妻、灯(あかり)
娘の幼馴染を見ると、たまに胸がざわつく。
彼の母親が、私の元夫の浮気相手だったからだ。平静を保っていられるのは、たぶん航太郎君がちっとも彼女に似ていないから。そっくりな見た目をしていたら、いくら鈍い私でも彼の目を見て話す事は出来ないだろう。
** ** **
小学校に上がった娘が児童クラブに通うのを嫌がったため、私は通いの家政婦さんを再びお願いする事にした。教師だったと言うその女性はその時六十代前半、子供の帰宅時間に合わせて出勤し夕飯を提供するようお願いした。私が帰宅するとバトンタッチ、彼女は自分の家へと帰って行く。それほど遠い所に住んでいる訳では無いが、遅くなった日はタクシーを頼んで家まで帰っていただく事になっていた。
彼女は私が雇う家政婦としては二人目になる。離婚後初めて家政婦として来てくれた女性も良い人だったが、娘が小学校に上がるタイミングで旦那さんが脳梗塞で倒れてしまった。代わりにと紹介してくれたのが今の持田さんだ。ふくよかな姿勢の良い素敵な女性で、満も直ぐに彼女に懐いた。以来ずっと家政婦兼キッズシッターとしてこちらに通っていただいているのだが、満が中学生になってからは夕食準備のみの依頼に契約を変更した。年を取って以前より疲れ易くなった彼女を長時間引き留めるのは適当ではない。ただし仕事を続けたい気持ちはあるようなので、勤務時間を短くすることで手を打った。
ついでに満には持田さんの作業を手伝うよう厳命している。いずれ独り立ちする時までに料理くらい出来るようになって貰いたいからだ。結果、なかなか手際も良くなって休日に私と餃子づくりが出来るくらいまで成長した。
航太郎君が私の家に出入りしている事について、あちらの家に伝えたほうが良いのかどうか迷った時期がある。
私の印象としては航太郎君はいつの間にか家に居た、と言う感じだった。最初は『お友達が遊びに来ていました』と持田さんから報告を受けた。その頃私は、これまで通販のみで販売していた商品を店舗で対面販売出来るよう、アンテナ店を開店する準備に没頭していた。それも主だった都市に同時展開する計画だ。当然多忙を極めており、頭の中はいつもそれが大半を占めていた。だからその『友達』が航太郎君だと―――あの『彼女』の息子だと認識するのが随分遅れてしまった。そうして気付いた頃にはすっかり彼は私の家に、満の生活に根付いてしまっていたのだ。
満とゲームをして笑い転げ、くっついてソファに座りテレビを眺めている。ある日まるでここが自分の家であるかのように寛いでいる男の子を見つけて、思わず目が点になってしまった。もともと幼稚園にはほとんど関わらずに過ごして来た私だ。航太郎君の顔も覚えていなければ名前も記憶にない。一度くらいは耳にした事もあったろうが、あまりのショックに覚えている事を脳が拒否してしまったのかも、とも思う。
「おじゃましてます! 」
と明るく笑顔を振りまく美少年に曖昧な笑顔を返しながら『あの子は誰だろう? 』と首を傾げつつ、忘れ物を手に取り急いで職場へ戻った。その子の名前を確認しようと思い立ったのは、それから暫く後。そしてその子があの『彼女』の息子であると認識したのは―――もっと後の話だ。
『どうしようか』と悩むそばから、沈鬱な気分が湧き上がってくる。時が経ったと言っても正直『彼女』に関わる事を思い出すのは苦痛でしかない。ともすると眩暈と吐き気で食欲を失くしてしまうくらいの落ち込みにウンザリしてしまう。そうして気が進まない問題を先送りにしている内に……航太郎君の母親は、ある日家を出て行ってしまった。
それから航太郎君はパタリと私の家を訪れなくなった。
持田さんからそのように告げられて、私はホッとせざるを得ない。何と彼の両親に切り出そう……と考える度に頭痛に悩まされた。『彼女』に自分から関わるなんて、絶対にイヤ! と本能が、子供のままの私が叫ぶ。けれども私は現実では満の保護者で―――航太郎君は親の保護下にある子供なのだ。だから私は満の親として、航太郎君の親である彼女、若しくは彼女の夫ときちんと話をしなければならない。
でもどんな風に切り出すの? 『夫の不倫相手の子供を私の家に出入りさせないで下さい! 』って? でも航太郎君には全く罪は無いのだ。
彼女は『あれ』以来私に関わって来る事は無くなった。だから忌まわしい体験を頭の隅に追いやる事が出来、私は普通に暮らせるようになったのだ。だけどこんな風に思い出す事になるなんて……。
『彼女』と話すのは嫌だった。だけど彼女の夫である航太郎君の父親も、あまり話したいと思えるような相手ではない。慇懃で丁寧な口調や態度と―――裏腹な冷たい視線。女を見下す男特有の、背筋が凍るような威圧感を発している。仕事でならこう言う相手と相対するのも仕方がない、諦めも付く。きっと私も会社の利益を第一に上手くやれると思う。けれどもプライベートの時間には決して自ら関わりたくないタイプだ。封じ込めた筈の遠い記憶、その瘡蓋を剥がすかのような体験をせねばならないからだ。
そんな疲弊の予感しかない対決から逃げ回り、仕事を優先している内に、航太郎君は私の家のベルを押す事さえしなくなった。
航太郎君自身は……とても良い子だと思う。満と正反対の、明るい快活な子供だった。何より心に残るのは満が彼に気を許している、と言うことだ。少し引っ込み思案で内弁慶の満が、他人に対してあれほど気ままに振る舞っているのは極めて珍しい。幼稚園の発表会でも、端っこでボンヤリしていた。そう言えばそんな満の顔を覗き込み、話しかけている男の子がいたような気がする。もしかするとあれが航太郎君だったのだろうか?
小学校の授業参観でも手を上げた場面を見たことが無い。当てられても小さい声で簡潔に答えるだけ。後はずっと窓の外を眺めていた。せっかく時間をやりくりして観に行ったのに、この子はこんな感じでクラスでやって行けるのかと終始、ハラハラするばかりだった。
そんな満が私や持田さんに接するように、大きな声で笑いながら話している。しかも私に対するよりずっと遠慮ない遣り取りをしていたのだ。きっと航太郎君は満の幼馴染であると同時に、唯一と言って良いほどの親しい友達だったに違いない。それこそ一人っ子同士の二人は、互いを兄妹か何かのように思っていた事だろう。
いつも一緒にいた航太郎君が遊びに来なくなって以来、満が微妙に元気を無くしている。そう持田さんから助言されて、とうとう私は決断した。「満から航太郎君にさ『ウチに遊びに来て』って誘ってみたら? 」と提案する事にしたのだ。今までは彼女が誘うまでも無く、航太郎君は自然と我が家に通って来ていたのだ。棟は違うものの、彼の家は私の家と同じマンションにあるのだから。
彼はまるで自分の家に帰って来るかのように『ただいま』と持田さんに笑顔を見せ、居間のソファでくつろいでいたそうだ。……持田さんの言葉によれば、だけれども。持田さんは彼を大層気に入っていて、孫のように気に掛けている。彼女はかつての私達のシガラミの事など知らないのだから当然だろう。
けれども今は少し疑問に思う。彼が寛いで見せること、それは一種のポーズだったのかもしれない。彼はいつも時間になるときっちり自分の家に戻って行くそうだ。航太郎君はどんなに疲れて見える時でも、私の家でうっかり眠ってしまうような事は決して無かったらしい。
ひょっとすると母親に咎められるのが嫌だったのかもしれない。彼は見るからに利発で、とても賢い子供だった。航太郎君から彼の両親に関する非難や愚痴が語られる事は無かったらしいが、彼が自分の家に居づらかったのは今では想像に難くない。父親は家にあまり寄り付かず、母親は、あの時私達は知らなかったことだが他の男性と逢瀬を重ねていて不在がちだった。その間一人で置き去りにされていた彼は家を抜け出し、満の元を訪れていたのだろう。
『両親が離婚する事になりました。母親が男の人の所に行ってしまったので』
珍しく私が休みの日に遊びに来ていた航太郎君と顔を合わせた。帰りがけ、まるで事務連絡のように淡々と語る彼を目にして、私は何も言ってあげる事が出来なかった。その母親を責める事も、航太郎君の窮状に同情する言葉を発する事さえ。
そしていよいよ言い出せなくなった。彼女が私の夫と不倫をしていたと言う事も、私と夫が別れた切っ掛けになったのは彼女なのだと言う事も。
そう、口が裂けても彼には伝えては行けない。航太郎君と満は、ただの幼馴染だ。兄妹のように特別に仲が良い―――ただそれだけの関係なのだ。それ以外の事は、あくまで大人側の事情でしかない。
航太郎君は十分傷ついている。彼がこれ以上、余計に苦しむ必要はないのだ。その気持ちは私にも痛いほど分かる。私も子供の頃、親との関係に悩む一人の子供だったから。
航太郎君は言わば、私と満を被害者とするならば『加害者の息子』と言えるかもしれない。けれども彼は同時に私の元夫、悠馬の『被害者』でもあるのだ。もちろん直接彼の母を奪ったのは悠馬ではない、別の男性だ。だけど悠馬の事が切っ掛けになったような気がする。彼女―――航太郎君の母親の、悠馬に対する執着は私には異常とも思えるものだったから。
両親の離婚を口にしたその日以降、航太郎君は私の家に通って来る事は無くなった。あの時、彼が淡々とそれを告白した時―――シン……と部屋中の時間が止まってしまった。いつも明るい表情を絶やさない彼も一瞬顔を曇らせる。その直後、何も無かったように学校の話題を持ち出した。明るい声に満がホッと緊張を緩めたのを見て、彼もホッとしていたように見えた。彼はもしかしてとても気を使う人なのかもしれない、とその時思い至る。何も気にしていないような振りを、敢えてしているのではないだろうか? と。
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夫の不倫現場と言うショッキングな場所に居合わせた私はストレスでボロボロになり、暫く入院する事になってしまった。満が彼に懐いているのはそのためだ。石堂さんは見た目は少し怖いけれど誠実で気の良い人間だ。結局入院中どころか娘が小学校に上がるまで彼には満の送り迎えを手伝って貰うことになってしまった。『会社の為にも自分を頼って欲しい』と言われ申し訳ない気持ちで一杯だったが、慣れない育児と家事を仕事と並行してどう回して行くか、外注先の検討を含め試行錯誤の連続で私はパンク寸前だった。
彼がそう申し出てくれたお陰で、私達は本当に救われた。これには母娘ともども、今でも感謝してもし切れない。
夫と離れて心細さに夜泣きをし夜尿症をぶり返した満が、彼と遊んだ日は元気に笑顔を見せてぐっすり眠ってくれた。あの頃の私達にとって彼は救いの神のような存在だった。独身男性に育児のような真似をさせてしまって非常に申し訳なく思い、お給料を別に支払わせて欲しいと提案したら―――どなられてしまった。
あの時は本当に恐ろしかった……男らしい迫力のある見た目とは裏腹に、女性の私にもキチンと線を引いて部下として丁寧に接してくれる人だったから、尚更だ。
『仕事で返して下さい。俺はこの会社に掛けているんだ。転職したのは貴女が素晴らしい実業家だと、自分の判断を信じたからだ。金で解決できると思わないでください。少なくとも今の純利益を十倍にすること、それ以外で俺の努力に報いる事が出来るなんてフザケた考えは捨ててください』とセツセツと訴えられて、頭が冷えた。
そして今度こそ思い知る。もう私を陰になり日向になり助けてくれた夫―――悠馬はいないのだ。仕事が軌道に乗り始める前の辛い時期、彼が私にしてくれた事をこの時久し振りに思い出した。
力を入れて開発した新商品の売り上げが伸びず落ち込んでいた時『疲れたのかい? 』と温かいミルクを差し出してくれた。取引先の嫌味なオジサンに暴言を吐かれた上に、名刺をこれ見よがしにゴミ箱に捨てられた時は悔しかった。だけど帰った私の意気消沈した姿を目にした彼は私をベッドに連れて行き、掛け布団にくるんで柔らかく抱き締めてくれた。小さな子供にするように背中をトントン叩いてくれて……そしたらわんわん泣けて来て。思いっきり泣いたせいか、次の日はとてもスッキリしていた。結婚する前、付き合っていた頃にもそんな事があった。私の纏まらない語りに彼が根気よく耳を傾けてくれたから―――今の私がある。彼は私のオアシスで……いつも私の心が求める行き先を察し、未来を照らし出してくれる羅針盤だったのだ。
私はいつの間にか、彼に対する感謝の気持ちを忘れてしまったのだろうか。いや、感謝していたし愛していた。だけど忙しさにかまけて、それを表現する事を怠っていたのだろう。更に言うと、やっぱり無意識に増長していたのかもしれない。会社が大きくなるに連れ、やりがいも手ごたえも深くなって行く。ずっとイメージしていたような事が現実になりつつあり、密かな努力が報われようとしていた。だからもう私の名刺を目の前でゴミ箱に捨てる人間なんてほとんどいない。腹の中で何と思おうと、勢いのある注目度の高い会社の代表を足蹴にするような経営者は存在意義を問われるからだ。自社の利用に能う相手かどうか、それだけが彼等の態度を決める基準となる実力の世界。性別も年齢も本当は関係ない。そんな損得ばかりの世界観に夢中になっている内に―――無償の愛情を当たり前のように享受して顧みないような事をする、そんな高慢な人間になってしまったのかもしれない。それとは気付かぬ内に。
例えば満の誕生日の日のこと。何度も確認されたし、大丈夫だと請け負ったのに―――急に入った接待を受けてしまった。連絡を怠ったのは完全に舞い上がっていたからだ。ずっと取引したいと願っていた相手とアポが取れた。嬉しくてすっかり悠馬との約束を忘れてしまった。次の日悠馬に窘められて……かなり落ち込んだ。彼がそんな風に強い口調で強張った表情をすることは、滅多に無い事だったのだ。だからかもしれない、彼の機嫌を損ねた事が怖くなって―――はしゃいで仕事の成果を持ち出し、強引に空気を変えようとしてしまった。ずっと私をサポートしてくれた悠馬も、それを喜んでくれると期待して。罪悪感の裏返し、焦りもあったのだと思う。だけどあの時はもっと、彼の気持ちに寄りそうべきだった。
そう、今なら分かる。私の無神経な態度が少しずつ降り積もって、悠馬の愛情を削り取って行ったのだろう。まるで打ち寄せる波に徐々に侵食されるように、彼の私に対する気持ちが摩耗してしまったのだ。
だから悠馬は他の女性に安らぎを求めた。そう言う事なのかもしれない。だからこうして、私は彼を失うに至ったのだ。
プライベートの私を、情けなくて忘れっぽい素の私を支えてくれた彼はもういない。だから私は今まで通りの自分を、捨てなければならない。今まで悠馬に支えて貰うことで覆い隠していた弱い自分、情けない自分を……そんな弱みを曝け出して他人の手を借りてでも、立ち上がらなきゃならない。それが仕事を支えてくれる部下の為でもあり、満のためでもあり―――自分のためなのだ。
それまで私は心の奥底で、悠馬を責めていたのだと思う。私が今大変なのは悠馬の所為だ。悠馬が私を裏切ったから―――だからこんなに私は苦労しているのだ、と。なのに別れる時、悠馬を強く責める事が出来なかった。格好付けて『私も悪かったのだ』と心にも蓋をしてしまった。だって悠馬にこれ以上―――嫌われたく無かったのだ。
私が潰れるのは、悠馬の所為。その所為で満が悲しめば、それも悠馬の所為。私が倒れて会社が上手く行かなくなっても―――浮気をして、その結果私を苦しめるに至った悠馬の所為だと。
『そんな自分勝手に相手ばかり責めるようなことなど、考えていない』と自分を騙しながら無理を重ねて色んな事を背負い込み、自分を痛めつける事で彼に無意識に復讐していたのかもしれない。優しい、優し過ぎる彼は……きっと私が潰れるのを知れば心を痛めるに違いない。そう見越した上で。でも決して許してなどやらないのだと、一方では心に決めて。
だけど石堂さんに初めて怒鳴られて、私の中の汚い狡い部分に思い至ってしまった―――だから恨むのは、もう止めにしなければ。
いや、恨むのは仕方が無い。だってとても悲しかった。だって私は悠馬が好きだったし、悠馬が必要だったのだ。それを失うのは―――身を切られるように酷く辛いことだった。それをまず、認めよう。
好きな人に捨てられてボロボロになった負け犬の私。だけど、それを恨んでばかりいないでもう一度立ち上がらなければならない。そうでなければ、これまで悠馬と満と過ごした大事な温かい時間も、全て無駄にしてしまうから。夫と娘、そして家族との生活を犠牲にしてまで賭けた仕事を失ってしまうから。
こんな私でも付いて行く、と言ってくれる人がいる。彼等の生活も期待も全部背負い込んで……改めて覚悟を固めないと行けない。
悠馬と離婚後体調を崩した私は、彼との連絡を絶っていた。だけど満の為にこれでは良くないと思い立ち、面会の取り決めを行うため彼と連絡を取る事を決意した。顔を合わせずに済む、メールのみの作業だ。
しかしそれさえも石堂さんに心配されてしまい、代行すると言い張られた。何とかそれを断って、激しい動悸に作業を邪魔されつつ、震える指でキーボードを打つ。ただでさえ離婚のゴタゴタの時は公私ともに迷惑を掛けたのだ。これくらいちゃんとやらなきゃ、上司として単純に情けないと思う。
でも情けない私も、私なのだ。だから彼には心からの感謝を述べる事にした。これ以上自分の気持ちにばかり目を向けて―――大事な人を失いたくない。
「ありがとう、石堂さん」
だから精一杯の笑顔を向けて見せたのに、彼は苦虫を潰したような顔をしてソッポを向いてしまった。きっとまだ上手に笑えていないのかもしれない。強張った笑顔しか作れないなんて『美容品会社の広告塔』失格だ。気まずい沈黙の中、手持無沙汰に私は頬の筋肉は強めに押してほぐしてみた。
大丈夫。いつかきっと、ちゃんと笑えるようになる。
心の中でそう呟いた。たぶん悠馬も、そう願ってくれるはず。
** ** **
『あの時』のことは―――不思議な事に、離婚後暫く記憶が曖昧で思い出せない時期があった。たぶん体が思い出す事を拒否していたのかもしれない。
ホテルでの偶然の鉢合わせの後暫くして、私は会議中に意識を失い緊急入院する事になった。そこに駆け付けた悠馬と話し合った結果、急遽離婚手続きを行う事になる。私が退院するまでに、悠馬は引っ越し先を手配して出て行く事になった。
その事に関して悠馬と主に遣り取りしていたのは石堂さんだ。何故なら私が、彼とまともに話す事が出来なくなってしまったからだ。悠馬の存在が目に入るだけで情緒不安定に陥り涙が止まらなくなる。あまつさえ触られると体が震えて蕁麻疹が出た。つまり私は悠馬に関する事について、まるで使い物にならなくなってしまったのだ。
むしろ浮気現場でバッタリ会った時は落ち着いていたくらいなのに。その後家に帰ってから、彼がトツトツと語る懺悔を聞いて―――『私も悪かったのだ』と真実思い、『これからやり直そう』と、そう答えた。改めて二人で家庭を守って行こう、一緒にやって行こうと決意を新たにしたのだ。
だから時間差で体が悠馬を拒否してしまった時は、自分のことなのに本当に驚いた。まるで夢の中にいるみたいに現実感がない。そのような惨状の私を目にして、悠馬は私から離れる事を自ら決めたらしい。全てサインされた離婚届を目にした時……ホッとしたのを覚えている。もうあのような苦しい気持ちからは、解放されるのだと自分勝手にも安堵したのだ。
満には父親を奪うような真似をしてしまって申し訳ない事をしたと思う。その罪悪感は、今でも心の中に重しのように沈んでいる。けれどもたぶん、その時はそれ以外の選択肢を選ぶ余裕は私には無かったのだろう。
退院後暫く経ったある日のこと、溜まった仕事を片付けるため仕事場に残り、幼稚園の時間外保育に預けた満を迎えに行こうと急いでいた帰り道、つまり目が回るような忙しさの最中、『彼女』―――航太郎君の母親は私の目の前に再び現れた。
これはこの歓迎できない再会のゴタゴタの後に、石堂さんから漸く語られた事なのだが、入院中の私の代わりに満の送り迎えを買って出てくれた彼に、彼女は悠馬の行先を尋ねて来たそうだ。彼が返答をせずに無視すると、なんと今度は私の家まで直接押しかけて来たらしい。しかも航太郎君を連れて。彼はその行動に異常性を感じて、彼女に警告を与えた。『これ以上付き纏うつもりなら、然るべき手段を取らせてもらう』と。
そこまで執着する彼女の気持ちは到底理解できるのもでは無いが、もっと理解できないのはそこに航太郎君を連れて来た意図だ。彼女はそこに悠馬がいると思っていたのだろうか? そして悠馬を懐柔するための道具として航太郎君を使おうとしていたのだろうか。
悠馬はあの偶然の鉢合わせの後、直ぐに彼女に別れを切り出したと言う。彼女も了承したのだと聞いていたが―――本心では納得していなかったようだ。彼女が石堂さんに訴えた所によると、どうやら何度も悠馬に連絡を取ろうとしたらしい。けれども悠馬の決意は固く、彼女への返事はついに無かった。そこでとうとう切羽詰まった彼女は私を会社の前で捕まえて、悠馬の行き先を突きとめようとしたらしい。
彼女を目にしただけでフラッシュバックのように記憶がぶり返し私の体は震え、強烈な頭痛と眩暈に襲われる。迫って来た彼女に手首を掴まれた時、私の体は限界を超えてしまい、会社の前で再び倒れてしまった。
ここまでしつこく付き纏われては、仕事に支障が出かねない。仕方なく石堂さんと相談して、弁護士をお願いする事になった。夫の悠馬も悪かったのだからと思い、これまで慰謝料も請求せずにいた。が、悠馬はもう私の夫では無い。私に今後も付き纏うならば不貞行為に加え付き纏いに対する慰謝料を請求するとし、加えてストーカー規制法に基づいても訴える用意があると警告する文章を作成し送付した。その旨を彼女の夫にも、文章の写しを添えて知らせる。不倫の事実が立証されれば、民法により問答無用で慰謝料を請求する事ができる。
当然先方も同様の権利を有している。彼女の夫は悠馬を訴え、慰謝料を請求する事が出来るのだ。それは悠馬も覚悟していた事だったから、異存はないと思う。が、念のため事前に『もしかして彼女の夫からそちらに連絡が行くかもしれない』とメールで確認した。すると彼は『そんな筋合いではないかもしれないが』と前置きした上で私の身を心配している、自分が出る事で相手を治める事が出来るなら直接そちらに出向く、とまで返答してくれた。しかしその提案には丁寧に断りを入れる。あの尋常じゃない様子の彼女の前に悠馬が出て行ったら、泥沼が再燃してしまうような気がしたからだ。
『彼女』の夫、つまり航太郎君の父親の行動は意外に早かった。すぐさま謝罪と慰謝料の提供を申し出て来たので、むしろ驚いてしまう。『こちらも被害者だ! 』と怒鳴り込まれる事も覚悟していたから。
指定されたホテルの小さな会議室で『彼女』の夫と初めて対面した。『今後こちらに関わらないと約束してくれるなら、謝罪も慰謝料も必要ありません』と、勿論どちらも断った。相手もその意を酌んで快く対応してくれた。
結果として彼女の付き纏いは止み、ホッと胸を撫で下ろす事となる。しかし結局彼女は次の不倫相手を見つけ数年後、航太郎君を置いて家を出てしまった。
弁護士を雇うに当たって事前に彼女の背景を確認した方が良い、と言う事になった。悠馬と直接話の出来ない私に代わり、これも石堂さんが嫌な役目を買って出てくれる事になった。本当に申し訳ないが、遠慮をしても重ねて迷惑を掛けるだけだ。頭を下げてお願いする事にする。
遠回しに石堂さんが説明してくれた内容から、彼女が不倫に走った原因は不在がちな夫の節操無い浮気癖への意趣返しと言う意味もあるのだと知った。
悠馬は彼女の愚痴を黙って聞いてあげ、きっと『貴女は悪くない』と励ましてあげたのだろう。彼女の夫のような男は仕事のできる経営者に偶に見られるタイプだと思う。リーダーとしては非情な決断も出来る頼れる人間、けれども自分の庇護下にある弱者の心情に寄りそう想像力には欠けている。
そういった強引な男性にリードされることに安心感を抱く女性は、確かに存在する。最初のうち、彼女は夫と上手くやっていたかもしれない。けれども自分に興味を持たなくなった夫を待つのに疲れて、偶然現れた優しい存在に惹かれてしまった。夫が浮気をするなら自分も良いだろうと考えた。―――良心的に考えれば、こういう事だろうか。どう言っても彼女に対する違和感と気味悪さはぬぐい切れないが。
けれども思う。仕事にかまけて家庭を蔑にした航太郎君の父親と、私の何が違うのだろう? 浮気こそしていないけれど―――誓ってわざとそうするつもりでは無かったけれども、彼の愛情の上に胡坐をかいて、結果軽んじてしまった事実は幾ら後悔しようとも消える事は決していない。
胸底に沈殿した悲しみが消える事は無いが、時間は熱病のような怒りを徐々に薄めてくれる。厚く降り積もった怒りが薄れて行くにつれ、覆い隠されていた、必死に目を逸らしていた私の中の真実が浮き彫りになる。自分自身の到らなさが、傲慢さが―――ゆっくりと浮上してきて、ちくちくと私を苛み始めるのだ。
悠馬が満を置いて行ってくれなかったらと思うと―――ぞっとした。
満がいたから無理にでも笑って過ごしたし、仕事も調整して子供や家庭の事を気に掛けるようになった。やがて私はゆっくりギアを落とすように、自分のペースを取り戻す。そうして初めて、家庭でままならない想いを抱えながら鬱屈してしまった彼の心の変化に思い至る事が出来たのだ。
『仕事を辞めて主夫になる』と悠馬が言ってくれてからずっと『彼がいるから、私は仕事に精を出せる』と感謝しつつも申し訳なく思っていた。だが―――それだけだった。
大手企業で将来を嘱望されていた彼が、家庭と言う仕事場で謀殺され狼狽え不安を抱いていたこと、戸惑わずにいられなかった気持ちを、振り返り察する事ができなかった。
それは、急激に大きくなり過ぎた会社に翻弄され浮足立っていた私の、戸惑いと焦りと同じものだった。私は家庭を黙殺し、彼は悩みを共有できる隣人に癒しと男としての自尊心の回復を求めた。
あの頃残業に続く残業と、海千山千の妖怪みたいな企業家との応酬に夢中になってのめり込むあまり疲れ果てた私は、彼とのコミュニケーションを怠たるようになっていた。夫婦の実際の触れ合いと言う意味だけではない、言葉を……心を交わす事も、些細な出来事を打ち明けあう時間さえも無駄なものとして削ってしまっていた。それは一度だけでは無い。何度も何度も、私は彼との時間を切り捨てることを繰り返したのだ。
彼がそういった時間を、私の邪魔にならない範囲で産みだそうと努力していたのを、私は知っていた。
―――知っていたのに。
聞き流して。挙句、結果として無視していた。人付き合い、コミュニケーションの初歩だ。相手の話を聞かなければ、相手が私の話に耳を傾ける事は無い。
彼は私に語りかけるのを諦めて、他の人と会話する事を選んだのだ。
そうさせたのは、私だった。ひょっとすると……振り返るのも考えるのも辛いことだが、私は心の底でそれを、望んでいたのではないだろうか……?
まさか男女の仲に発展するとまでは考えていなかったけれども、些末な事については誰か違う、暇な話し相手と話してほしい……そう、考えていなかっただろうか? その声が、彼に聞こえたのかもしれない。彼は、私の希望通り―――私を煩わせずに、他の女性と対話する事を選んだのだ。
本当はあの偶然の鉢合わせより少し前に、石堂さんから忠告を受けていた。彼は、悠馬の不貞の可能性について指摘したのだ。私はその時『そんな筈は無い』と……『彼を信じている』と一笑に付したのだ。
笑ったのは侮ったのではない。怖かったからだ。
彼を失う事を想像しただけで、気が触れそうになった。彼が私以外の女に優しくして、微笑んで、いたわるように触れる―――どんなふうにその隣に寄り添うのか想像しただけで、心の中に荒れ狂う嵐が舞い起こった。だから、思考を停止した。
そんな筈はない。
在り得ない、と。
今思うとかなり確信を持った上での助言だったのだろう。もっと詳しい事情も、彼は把握していたかもしれない。けれども石堂さんは、私が勢いで走っているだけだと知っていた。小さな小石に躓いたくらいで全てを投げ出してしまうほど、本当は弱い人間だという事を。きっと進言をするかどうかも、相当迷ったことだろう。私が崩れてしまえば彼が覚悟を決めて乗り移った、走り出したばかりのこの列車がレールから転げ落ちてしまう可能性も無いとは言えないのだ。
だから、ホテルであの二人と鉢合わせした時『やっぱり』と、思った。どうしてか、その瞬間、怒りは湧いてこなかった。
『ああ、やっぱりそうだったんだ』―――ただ、そう思った。
涙は出て来なかった。仕事相手とはさっき別れたばかり。取り乱せば見咎められて弱みを晒してしまうかもしれない。逃げ出した悠馬の後姿を目で追いながら、置いてきぼりにされた女性が誇らし気に自己紹介を始めるのを、私は適当な相槌を打ちつつ呆然と聞き流していた。
** ** **
今日は月二回と定められた満と悠馬の面会の日。満は昨日から悠馬の家に泊りがけで遊びに行っている。彼はいつも通りこのマンションのエントランスに車を寄せて、車から降りた満に「またな」と柔らかく笑うのだろう。
そろそろ時間だ。
私はエントランスに向いた窓から、そっと外を伺う。懐かしい人の気配にそっと耳をそば立てる。
どうしても根が真面目な人だから……彼はもう自由になったと言うのに再婚もせずに独り身を貫いている。それはたぶん、思春期に差し掛かったばかりの娘のためなのだと思う。
けれども私達の娘は、間もなくこの家を巣立つだろう。そうして彼は、満につけているリードを手放す事になる。その時悠馬は笑うだろうか? それとも泣くだろうか? でもきっと、その時漸く彼を捕える温かい義務から、自由になることができるのだと思う。
どうか、今度は間違えないで。
私のように大きな流れに呑み込まれて狼狽え、あなたに瑕を与えるような女では無く、あなたに相応しい、あなたを大切にする女性を選んでほしい。心から、そう願う。
そう思えるようになった事が、今は例えようも無く嬉しいのだ。
【理想の夫・完】
暗いお話にも関わらず最後までお読みいただいた方々には感謝しかありません。
誠にありがとうございました。