二
「はぁ~……」
いつになく、憂鬱な顔でため息を零したリランに、お茶の用意をしていた侍女が顔を上げた。年に見合った落ち着いた顔に、訝しげな色が浮かぶ。
「どうなさいました?」
窓の縁に腰掛け、手入れの行き届いた庭園を物憂げに見下ろしていたリランが、振り返った。
「わたしは、かわいいわ。それこそ、大陸一」
「は、はぁ」
引きつった顔の侍女が同意を示すと、ほんの少しだけリランの顔が明るくなった。
「そうでしょ! こんなにかわいいわたしを独り占めしようとしたら、きっと殿方たちの間で醜い戦争が起こってしまうわ。でも、兄様がおっしゃった通り、わたしもそろそろ専属騎士を持つ年頃。わたしは、辛い決断を下さないといけないのよね」
貴族の姫君ならば、成人を迎える前に専属騎士を有する決まりがある。
いつからはじまったのか、それは伝統のように今に続いていた。
専属騎士というのは、その名の通り、姫君の専属の騎士である。いついかなるときにも主人から離れず、付き従うその姿は、恋人や家族よりも強い絆で結ばれているという。
適齢期となった姫君は、騎士の中から最も有能な騎士を自分の専属として迎えるのが習慣だ。
しかしリランは、自分のせいでみんなが争ってほしくはないと、今まで避けてきた。
この城で安全に守られているリランにとって、専属騎士はそれほど必要性を感じていなかったのだ。
「決めたわ。今日はこのあと、お勉強もないことだし、騎士団の修練場を訪ねてみようかしら。わたしがいきなり現れたら、きっと失神してしまうかもしれないわね。狼の群れの中に、可憐な蝶が舞うのだもの」
うっとりと目を細めたリランは、物言いたげな侍女の目も気にせず、そうと決まったら身なりを整えなければと気合いを入れた。
いつも以上に念入りに化粧を施したリランの顔を見た瞬間、侍女がひっと短く声を上げた。今にも卒倒しそうな青白い顔で、「ひ、姫様……」と声を震わせた。
「どう? 似合っているでしょ。目の縁をぐるりと囲んで、黒くしてみたの。こうすると目が大きく見えるでしょ。澄んだ灰青色の目がいっそう輝いて、闇夜に浮かぶ一筋の光のようではない? ああ、髪型も変えないと。垂らしたままでは味気ないわ」
リランは侍女の手を借りず、楽しげに髪の毛を弄りだした。
今流行の髪に生花を挿すだけでは、二番煎じのようでどこか物足りない。流行とは自分で作りだすものだ。いつかみんな自分の真似をしたくなるだろう。
リランが鼻歌を歌いながら髪を結い上げていく横で、侍女の顔色はどんどん悪くなるばかりだった。リランの行き過ぎた行動を制止しようとしてか、口を開いたり閉じたりを繰り返していたが、結局、言うのを諦めたように項垂れてしまった。
「完成! なんてわたしに相応しいのかしら。この春は、この髪型が流行るわ」
大輪の花が咲いた小ぶりの鉢を頭上に乗せ、その周りを七色に染めた髪でぐるりと巻いた。斬新で、かつ目立つこの髪型は、きっと社交界に出たら注目の的だろう。
お気に入りの羽がついたドレスをまとったリランは、もはや魂が抜けた状態の侍女を放って部屋を出て行った。
回廊を軽やかに歩くリランに、好奇な視線がまとわりつく。
「さすが奇姫ね……」
「王女とあろうものが、あのようなふざけた恰好を」
「我が国の恥だ」
悪意に満ちた声と嘲笑がそこかしこから聞こえてくる。
が、しかし。
(まあ、みんなわたしに嫉妬しているのね)
リランは呑気にそんなことを思っていた。
注目されるのは嫌いじゃない。
冷たい視線も、無視されるよりはずっといい。
リランが足を踏み出すたびに、羽がふわっと揺れた。鱗粉のようにきらきらとした裾が、まるで夜空に浮かぶ星々のように床を滑っていく。
柔らかな絨毯の敷かれた回廊の両側には、歴代の王の肖像画が掲げられ、厳かな雰囲気が漂っていたが、リランの周りだけはふわふわしていた。気分はもはやお花畑の散策である。
足取り軽く回廊を突き抜け、修練場である小王の丘へと向かった。
穏やかな陽射しを浴びて、草花が煌めいていた。目映い新緑と甘やかな花の香りに迎えられたリランは、本当に蝶になったような気分で、すんっと胸一杯に嗅いだ。なんともいえぬ清涼感が満ちていく。
どの蜜が甘いのだろうか?
どれも匂い立ち、燦然と咲き誇っていた。
(あの赤い花を今度は首に巻いてみようかしら)
扇のような花びらが重なり合った深紅の花は、数多の花々の中でひときわ目立っていた。
茎が長いから、リランの細い首にぴったり収まるだろう。
象牙のような白い肌に、あの朱が艶やかに映えるはずだ。
リランは、自分のその姿を脳裏に思い描いてうっとりとした。
と、そこへ怒声が響き渡った。
驚いて、ぱちくりと瞬いたリランは、本来の目的を忘れるところだったと小さく舌を出した。
「わたしのために張り切っているのね」
リランの胸が高鳴った。
一人でここまで来たのは初めてだ。
声のするほうへと近づくと、リランに気づいたらしい騎士がぎょっとしたように目を見開いた。
リランは彼に向かって、しぃっと合図するかのように人差し指を唇に乗せた。
(彼らこそ、我が国の誇りにして、精鋭部隊――王立騎士団)
百戦錬磨との異名を誇る彼らに敵はない。
国王に絶対の忠誠を誓い、日々鍛錬に勤しむ彼ら。
どの姫君も彼らを専属騎士にできた者はいない。
彼らが仕えるのはただ一人しかいないからだ。
リランの存在などまったく気づかず、腕を磨く彼らに、リランは不服そうに唇を尖らせた。
(こんなにかわいい子がいるのに)
ちょっとつまらない。
本当なら、崇められるべき場面だというのに。
ここは、全員が跪き、自分を迎える場面だろう。
眼前では、滴る汗を拭いもせず、真剣な顔つきで剣を振るう騎士たちの姿があった。練習試合でもしているのか、中央を半分ほど囲むように人垣ができていた。時折、どよめきや歓声があがる。
みんなが固唾を呑み、見守っている中、リランが驚かせようと近づいたそのとき――。
戦っていた一方の剣が弾かれ、宙を舞った。
その剣先が真っ直ぐリランへ向かって落ちてくる。
「危ないッ」
リランの体が勢いよく突き飛ばされた。
幸い、柔らかな草が衝撃を和らげてくれたが、地面へと背中から突っ込んだリランは目を白黒とさせた。
何が起こったのかわからなかったのだ。
起き上がることもできず、呆然としていると、目の前に手が差し出された。
「とっさのことで……ああっ、申し訳ございません。なんとお詫びをしてよいか。お怪我はございませんか?」
「――っ」
すらりとした手をじっと見つめていたリランが顔を上げると、相手と目があった。
どくんっと心臓が跳ねる。
(王子様……)
リランは、ほわんとした目で彼を見つめた。
情熱的な赤毛とは正反対な砂糖菓子のように甘い顔立ち。その相反する魅力が、リランの目には斬新に映った。
赤毛を引き立てるような服装も洗練されていて、とてもお洒落だ。細身だが、しっかりと筋肉がついているのは、服の上からも見て取れるようだった。
まるで、幼い頃に読んだ物語の中に出てくる王子のようだ。
理想の王子様像を前に、リランの胸が高鳴った。
「どうされました? やはり、お怪我を?」
彼の目に、リランを嘲う光はない。ただ純粋に心配しているような色が宿っていた。
「い、いいえっ」
リランは慌てて彼の手を取った。
頬に熱が集まる。
彼は一体、だれなのだろう?
格好からして騎士ではなく、宮廷人だろう。城仕えをしているのだろうか。それとも散策に来ただけなのだろうか。
リランが思案していると、焦ったような声が背後から聞こえてきた。
「よもや人がいるとは思わず、申し訳ございません」
試合をしていた二人であった。
彼らは一目でリランが噂に名高い『奇姫』であることに気づいたらしい。一瞬、リランの風体に目を丸くしたが、すぐに青ざめた顔で膝をついた。
青年のおかげで怪我はなかったとはいえ、彼がいなければリランは大怪我をしていたのだ。
試合に夢中になるあまり、王女殿下に傷を負わせるところだった、防げなかった事故とはいえ、これは万死に値する行為だと猛省する二人。
そこへ、皮肉めいた声がかかった。
「副団長、頭を下げる必要はありませんよ。本来なら、許可無く立ち入りを禁じている場所へ勝手に入り込んだリランが悪いんですから」
「セル兄様!」
悠然とした足取りでやってきたのは、王立騎士団に所属している二番目の兄であった。
威厳あふれる長兄は違い、どこか飄々とした雰囲気を持つ次兄は、自業自得と片付けた。
「まあ、酷いっ」
リランは悔しげに地団駄を踏んだ。
もし、これがリランではなくティナだったら、彼は絶対に軽くいなしたりしないはずだ。上司であろうと、周囲への注意を怠ったとして厳しく罰したはずである。
そして、怪我はないかと医師団を連れてきただろう。
だが、リランに対してはそんな気遣いの欠片さえ見せない。
ドレスに泥と草をつけたって、払ってくれさえしないのだ。倒れたときの衝撃で羽だって片方折れてしまったのに、セルナントは何も言ってくれない。
そればかりか、その口を突いて出るのは、嫌味ばかり。
「少しはマシな格好できないの? お前を見ていると悪夢にうなされるようだよ、まったく。王宮専属の髪結い師も、衣装係も勝手に追い出して、一人でなにをやるかと思えばへんてこりんな格好ばかり。周囲の好奇な視線にさらされながら自分を曲げないお前の姿は立派に見えなくもないけど、批難されても自分を変えないのはただの馬鹿さ。『奇姫』なんて不名誉な呼び名を嬉々として受け入れているお前の気が知れないよ。ほんと」
やれやれとため息を吐かれたリランは、むうぅぅぅっと頬を膨らませた。
美的感覚のないセルナントには、流行の最先端にいるリランの格好が不気味に映るらしい。
「で、なんでこんなところへ来たの。しかも一人で行動するなんて。お前は一国の姫としての自覚はないの? まだ幼いティナだって、王族としての振る舞いはわきまえているんだから」
心底呆れたような声音が、長兄と重なるようだった。
彼らにとってリランはお荷物でしかないのだ。
セルナントの言葉に、物珍しげに見守っていた騎士たちの中からぷっと吹き出す声が聞こえてきた。
「そんなこと兄様に言われなくてもわかっていますわ!」
リランがそう叫んだ瞬間、髪の毛がぶわっと視界を覆った。バリンと陶器が砕け落ちる音がする。
「……ぁ」
さっきの衝撃で、髪の毛を留めていた部分が緩んだのか、鉢植えが落下したのだ。
見ていた騎士たちは、堪えきれないとばかりに失笑した。
「おい、笑うなって」
「だってよ、見ただろ」
肘を突きあい必死に口を閉じようとするが、七色の髪をだらしなく垂らし、呆然としているリランを見たら笑いを堪えるほうが無理だ。汚れた服とも相まって、まるで、地獄からはい上がってきた化け物みたいな姿なのだから。
相手は敬うべき王族とはいえ、気品の欠片もないリランに敬意を払う者などいなかった。
「……っ」
「リ、リラン……?」
王家に忠誠を誓う騎士からも馬鹿にされる妹を見て、さすがの兄も憐れに思ったのか、恐る恐る名を呼ぶ。
しかしリランはセルナントの斜め上をいっていた。
「セル兄様、ご覧になった? 芸術的な場面を。みんなの注目を浴びる中、まるでお芝居の主役のように感動的なところを」
「は? 感動的?」
「なにを鳩が豆鉄砲を食ったような顔をなさっているの? あれを感動的と称さなくて、なんと呼べばよろしいの。わたしの美しい髪がふわりと舞い、太陽の光にきらきらと当たって輝くところは、それはもう一枚の絵画のようでしたわ。お聞きなさい。わたしを称賛する声を」
「……いや、あれは嘲笑でしょ」
セルナントの突っ込みなど、もはやリランには聞こえていなかった。
「ああ、やはり神はわたしを愛しているのね。どんなときでもわたしが輝くように計算されているなんて。神をも魅了してしまう美しさって、本当に罪ね」
苦虫を噛み潰したよう顔をしているセルナントの前で、リランはうっとりと自分に酔いしれた。




