九
「姫様、どうなさいました?」
ぼんやりと右手の甲を見つめていたリランを不審に思ったのか、侍女が訝しげに声をかけた。
「べ、別になんでもないわ」
ほんのりと顔を赤らめ、首を振ったリランは、慌てて手を後ろにやった。
(もうっ、どうしてユーシックのことを思い出すのよ)
まるで忠犬のようにそばに離れないかと思ったら、猫のように気まぐれに姿を消したり……、なんだかんだ振り回されている気がする。
それが嫌に思えないから困っているのだ。
「そういえば、よろしいのですか?」
「な、なにが?」
どきりとした。
思わず、声が裏返る。
「ドゥオラン様の勇姿を見に行かれるのでは? そのようにめかし込んで」
「わ、わたしはいつも完璧よ! きょ、今日が特別というわけでもないわ」
リランは、照れた顔を隠すようにそっぽを向いた。
それでも、念入りに鏡の前で髪は乱れていないか、化粧の塗り残しはないかと細かく確認した。
太陽の下では、血色の色が悪く感じるかもと頬紅の色を強める。
熟した木の実のように真っ赤な色をした頬と唇を見て、満足げに微笑んだ。
でも、今日はなにかが足りない気がする。
(別にユーシックのためではないわ。ドゥオラン殿の悲しい顔を見ないために、わたしは勝利の女神にならないと)
左目の下に青玉を涙型に加工したものを数個貼り付けた。
うん、いい感じ。
花びらのように広がったそれは、リランの美しい顔立ちを引き立てるかのようだった。
「ひ、姫様……? まさか、本当にそのようなお姿で行かれるおつもりですか?」
黙って見守っていた侍女の顔が引きつっていた。
過剰な装いなのはいつものことだったが、今日はさらに酷かった。
リランが髪を七色に染めてしまったときのように、卒倒しそうな顔をしていた。
「当たり前でしょ。練習試合とはいえ、試合を見届けるために国内から有力貴族が集まっているのよ。この国の姫であるわたしが、正装をしないでどうするというの。主役の騎士より目立ってはいけないと心得ているつもりだけれど、わたしは地味な装いでもみんなの視線を釘付けにしてしまうのよね。だったら隠さずに堂々としていたほうが、混乱も少なくてすむわ」
今日は、髪型を扇状にしてみた。ガラス玉のついた飾りをいくつも髪から下げると、歩くたびにゆらゆらと揺れた。太陽の光を受ければ、それは華やかにきらめくのだ。
ドレスもお気に入りのものを選んだ。
首の回りに大きな襟巻き状の襞をつけ、袖にたっぷりとレースをあしらった可愛らしいものだ。リボンではなく、腰に真鍮の鈴を五個もつけたのがいい。動くとリーンと軽やかな音色を奏でる。
これを着ていると、すぐに自分に気づいてくれるし、なにより注目度が高い。
嫌な顔で舌打ちをされたこともあったが、きっと彼らは、周囲の視線をリランのほうに奪われて嫉妬していたのだろう。
小難しい顔で話し合っていても、この天界で奏でるような清らかな音が聞こえれば、口を閉ざさずにはいられないのだから。
「……ええ、まあ、もう諦めましたけれどね。ああ、陛下の烈火のごとくお怒りになるお姿が目に浮かぶようですわ」
「なにをグチグチと言っているの。そろそろ出発するわよ。ふふん、王宮の花は、最後に登場しないとね」
鼻歌まじりに部屋を後にしたリランの後ろを侍女が冴えない顔でついていった。
「うちの姫様は、どのような思考回路をなさっているのやら……。まったく、常識というものを母君のお腹の中に忘れてきてしまったのかしら……」
リランに仕えて長い侍女は、小じわの増えた目尻に手を当てると深々とため息を吐いたのだった。
すでに、準決勝の試合が始まっていたようだ。
ユーシックは無事に勝ち進んだらしく、決勝戦に進出したという。
リランが観覧席に姿を現すと、熱気に包まれていた場内が一瞬静まった。
「奇姫だ……」
「見てみろよ、あの格好」
「よくもあんな姿で顔を出せるものですわね。わたくしでしたら、恥ずかしくて外も歩けませんわ」
密やかな話し声がしだいに大きくなる。
好意的ではない内容に、しかしリランの顔は明るかった。
「聞こえていて? わたしを賛美する声を。ご覧なさい、試合には目もくれず、わたしに注目する人たちを」
得意げに侍女に語ったが、侍女は覇気なく「はぁ」と同意しただけだった。なにかを諦めたように遠くを見つめていた。
「……っんの、お馬鹿!」
「あら、セル兄様」
突然、腕を掴まれたリランは、怒るセルナントに向かって呑気な声を返した。
騒ぎに気づいて慌てて駆けつけてきたのだろうか、額にうっすらと汗を掻いていた。
けれど、そんな姿もまた絵になる次兄である。
年頃の令嬢は、扇で顔を隠しながらも、隙間からちらちらと熱い視線を送っていた。
向けられる好意的な眼差しを一切無視したセルナントは、チッと舌打ちした。彼が、悪意ある会話を交わしている貴族たちを鋭い目つきで睥睨すると、とたんざわめきが小さくなった。
王位継承権第二位であるオルヴァント公相手では、分が悪いと悟ったのだろう。
「セル兄様ったら、怖いお顔ですわ」
「お前は……まったく、毒気を抜かれるよ。ほんとにね」
セルナントは脱力したように、はぁぁっとため息を吐いた。
「お前の耳を一回、検査してみたいね。いや、思考回路からかな」
ぶつぶつと不穏な言葉を呟いたセルナントは、王族の専用席に行くよ、とリランをこの場から連れ出した。
「特等席があるなら早くおっしゃって」
「来るなんか一言も言わなかったでしょ」
「しょうがないじゃない。ユーシックが突然参戦するんだもの」
リランがそう言うと、セルナントの力が強まった。
「いたっ。兄様、強すぎです。わたしの繊細な腕にアザがついたらどうするの。もうっ、兄様は馬鹿力なんですから」
「ふんっ、ボクや兄上の試合は一度も観戦しなかったくせに、提督の息子のはするわけ」
不機嫌そうに言われたリランは、眉を寄せた。
「来るなとおっしゃったのは兄様方のほうじゃない」
もっとも、血なまぐさいのが得意ではないリランは、誘われても観に行かなかったかもしれないが。
「それは……っ」
正論を突きつけられぐっと言葉を詰まらせたセルナントは、苛立ったように空いているほうの手で髪をかき上げた。
「ああ、もう、お前と喋ると調子が狂うよ」
「それは責任転嫁というものよ、兄様」
「だいたい、その鈴の音はなに? 耳障りなんだけど。むしり取るよ」
「音楽性がないのね、兄様ったら。この音色は、勝利の鐘よ。今日の勝者の頭上に鳴り響くのよ」
「我が妹ながら、お前がほんと理解できないよ」
「無理に理解してくださらなくて結構ですわ」
リランは冷たく返した。
「ほんとお前は、ティナと違って可愛げがないんだから。ティナみたいに可愛らしく甘えてくるとかできないの?」
リランの瞳が傷ついたように揺れたが、前を行くセルナントが気づくことはなかった。




