134 ラジオ体操
男の人には分からないかもしれないけど、女って髪を切ると、心機一転できる。
失恋すると髪を切るっていうのは、何もショックでバッサリ切るわけでも、相手の好みで伸ばしていた髪を切るわけでもない。
あ、もちろん人によって違うかもしれないけど、あんな奴どーでもいい!って気持ちを切り替えるために私は切る。
いや、実際は髪を切ったからってすぐに気持ちが浮上するわけじゃないけれどさ。
っていうか、最近は恋愛してないから、失恋もしてないけどね……って、それでいいのか?凹。
朝風呂の後、髪を切って朝食。
爽やかな1日、いや、第2幕のスタート。
まだ、思うように動かない体で庭に出る。
さぁ、どうしようか。吾妻さんに頼むことは人材の確保に関することだ。返事を待って、トルニープに戻るつもり。しかし、これだけ体力が落ちていては、旅もままならない。まさか、また背負子で背負って連れて行ってもらうわけにはいかないし。
3日。遅くとも一週間。その間にできるだけなまった体をどうにかしなければ。
うーんと、青空に思いっきり手を伸ばして背伸びをする。背中がきしきし言うけれど、もう痛みは顔をしかめるほどではない。
両肩をぐるぐるっと3度回して、心の中で音楽をスタートさせる。
チャンチャラチャチャチャチャ、チャンララチャチャチャチャ、チャチャチャチャチャチャチャチャチャンチャンチャーン、はいっ
イッチニーサンシ、ニーニーサンシ。
そう、ラジオ体操です。
日本人たる者、体を動かす準備体操といえば、これでしょ。
「リエスさん……」
ラジオ体操を終えると、ウルさんが驚いた顔をして別荘の入り口に立っていた。
「どうかしたんですか?」
「ラジオ体操をどうしてご存じなのですか?」
「え?ウルさんこそ、なんでラジオ体操を知ってるの?」
私、こっちの世界でラジオ体操ダイエットを広めたりもしたけれど、キュベリアでだよ?流石に国をまたいで広がっているとは思えない。それともウルさんはあちこちの国に行っていると言っていたから、キュベリアで見たのかな?
「ボスが、訓練前に怪我を防ぐためにと教えてくれました。外部には知られていないはずなのに、なぜ貴方が……」
吾妻さんもラジオ体操を広めていたのか!
どうしよう、言っていいのかな?吾妻さんと私は同じ故郷出身だと……。
いや、まてよ?ボスと私の関係をウルさんはどこまで知っているんだろう?吾妻さんは、自分と関わりを持たないほうがいいというようなことを言っていた。とすると、ウルさんにも、私と吾妻さんが親しい(と言っていいかわからないが)というのを言わない方がいいんだろうか?というか、いつどこで出会って、どうして親しくなったのかと聞かれたら困るよね。
ネットオークションで知り合って、メールで親しくなりましたとか、言えないし。
「ボスが何故ラジオ体操を知っていたかは分かりませんが、私の故郷では幼少期から皆知っていますよ?」
ボスも小学校の体育で習って、夏休みにスタンプもらいに通って、中学の体育の期末テストで試験に出されたんだろうけどね。
「やはり、リエスさんはボスと同郷なのですね……以前にボスが言っていました。故郷の者は、黒目黒髪ばかりだと……」
あー、それと、西洋顔と比べて平たい顔でしょ?
まぁ、同郷に間違いはないんだけど、私が吾妻さんのこと詳しいくないっていう設定にさせてもらうので、あいまいに笑った。
「ボスも、黒目黒髪なんですか?」
私の質問に、ウルさんもあいまいに笑った。
ボスの正体は内緒なのかな?名前も出さずに「ボス」と呼んでいるのでなんとなく察しはついてたけど。
「あなたがいてくれてよかった。故郷の者は誰もいないと、もうボスは悲しまなくて済む。例え会うことはなくても、この世にリエスさんがいるだけで、きっとボスは救われます」
ウルさんが、今度は心からの笑顔を浮かべる。
ボスが救われる、それが心底うれしいようだ。
この世界に、吾妻さんがいるだけで……そうか。
もう、日本に帰れないかもと思ったとき、急に吾妻さんに会ってみたくなった。
日本のことを知る者、同じ日本人に会いたくなったんだ。
この世界に、私一人じゃないと……。私の持つ日本という記憶を共有できる人がいると……。
もしかすると、吾妻さんが時々メールに書いている「嫁に来い」は、半分は本気なのかもしれない。
日本のことが恋しくなって、日本人に会いたくなって、一緒に懐かしんで、異世界に来た者の気持ちを分かち合いたいのかもしれない。
周りにいる人たちにいくら恵まれても、常に秘密を抱えている。誰にも日本のことを話せない。全てをさらけ出せない。うっかりオーパーツのことを話してしまうわけにもいかない。この世界の人間とは、どこか線を引いて付き合っていくしかないのだ。
故郷の者は誰もいないというのは、日本から異世界に来ているからだ。吾妻さんは故郷は戦争で壊滅。命からがら逃げた自分以外にはもう誰もいないとかそういう設定らしい。うーん、同郷ってことは、私もそういう設定に合わせた話を考えておかなくちゃダメかな?
後から、吾妻さんに確認しなくちゃ。
今は、出発の準備!
「ウルさん、ボスから給料いくら貰ってますか?」
唐突な質問に、ウルさんは一瞬言葉に詰まった。
「給料ですか?世の中の平均は分かりませんが、食うに困らず、ちょっとした贅沢もできる程度には貰っています。ボスには感謝しています」
うーん、ウルさんのちょっとした贅沢がなんなのかにもよるけれど、手取り25万とかそういう感じ?もっとかな?
「今の給料の、倍、いいえ3倍払うから、私の元で働かない?」
唐突な申し出にもかかわらず、今度はウルさんは間髪入れずに答えた。
「お断りいたします。」
あら、ヘッドハンティング失敗。
うん。でも、その方がいいよ。
「お断りしているのですが……リエスさん、何故笑っているんですか?」
「じゃぁ、10倍の給料なら?」
ウルさんは首を横に振る。
「給料の問題ではありません。例え無給だったとしても、私はボスに生涯仕えます。それだけの恩がありますから」
「やっぱりウルさんは信用に値する人物だね」
派遣先の上司で、ヘッドハンティングされたという人がいたけれど、どうも胡散臭い人間だったんだよね。
だって、お金につられて転職ってまでは分からないでもないけどさ、それで前の会社の企業秘密をバンバン暴露するとかってどうなの?と思う。
前の会社がよっぽどブラック企業ならまだしも、右も左もわからない新人を育ててくれた恩義とか感じないのかなぁって。
かの元上司は、俺は優秀な人材だからヘッドハンティングされたんだって自慢気だったけど、風のうわさでは、情報搾り取られたら給料激減で閑職に追いやられたとか。
まぁ、私も考えが古いのかもしれないけど、でも仁義礼智信を軽んじる人間を信じる気にはならない。だから、恩に報いたいというウルさんは信用できる人間だと思う。それが分かってうれしいのだ。
吾妻さんに頼めば、ウルさんを私の御守りとしてずっと傍に付けてくれるかもしれない。そして、ウルさんは私の頼みをいろいろと聞いてくれるかもしれない。
だけどね、やっぱり与えられるだけというのは気が引ける。予想通りヘッドハンティングに失敗しちゃったから、あれだ。
「ウルさんには、派遣社員になってもらおうと思います」