイズムで、一宮にそれを知らせたい。

だってきっと、彼はこんな無情な事を知らずにいる方が、嫌だと言うと思っているから。

だと言うのに、連絡がつかない。

「御嬢様、お早く!」

 和木志の叫びが響く。

 屋敷が燃えて燻る煙が、辺りに充満している。どうにか和木志の先導で屋敷外に脱出した二人は、ガレージにいた。黒の乗用車に乗り込んだ和木志が、窓を開けて叫んでいる。

 神代は従って、後部座席へと乗り込む。

 背後では屋敷が崩れていく光景が有る。その中には未だに父親がいるのか、使用人がいるのか、それとも逃げおおせたのか。神代に知る由は無い。和木志に聞けば何か判るかもとは思ったが、彼の切迫した表情を見て、聞く気も失せた。

「――何処へ逃げるの?」

 非常な状況なのに、冷静な声音の自分の声が気に食わない。

「とにかく遠くへ!」

 焦る和木志を第三者的視点で見て、神代は自分の打算的な考えに卑しさを覚えながらも、要望を口にした。

「なら、一宮唯の家に向かってもらえるかしら?」

 和木志は息を呑み、一瞬返事を拒んだ様子があったが、やがて頷きを返す。

 一宮宅に行けば、彼と話も出来るし、彼の有する『人形』に遭遇することも出来る。神代はそんな計算をしていたのだ。焦りなど、何処にもなかった。

 雨は強まっていくばかりだ。車体を、窓を灰色の雨が止め処なく降り注ぐ。

 エンジンは神代が乗り込む前からかかっている。彼女が乗り込んだ瞬間、車は走り始めた。ギアは即座にトップスピードに変わる。一般道路で出す速度では無いのは明白だったが、そうも言ってはいられない状況という事だろう。住宅街へ抜ける木々に囲まれた一本道を、高速道路さながらの速度で駆け抜けていく。

 エンジン音も速度も、車体に訪れる揺れも、夜の静謐さとはかけ離れている。

「学校近くの住宅街でしたよね? 彼の家」

 ルームミラー、サイドミラー、前方等々に視線を巡らせながら和木志が問う。

「ええ、そうよ。ここからだと距離はそれなりにあるし、しかも住宅街を抜けなくちゃならないから、速度を維持するのは難しいでしょうね」

「判りました。取り敢えず、この直線で距離を稼いで住宅街に入りましょう。そうすれば、最低限追いつかれることはないでしょう」

「あれは、私を追っているの?」

「それは判りません。ですが、ああして神代家の屋敷を強襲してきた以上、神代家を抹消しにきているのだろうと考えられます。主人や私の父を含む使用人達が現状どうなっているのかは判りませんが、血族である御嬢様が逃げたとなれば、追ってくる可能性が高いと考えます」

「そう」

「主人には父を通して必ず連絡を入れますが、とにかく今は御嬢様を逃がさなければと、私の独断で動いております」

「独断、だったのね」

 神代の言葉に、和木志は竦むように身を固めた。

「はい、申し訳ございません」

「いいえ、謝ることは無いわ。貴方も自分で考えて動くことが出来るようになったのね、と。そう思っただけなのよ。侑、ありがとう」

「……勿体無き御言葉です。ありがとうございます。速度を上げますので、舌を噛まないようにしていて下さい」

「ええ」

 照れを隠すように、和木志は話題を逸らした。神代はそれに逆らう気も無かったので、大人しく口を閉じた。

 と、暫く見ていなかったルームミラーに神代が何となく目線を向けた時、背後に赤黒く光る何かが映った。振り返ってみても、直ぐにははっきりと見えてこない。しかしじわじわとそれが何なのかが見えてくる。人影だ。駆け寄ってくる人影だ。

窓越しに見た、灰色の雨模様にはそぐわない色の何かが、追走してきている。

 それは、雨に濡れた背後の窓越しに駆けてくる少女だった。

 赤い瞳に赤と黒の髪を携えた少女が、法定速度を超えた車の背後に、突き放されることなく追ってきている。

 恐ろしく単調なリズムで、ストライドの大股で、駆けると言うよりかは跳んでいるように、神代達の乗る車に迫っている。

「嘘……やっぱりあれは、人じゃない……?」

「え? 御嬢様、今何と?」

 速度を保ち始めた和木志がここでやっとルームミラーを見た。そして背後に迫るそれを認識した。和木志の表情が歪む。

「くっ……! 速度を上げます! 掴まっていてください!」

 叫ぶ和木志の声の後、身体が一気に後方へ引っ張られる感覚。土砂や石を吹き飛ばし、車体が更に速度を上昇させていく。最早いつ事故を起こしてもおかしくない速度だったが、基本的には直線なのと和木志の技術のお陰とで、何とか走れていた。

 背後に、赤色の瞳を爛々と輝かせた少女を控えて。

「あれが――『人形』?」

 少女は両手を広げ、口元に僅かな微笑を貼り付け、美しき赤を求めて追いすがる。


     6


 ミサキは一宮の夕食後の紅茶を共に楽しんだ後で、一宮に付き添って彼の居室へ訪れた。

「ああ、携帯置きっぱなしにしてたんだ」

 言って一宮はベッド上に放り出された携帯電話を手に取る。

「メールかな……って、着信? しかも十回近くも? 何かあったのか?」

 驚く一宮が携帯電話を操作して耳に当てる。恐らく電話を掛け直しているのだろう。ミサキは所在無く、一先ず部屋に入ってすぐの壁に寄り掛かった。

「あ、絢? どうしたの、あんなに着信……え? 良く聞こえないよ。電波が悪いみたいで……、何? こっちに向かってる? 今から? どういう意味。何かあったの?」

 電話先に何かあった様で、一宮の声は焦りを含んだものになっている。ミサキはそれを知ったら自分は何をするべきか、先に考えておくことにした。

「は、? 何で絢がそんなこと……、いや確かにそうだけど。え? ん、判った。ならとにかく早くこっちに来なよ。今は家族もいないから大丈夫。ああ。ああ。気を付けて」

 焦りから驚きに変わり、動揺を挟んでから一宮の声色は元に戻った。そして電話を切って、一宮の瞳がミサキの方へと向く。

「どうかしたの? 唯。切羽詰まってたように聞こえたけど」

「ああ」

 動揺は未だにとれていない。電話先の相手に悟られないように表面上は隠していただけで、実際はまだ心は揺れているようだ。

「あのね、僕の友達が今『人形』に襲われているらしいんだ。それで、同じ『人形』を持った僕の所に助けを求めてきてる」

「今こっちに向かってるの?」

 相手が、一宮が『人形』を持っていることを何故知っているのかについて、ミサキは疑問を覚えたが、そこは追求せずに端的な質問を述べる。

「車でその追手から逃げて来てるらしい」

「そう」

 一宮の内面はかなり混合している。恐らくミサキ達『人形』のことをまだうまく把握出来ていないからだろう。加えてこの状況だ。襲われているとなれば、相手の『人形』はその一宮の友達を殺しにかかっている。ミサキはそこまでは判っていた。

理由や状況は想像も出来ないが、基本的に『人形』とは主人に傅く存在である。主人が誰かを殺せと唆せば、『人形』は否応なしに従う以外の選択肢がないのだ。

それにその『人形』が感情認証システムをオフにされていれば、その名の通り、その『人形』は主人の操り人形になっていることだろう。

 感情認証システムとは、本来ミサキが一宮に告げたようなものとは少し違う。『人形』が人形らしくと考えない人達によって作られたシステムと言ったが、本質的には変わらないものの、その意味するところは異なってくる。

 ミサキ達『人形』は全てが人為的に作られたモノではない。人だった物を解剖し、パワーストーンの持つ力で制御し新たな力を生み出した元人間。それが『人形』だ。故に『人形』とは過去を持ったモノなのだ。

感情認証システムとは、人間の時代であった記憶から抽出した人間らしさ、それを感情として残して、オンにするかオフにするかを選択するというシステムなのだ。人が冷徹になれず、僅かばかりの温情を残した結果が、それだ。自責の念が籠もったシステムなのだろうが、裏を返せば自分達の罪を緩和させる為の言い訳に過ぎない。

 作られた当人達、元人間の『人形』のことなどこれっぽっちも考えていない。

 ヒトの私利私欲とは、無慈悲で非常なものだ。

罪の意識さえ、人を正すでなく、そのヒトの行為や意思を歪める。

それらを、ミサキは良く知っていた。ミサキを人で無くした、ドブに埋もれたヒト達の姿を見てきた記憶が、感情が残っているから。

 だからミサキは『人形』として、非情な言葉を刃物の様に一宮に突き立てる。

「ねえ、唯。貴方は、その友達を助けたい?」

 判り切った質問を、丁寧にゆっくりと噛み砕くように言葉にする。

「僕に何が出来るかは判らないけど、……出来ることはしてあげたいと思う」

 返答は予想通りのものだった。

 ミサキは自分が告げようとしている言葉が、残酷な台詞だと判っていた。一宮を明確に傷付ける言葉だと理解していた。それでも、口にするのは止めなかった。

 噛み締めるように、言葉を声に変え、一方的に突き付ける。

「そう。なら簡単よ。私に言えば良い、その追手を追い払えって。命令すれば良い。私は貴方の『人形』だから。貴方の命令なら、どんなことでも従う。

 それに相手が『人形』なら『人形』としての対応というのがある。私ならその追手を、しっかり追い払ってみせる。最初にきっと私が言ったでしょう? 他の『人形』に襲われた時の迎撃手段はあるって。その通りなの。同じ『人形』である私なら、人外のその『人形』をどうにかしてみせる。アンタの友達を、救ってみせる。

 私達は道具に過ぎないの。そして道具なら道具として価値を持たなければならない。『人形』同士の戦いなら、『人形』として十分な価値を発揮できる。

どう? 簡単でしょ。アンタはただ、私に命令すれば良いだけよ」

 一宮は言葉を失った。

彼は彼なりに、ミサキとの距離を測り関係を築いてくれていた。だからこそ、ミサキを『人形』として見なすのが嫌なのだろうということは、ミサキ自身にも判っていた。彼はあくまでもミサキを一人の人間として見ようとしている。

 だからと言って、ミサキに言葉を取り下げる意思は無かった。

 何故なら、『人形』とは所詮人ではなく、モノに過ぎないからだ。自分が『人形』であるミサキがそのことを良く理解していて、人間である一宮はそうではない。

 だから、二人の間で微妙なズレが生まれている。

ミサキはそのズレを無視してでも、主人たる一宮が大切に思っている人がいるなら、そっちの方が大切に決まっていると考えていた。

それに、一宮にとって友達と言ったその相手が、何物にも代えがたいとても大切な存在たることを、ミサキは一宮の声と心で知ってしまったから、自分の欲望に反しても、そうしてあげたいと、そうしなければと思った。

だから、自分を慮ってくれる彼に、ミサキは酷な言葉を簡単に述べてみせる。

 自分を、突き放してもらうために。

「――……。判った。ミサキ……頼めるかな。彼女を助けて欲しい。神代絢を助けて欲しい」

 たっぷり空白の時間を空けて、瞳や首を幾度も上下して、迷いに迷った後で、一宮は吐き出すようにそう言った。

 ミサキはそんな彼に微笑みを返す。偽りの微笑みを。

「任せて」

 ミサキはこの時初めて、自分に課せられた感情と言う重しを理解した。

 これなら何も判らないまま操り人形として、意のままに糸を振られ、その通りに動いていた方がマシだと感じた。

 人間では無いモノに人間らしさを宿したままにしておくなど、そもそもが間違っていたのだろう。

 黒く様々な感情に溺れた一宮の瞳から目を逸らし、ミサキは自分の中に生まれてくる、似たような黒い感情から目を背けるように窓に向かう。

 甘い感情や記憶が、こういう時は毒牙になって襲ってくる。たった少しの間だけ、ミサキが一宮と過ごした時間など、全て合わせても大した時間には成り得ない。一宮のこの先も続く人生と言う枠組みで見れば、とるに足らない時間だ。

 いずれ、脳の奥の方に仕舞われてしまう、微少の記憶だ。

 あまりに近付き過ぎれば、辛くなるのは一宮だ。ミサキにとっては主人たる一宮が全てにおいて優先されるべきであっても、逆はそうでは無い。一宮には人として生きる道がある。既に人では無くなったミサキが割り込める舞台じゃない。

 最初は主従関係をしっかり築くために、一宮との会話や一時を演出していた。

それがこんな短期間でそれすらままならない程、近付きたいという欲望に変わったのに、ミサキは気付けなかった。感情が生む欲望と言う泥に、気付くことが出来なかった。

 人であった時の何かが、ミサキにそうさせていたのだろう。異性に抱く想いなど、どんな人間も持ち合わせた、有り触れた感情だ。ミサキが人であった時に、それを誰かに向けて抱いていたのだとしても不思議はない。それが残された感情の中から湧き出ることだって、有り得てしまうことなのだろう。

そして、その感情は他の感情を圧倒する美しさを持ち、情熱的な欲望の塊でもある。

 そもそも欲望を抱くと言う行為が、人外に許された行為ではないと言うのに、皮肉なことに『人形』にはそれが出来てしまうから余計に辛い。

甘い蜜の滴を舌に乗せておいて、これ以上はあげられませんと言われるようなものだ。それは最初から蜜の甘さを知らずに焦がれるより、残酷な仕打ちだ。

 ミサキは有り余る言葉や思い、感情に類する全てを呑み込む。

 人では無く、一個体の『人形』として尽くそうと決意した。

施錠を解き、窓枠に足を掛けて、雨独特の匂いと空気を身体で感じる。

 彼に何か言葉を掛けようか、ミサキは一瞬思ったが、掛ける言葉が思いつかなかったので、そのまま前方の屋根に向かって跳んだ。

 雨は見ていた時よりも激しく、ミサキの心身に突き刺さる。

 こんなにも深く穢れているのに、見上げても浄化してくれる月光は無く、降り注ぐ水は清らかなモノでは無い。正常に駆動するための浄化すら、ままならない。

縦に降る雨を横へ切り裂きながら、顔も身体も汚く濡らして、ミサキは燃える感情も心の擦れ違いもこれから先への悩みも、何もかもを穢れた雨に流した。

穢れで穢れなど、落とせる筈も無いのに。


     7


 小雨は大雨に変わっていた。

 風は殆ど吹いてはいなかったが、上空については違っていた。地上付近ではなりを潜めたその牙も、少し高さを持った場所では全く変わってくる。

 身体の位置を少しでも間違えれば体軸を崩す。言うまでも無く雨のせいで足場は不確かだ。ちょっとのズレが命取りになってくる。

 ミサキは屋根の上を駆けていた。

 丁度真下辺りを走る黒の車に並走している。雨で濡れた屋根瓦は足場としては良くなかったが、それでも見た目ほど重さが無く、関節の楔に囚われた人体とは違う『人形』だからこそ、バランスを保ち続けることが出来ていた。

 足首の関節と、足の指関節、加えて膝関節を適宜動かしながら、なるべく歩数を抑えて駆けている。勿論普通の人体であれば、関節をそれ程細かく駆動し続けながら走るなど、不可能な芸当だ。跳ぶように、歩幅は広くストライドな足運びのお陰で、着地している総計より、宙に跳んでいる時間の方が長い。

 だからこそ、宙に浮いている時の風と、降る雨に対してほぼ垂直にぶつかることを意識していなければ、簡単に足元をすくわれかねないのだ。

 目標の車より後方二十メートル程に、そいつはいた。

 赤い瞳を迸らせて、赤と黒の髪を振り乱し、水を吸って重そうなゴシック調のドレスを纏った人外の同種を視界に捉えた。

「見つけた、仕留めてやる」

 ミサキの表情は、無表情に黒い感情を大匙一杯含んだようなモノだ。

 駆けながら屋根の縁に寄っていき、足場にしやすい四つ角で、膝を曲げ、足首と足の指をも曲げる。

 関節は軋み、その軋みを開放するように、下方へ向けてミサキの体が発射される。

 邪魔をしていた風や雨を物ともしない速度で、それら全てを切り裂いて、赤のそいつへと肉薄する。頭から突っ込むような形のせいで、先にミサキに気付いたそいつと視線を交わしてから、ミサキは空気の圧力に逆らって体軸をずらして、右の拳を振り下ろした。

 重力に沿った加速度は威力に相乗し、ドレスの少女に襲い掛かる。

巨大な風圧の壁ごと当たったので、当てさえすれば甚大な被害をもたらしたのは確かだったろう。気付かれたのも比較的遅く、必中の距離感だった。

 なのに振り下ろされたミサキの拳は、ドレスの少女の首真横をすり抜けて、その先の壁に突き刺さっていた。痛みは感じなかったが、拳が破損する感覚は酷く不快だった。

雨のせいで石壁にめり込んだのに砂埃は皆無。当たる距離、攻撃であったのは確かなのに、明確に避けられていた。その原因は雨粒の先に在る。

 見ていた速度に対して並走し、相対速度ゼロで向かったのに、拳は当たらなかった。

 それもやむを得ない。

首の関節を横に折り曲げて、首の合間に隙間を作るなどされてしまっては、当たるものも当たらない。

 肌の奥。関節がある筈のそこが、鈍く輝いている。瞳の色と同じ赤だ。

「アンタ、避けたわね」

 辛うじて苦言ぐらいは口にしたが、状況はかなり良くない。

 少女の瞳が輝きを見せる。

「――――明確な意思を持った攻撃と断定。貴方を任務妨害対象として認定し、目標への接近を円滑にするため、排除します。

……人形遊びは、御免なのだけど」

 赤く鈍い眼孔が、ミサキを睨み返している。そこには感情は無く、任務を遂行するという短絡的なモノしかない。

 ミサキは少女の身体に乗るような体勢で、位置も上で明らかに優勢なのに、体の芯から冷えていくようなモノを感じ取った。

何故なら、一目で彼女の感情認証システムはオフ設定だと、気が付いたからだ。

「――っく!」

 まずいと思った時には遅かった。

 黒のドレスの淵の方、バルーンスカート状の端の先から伸びた足が、ミサキが体を後方へ回避させるよりも早く、脇腹へと突き刺さる。

革製の硬い靴の先が、抉るようにミサキに当たった。加えて当たった瞬間に足首関節をミサキの方へ伸ばして、威力増加の追撃をも食らった。

「っくあああ――っ!」

 ミサキは悲鳴を上げる。

 身体が破損しても痛みなど微塵も感じない『人形』の体だが、唯一例外がある。

それが他の『人形』による攻撃だ。先程拳を壊しても痛みを感じなかったのは、相手がただの石壁だったから。『人形』による攻撃となれば別だ。

 ミサキ達『人形』は、体内に宿すパワーストーンを媒介にエネルギーを生み出し、体を動かしている。しかしそのエネルギーは混じり合うことを拒絶する傾向にある。強すぎるエネルギー故か、同種のパワーストーン以外のエネルギーが撃ち込まれた場合、混合を拒み、それを痛みとして脳へ信号を送る。

 激痛よりは鈍痛に近い、腹の底から、体内から疼く様な重ったるい痛み。

 体内に入ってきた別種のエネルギーのせいで、その痛みは形になる。

 立て直す隙も無く、少女の蹴りで石壁にめり込んだ腕も抜けたミサキは、宙に無防備な状態で晒される。

 当然少女はそれを見逃さず、黒のドレス越しに赤く輝く肘関節を伸ばし、右の拳をミサキの胸辺りに向けて振り切った。

 激痛が体中を巡りながら、ミサキは泥に塗れた水たまりに頭から突っ込んで、バウンドした体はそのまま路地を滑り、勢いはそのまま対面の壁にぶつかった。

「っくっあ、」

 ミサキの漏れる呼吸と声は、吐き出されるように力無い。

 まずいとは思ったが、思うだけで目を開けることもままならない。響く痛みが、ミサキの行動を阻害する。

 雨のせいで視界の悪い辺りに、必死で視点を合わせる。

 少女は迫っている。腰から下の関節を赤く滾らせて、接近してくる。

「――っ」

 文字通り息を吐く間もなかった。

 落とされる中段からの踵落としを、間一髪体を転がして避ける。追撃は足先のステップだ。まるで踊る様に軽やかに、一つ一つのステップがミサキの服を掠める。威力は舗装された道路を軽く抉るぐらいのものだ。一撃でも食らえば危ない。

 時に多段的に、時に緩やかに、曲調の違うステップが襲ってくる。曲に書かれたような綺麗なものでは無く、機械が出鱈目に音を鳴らしたみたいな不快なステップだ。軽やかではあっても、決して良いステップでは無い。これは飽くまでも攻撃の手段だ。

 体を起こす隙を見せない。単に転がるだけでも限界だ。それさえも止めてしまえば、あの足がミサキの体に風穴を開けることになる。

 回避がままならないなら、選択はそう多くは無い。

 一気に早さが駆け上がり、連続の踏み付けが両足から放たれる中で、ミサキは転がりながらも反撃の一糸を求める。

 段階的に変化するステップ。その段階の隙間を転がりながら狙っていた。当然少女も易々と隙を見せはしない。横回転に転がるミサキの体が背を向いた一瞬でリズムを変化させている。それでも、タイミングさえ掴めれば些細な問題だ。

 狂ったような連撃のステップが変わる一瞬、ミサキは股関節を淡く光らせた。

それは中空の月光の様に幽かで、至近の白熱灯の様に強い、光。

「――……」

 息を呑む行動さえ機械的な少女の脇腹へ、逆回転した股関節の先から放たれた右足が吸い込まれるように一撃を刻む。

 漏れる声は無いが、少し顔を歪め、少女の攻撃は止む。

 攻撃の連続に出来た確かな空白を見逃さず、ミサキは逆に回った股関節を更に捩らせ、地面に並行から地面に垂直へ変える。次いで股関節に合わせるように上半身を適合させれば、ミサキは地面に対して平衡さを保つ。

 一撃を返したにしても、距離はまだ直近だ。ミサキは体勢が整うと同時に、足首関節、手首関節を光らせて迫る。

「ふっ――」

 一息吐くごとに攻撃が交わされる。少女は回避では無く、交差を望んだ。

 拳はすれすれで交差し、互いが各関節を人外の方向へ導き、回避不可能な攻撃を全て躱す。避けるのではなく、躱している。避けて終わるのではなく、躱して反撃をするのだ。

 一進一退どころか、どちらも進みも退きもしない。同じ立ち位置で続く攻撃と反撃。

 火花が散りそうな速度で交わる一瞬は、ヒリと肌が軋むが、その小さな痛みは恐れを呼ぶどころか更なる闘争の火種と化す。

 ミサキは自分の内面から沸々と湧き上がってくる感情を抑えきれず、笑みを漏らす。それに陶酔しているのはミサキだけではなかった。

 相手の少女の頬も、僅かに緩んでいたのだ。

 感情認証システムオフの筈の『人形』が、愉しんでいる。

 おかしいとミサキが異変を察知した時に、ふと攻撃パターンが変わる。今までの闘争心のままに削り合う攻撃ではなく、意識的にミサキの攻撃を読み、避け、真っ向からの戦いでは無い沈めた体から放たれる回し蹴りを繰り出す。

 一瞬の思考が戦いの邪魔をしたせいで、闘争の後の機械的な一撃を読めなかった。

 お陰でミサキはその回し蹴りを股関節に見舞われる。

 正しく痛撃と呼ぶに相応しい一撃だった。体の軸になっていた股関節を狙った、見事な一撃だ。常人なら関節ごと付近の骨が折られていたであろう一撃を受け、内部は無事にせよ、ミサキはまたも無様に泥だらけの地面を転がる羽目になった。

 いい加減泥の味が口の中に広がるのも、体が泥まみれに汚れていくのも嫌だったのに、無情な程に少女は冷徹だ。泥に転がったミサキに、ダメージにならない程度の蹴りを加えて、泥だらけの茶色い水溜まりの中を転がす。一回一回が速く、繰り返される攻撃は内から疼く鈍痛に邪魔され、避けようにも避けられなかった。隙を窺う余裕も無い。

「あ、――っあ、おあ――」

 口の端から零れていく嗚咽だけが、ミサキ自身の耳にも聞こえる。自身の無様な声など聞くに堪えなかったが、我慢せざるを得なかった。

 幾度体を転がされたか、痛みが体内で綯い交ぜになって、思考や感情さえあやふやになってきたところで、一際強い攻撃が腹部を撃ち、少し遅れて背中に衝撃が走った。

 再度石壁にぶつかったことを意識した頃には、ミサキの体は石壁に背を預けて座るような体勢になっていた。

 少女は一定の距離を開けて、ミサキを見下している。

「貴方も私と同種の割に、思ったより他愛も無いのね。綺麗に着飾ってるだけの人形なら、泥まみれに汚して主人の下に送り返してあげる」

 対面する少女は、何処か楽しそうに言う。

少女の感情認証システムはオフだ。となれば、こんな風に歪んだ台詞を口にするのは、彼女の意思ではなく、主人の傾向と人格に依るものだろう。彼女個人の意識は空白だから、それを埋めるのは最も近しい主人のモノというわけだ。

 それにしても不可思議は残る。急に戦闘狂のように闘争の中に身を投じてきたかと思えば、その数瞬後には機械みたいに冷静な対処をしてみせる。彼女が時折告げる言葉と同様に、感情が無い『人形』らしからぬモノだった。単に絆されたからと言って、そうなるものでもない。感情が認証されてない以上、在るのは無機質な『人形』的解釈。人間のような感情的な振る舞いや言動、行動を複製できるわけがない。

 ミサキは自身の内部に在るデータを探る。突破口を求めて。

 感情認証システムがオフの場合、オン状態とは違って意思を媒介にしない機械的な動きを可能にしたり、『人形』が見る風景を映像化して主人の脳へ送り込んだり、主人が命令を一方的に『人形』へ押し付けることが出来る。オン状態の時、感情を生み出すためのパワーに転換される部分の大半を、より人形らしい力として明確化したのだ。

 思い返した一つに、違和感を察した。『人形』が見る風景を主人の脳へ送り込む。それはつまり視覚的共有。『人形』を一つの個体では無く、一つの箱として見た時、機械的に動くその箱に主人の意識を入れ、共有し、共感させる能力。人間が感じ取る感覚は、五感在る。それらは相互的に噛み合うことで一つになる。複数の情報を取りまとめ、より正確で明瞭な情報へと変換していく。

つまり、どれか一つの感覚だけを共有すると言うのは、情報の正当さ、あるいは明瞭さを欠く行為になる。

 となれば、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、そして――触覚を共有している。

 触覚とはつまり、痛覚に通じる感覚だ。触った手応え、返ってきた痛み。それを丁寧に脳に伝えるために末梢神経の末端が拾うモノだ。

『人形』は対人間や物に対しては痛みを覚えないから、きっと主人の感覚にもそれがフィードバックすることは無い。だが、対『人形』となれば、激しい痛みを発する。その痛覚が、主人へと共有されることになる。

 突破口は見出した。ミサキは重い一撃を、少女に当てることだけを思索する。反撃の可能性は考慮しなくて良い。感覚共有の考えが正しければ、反撃をする余地さえ生まない展開になると予測出来るからだ。

 通常に戦えば、きっと感情認証システムなどオフの方が強いに決まっている、それはいくらかの攻防をした今、余計にひしひしと感じている。感情が邪魔をして、思考して戦うことが邪魔で、反射的、機械的な動きに敵わない時が多い。

 戦闘においては驚異的な時が多いのは認める。

けれど総括して見れば、オフが良いとはミサキは思えない。

感情に対して嫌な経験をした後でさえ、そうは思えなかったのだ。

 それは一重に、オン状態の『人形』にだけある機能のお陰だった。

 オフ状態の恩恵が、『人形』から主人へ送られるモノなら、オン状態は逆だ。

 戦う機能には成り得ないし、大した得もないが、ミサキはそれが嫌じゃなかった。

 主人の感情を距離の関係なく脳に直接感じられるという恩恵を、好んでいた。

 あんな言い方をして飛び出したミサキを、心配して心配し尽くしている感情が、今もダイレクトにミサキの脳に届いている。

 素っ気ない言葉を告げて、悔やむ感情が流れてきている。

 感情なんて戦闘においては邪魔で、無機質であればある程脅威になれる。

 感情なんて他においても邪魔で、激情するも一喜一憂するも、心の機微は体を酷使するよりも疲れるものだ。

 それでも、有してしまったミサキにとっては、既に無くてはいられない。

 流れ込んでくる一宮の剥き出しの感情を理解出来る。もどかしくて苛立たしいのに、それなのに狂おしい程に嬉しくなる一瞬がある。

 ミサキはとうに人間では無く、まだ『人形』にもなり切れていないのかもしれなかった。

「……御人好しね」

 雨を浴びて、呟くように言った。

「今何か言った?」

 呟きが嫌だったのか、少女が叫ぶ。雨音に掻き消された主人への届かない言葉を聞かれなくて良かったと、ミサキは笑う。

「汚せるなら汚せば良い、って言ったのよ。

アンタみたいに外面に比べて内面は主人同様、薄汚い下郎みたいに成り下がるより、外面が泥まみれに汚れた方がマシだもの」

 口端を上げたミサキに、少女は表情を歪めて返した。少女と言うよりか、その奥にいる主人の表情が歪んだのは自明の理だ。

 主人の感情に突き動かされて、少女はミサキへ迫る。駆け足のまま直前まで来て、大振りな膝蹴りに移る。関節をフル活用した速度は異常だが、ミサキはそれを右肘で止めた。エネルギーは互いに流れ、逆流し、混ざったエネルギーは同等に痛みを分かつ。

「っくう、生意気な! 私の前で粋がるな『人形』風情が!」

 少女が放つ言葉は明らかに少女の温度では無い。その先の少女を操る主人の言葉だろう。

ミサキに流れ込む痛みが歯の根を噛ませるのと同様、その痛みが少女の主人に影響して声が荒げられているというわけだ。

 言葉の挑発に乗ってくれた時点で、ミサキは既に状況を返せたと確信していた。

「同じ『人形』風情に言われたくないし、そもそも痛みも感覚も無い『人形』越しにしか強気でいられないような人間に言われたくないわ」

 更に心を揺らす爆弾を投下していく。

「愚弄するの」

 明らかな激情が、感情の無い筈の『人形』から滲み出ている。

「愚かに『人形』を弄繰り回しているのはアンタでしょ」

 言葉は少女に、では無い。その奥へ告げた。

「――……くっ!」

 挑発は成って、少女の攻撃が更に苛烈を極めてくる。

関節を回し、動かし、球体関節人形さながら自由に踊り狂っていた。

まるで言われた言葉を誤魔化すように、自分自身の行動がそれを認めるのと同義になっているなんて気付かずに、攻撃は我武者羅に繰り出される。四方八方から迫る攻撃、速度、順序を滅茶苦茶に乱してくる関節の動き。その攻撃は確かに途轍もなく凶悪だったが、同じ『人形』であるミサキに避けられない攻撃では無い。

 股関節は通常通りの稼働を望めなかったが、それでも問題ない程度の動きだった。

 人形のように、機械の様に、プログラミングされた悪質な攻撃なら脅威だが、この攻撃にそんな無機質さは無く、あるのはむしろ明確な怒り。

感情を丸出しにした攻撃など、読めて当然だ。

少女の表情は人形のそれなのに、言葉は不完全な感情が籠もっているというちぐはぐさに、ミサキは可笑しさを覚えながら攻撃を捌く。

捌きながら少女に合わせて関節を稼動させ、人体では到底不可能な回転やねじれ、体軸のズラしなどを駆使し、清々しい感情のままに避けていく。

 最初に反射的に回避して反撃したのだろう、あの一撃を越える攻撃はそこには無かった。

 在ったのは感情任せの堕落した攻撃のみだ。

「アンタ、弱いね」

 白い髪も、真白な肌も、一宮に借りた一宮母の服も、ぼろぼろで泥だらけで、美しさなど欠片も見えないのに、ミサキは自分よりも美しく綺麗な状態を保った赤い少女の目を見て言う。

 少女はその言葉に一瞬動きを止めた。

 恐らく主人が命令をするのを止めてしまったからだ。

雨の匂いが充満したこの空気も知らず、自分が戦っていると勝手に酔っていた愚鈍な主人の矮小な心に、ミサキの言葉が届いたのだ。

 それは驚きと言うより、恐怖により停止したようにミサキは感じた。

それが意味するのは、相手が自分の弱さを認めたくない弱者。あるいは強くありたいが自分で強くなる気のない弱者ということだ。ミサキはそんな見え透いた思想に虫唾を走らせる。

 力強く、無事な左の拳を握った。

「『人形』なら『人形』らしく戦わせてあげなよ。アンタの命令で動いてる限り、この子はこれ以上強くはなれない。主人のアンタの弱さが、この子の『人形』としての強さをダメにしてるのよ。主人と『人形』の関係としても最低、主人と従者の関係としても最低よ、それじゃあ。『人形』には『人形』にしか出来ない戦い方って言うのがあるの。やるならその子を『人形』として戦わせて。アンタは強くない、強いのはアンタじゃなくてこの子だ。

驕るな、人間風情が」

 正常には動かない股関節の代わりに、あらゆる関節をクッションあるいはトランスミッションに変えて、その一撃が最高の形で通る様にした。

 泥と雨で汚れた拳が、勢いよく少女の頬を吹き飛ばす。

 呻き、喘ぎ、息をもまともに出来なくなるほどの痛みが、奥の人間に通った。


     8


「ぐああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、あああ、――ああっ、ああああああ……ぐ、ううううあ、あああああ、ああああああああああああああああっ! あの野郎、あの糞女、くそっおおお、ああああ! ふざけるなふざけるなふざっけるなあああああ、舐めやがって……えええ! くうああああああああああああ、くそっ、くそおおお!」

 想像したことの無い痛みが体内から湧き出してくる。脳に送られる痛覚の信号は、彼が感覚共有をしていた『人形』との糸が途切れても、消えることは無く発されていた。痛みなど心も体も涸れ果てる程に浴びたと思っていたのに、それらを軽く凌駕する痛みが沁みてくる。

「あの白髪の糞人形も、神代絢も、ふざけんなよおおおっ! ……ちくしょおちくしょおおお! 絶対に殺してやる、壊してやるっうう! 奴らを俺の足元に、屈服させてやるっ! ぐあああああ、痛い……痛いいいいいいいいっ! はあああ、ぐあああああああああああ!」

怒りと激情と熱情が痛みに混在して訳が判らなくなる。自我を平静に保つことさえ難しい。

叫ぶと言う行為を無意識に繰り返していなければならないほどに、現実離れしている。

叫ぶことで痛みが和らぐわけではない。なのに、叫んでいないと身がもたない。心がもたない。まるでそのどちらかが崩壊してしまうのを防ぐように、彼は叫ぶしかない。

 神代絢へは深く根付いた怒りを、白髪の『人形』に対しては湧き出す激情を、絞り出すように叫んだ。

 いくら叫び続けただろうか。声が涸れるまでと言うよりかは、精神の切れ端が涸れ果てる直前まで喉を震わせていた気がする。彼は涎や涙など、顔にある体液分泌箇所から限界まで体液を流し、床上でひくついているだけの存在に成り果てていた。

 そんな彼の傍に、少し前に連結された感覚が途切れた『人形』が立っていた。

 今来たと言うよりかは、少し前からいたそれを彼がやっと認識したというところだろう。

 未だに残る小刻みかつ不自然な震えを帯びた顔を、上へ向け、視線をそのモノへ向ける。

「お、……い。ルチ、ル。お前、お前、任務も果たせず、挙げ句……主人たる――俺に向かって、こんな、ふざけた痛みを与えやがって、お前――どう、償う気だよ」

 ルチルと呼ばれた少女は、無機質に頭を下げる。

「申し訳ございません。不覚でした。せめてターゲットを追いさえしていれば」

「は、ははっ。だろうなあ」

 少年は渇いた笑い声を響かせる。ルチルへ目の前の『人形』を始末してから追えと命令したのは他ならぬ彼自身だ。

ルチルに意味は無くとも、少年には意趣返しにしか聞こえなかった。

 苛立ちの立ちのぼる今の少年に対しては、良くない反応だった。

「おい、頭を俺の前まで持ってこい」

 不遜な少年の物言いにも、嫌な顔一つせず、跪いたルチルは転がった少年の目線の先に自分の顔がいくように、更に屈んだ。

 少年はルチルの顔が真正面に来ると、その首元の辺りをドレスごと引き千切らんばかりの力で捻り上げ、自分が体の大半を預けた地面に引き落とす。

雨に濡れたドレスが擦れ、酷使された関節が軋むが、ルチルの表情は無表情のままだ。

 そんな無表情が更に少年の怒りを煽る。自分は人間では無いから痛くありませんと、言ってもいないのにそう告げているように錯覚する。

「くっそ、ふざけんな! お前がもう少しマシな動きしてれば! あの『人形』に勝てれば! もっと違った結果になったろうによお! 言ったろ? 俺は舐められるのが嫌いなんだよ、見下されるのが大嫌いなんだよっ! それを、それをおおお!」

 狂気のままに、少女の体は幾重も地面にぶつけられる。

「申し訳ございません」

 端的な謝罪の言葉が、地面にぶつけられながらも問題なく発声される。

「くそがああああああああああああ!」

体をひとしきり地面に打ち付けた後は、頭を地面に強打させる。幾度も狂ったように打ち付ける。ルチルの反応が無いので回数は増していくばかりで、止め時が無い。

だが、やがて黒い髪が幾本も地面に落ち、その肌が傷付いていくのを見て、湧き上がっていた怒張が冷めていった少年は、突き放すようにルチルを少し遠くへ突き飛ばすように放った。

 震えが治まった体を立たせ、少年はルチルを見下す。

「まあ良い、収穫はゼロじゃなかっただけ、お前の価値を認めてやる。とにかく今は、憂さ晴らしに付き合え」

 一方的な物言いにも何も返せないルチルは、身を起こす。

「かしこまりました」

自分の瞳越しに見える煤けた赤の世界を見て、美しき赤色を渇望し、夢想する。

 黒く穢れた少年の瞳と感情を見て、もっと美しき色を想像する。

 ルチルは無表情に、無味に、無機質に、見たことのない至上の赤を何処かに求めた。


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