十七
「出してちょうだい」
「で、ですが、姫様……」
渋る御者に、年若い侍女が耳打ちした。
とたん、飛び上がって喜んだ御者は、態度をころりと変えた。
「まあ、ダーニャ。なにを言ったの?」
「ふふ、あの人、わたしに惚れてるんです。ちょっと色よい返事をしたらあの通り」
片目を瞑った年若い侍女は、まだ二十二歳で結婚もしていない。
華やかさはないものの、清楚な美貌は、男たちの視線を釘付けにするには十分だったのだろう。
「さすがわたしの侍女ね! 主に似て、殿方に好かれやすいのはいいことだわ」
「はいっ。姫様の正念場ですもの。だれにも邪魔させませんわ」
鼻息荒くそう言いきった年若い侍女は、気合いが入っているようだった。
もう一人の侍女にばれたら大変なことになるだろう。
けれどリランの恋を応援している彼女は、そんなこともろともしないようだった。
リランたちが王家の紋章が入った四頭立ての馬車に乗りこむと、ゆっくりと動き出した。向かう先は、子爵家だ。ダーニャを通じて、出席の旨は伝えてある。
(今度こそ愛想を尽かされたかしら……)
リランは、ほんの少しだけ色素の薄い双眸を曇らせた。
アルヴァンス一世に知られたら、叱責だけではすまないかもしれない。
なにしろ、城から離れることを固く禁じられていたのだから。
勝手に抜け出し、あまつさえお茶会に行ったことが兄の耳にでも入ったら、関わった者たちもただではすまないだろう。
ティナとは違い、兄たちとは決して分かり合えない運命なのだ。
リランのなす事はすべて否定ばかり。褒められたことは一度もない。
けれど、いいのだ。
今の自分には、兄たちよりも大切な存在ができたから。
――初恋なのだ。
兄たちに愛されることより、彼に愛されたいと願ってしまう。
だって、兄たちとは違い、彼は自分を愛してくれるのだから……。
(わたしの格好は少し地味だったかしら?)
本当は、レースをふんだんに使い、真珠のついた無数のリボンで覆われた、袖の長い真紅のドレスを着る予定だったが、ダーニャに止められたのだ。床まで届く袖はお茶を飲む際、とても邪魔らしい。リランは、その長い袖がお気に入りだったが、ここは大人しく助言に従った。
失敗したくないのだ。
だが、髪型と化粧だけは妥協したくなかった。
鮮やかな刺繍を施しただけの簡素なドレスとは反対に、天まで高く結い上げた髪からレースを垂らしたのだ。宝石をはめ込んだそれは、ヴェールのように背を流れ、動いたときに揺れるのが優雅だ。
いつものようにたっぷりと白粉をつけたあと、頬や唇を熟した果実のように塗り、目の輪郭を強調させる。
こればかりはダーニャの意見を聞き入れなかった。
(もう少し控えめにというけれど、このほうがずっと美しいのに)
素顔よりも化粧をしたほうが何千倍も輝いてみえるのに、なぜ質を落とさないといけないのだろうか。
(大陸一かわいいわたしが現れたら、驚くかしら。それとも卒倒するかしら)
考えただけで胸が高鳴る。
でも、一番はあの人のことだ。
見惚れてくれるだろうか?
だれよりも熱い視線を投げかけてくれるだろうか?
ああ、きっと。
彼の妹よりも、彼のことが気になってしょうがいない。
だって、あの舞踏会から会っていないのだ。
久々の再会を彼も心待ちにしているはず。
(わたしたちはお互いを想い合っているんだもの)
王都より西に進んだ馬車は、貴族たちが屋敷を構える区域に入ると、白塗りの立派な屋敷の前でゆっくりと停まった。
周囲の屋敷より敷地は小さいが、よく手入れされていた。
馬のいななきが聞こえたのか、重厚な扉を開いた。
出迎えてくれたのは老齢の執事であった。王家の紋章が入った馬車を驚きとともに凝視した彼は、御者が扉を開け、リランの姿が目に入ると、慌てたように深く叩頭した。
「当家のお茶会へようこそいらっしゃいました、王女殿下」
「まあ……!」
リランはいたく感動した。
あまり王女としての歓待を受けたことのないリランは、この反応が新鮮だった。
彼が控えめにリランを盗み見て、ぎょっとしたように目を見開くのも面白い。
(わたしのあまりのかわいさに腰を抜かしそうになったのね……)
やはり、自分の美貌は、老若男女惑わしてしまうらしい。
執事の反応に気をよくしたリランは、会心の笑みを浮かべた。
そのまま中へと通されたリランは、ダーニャと別れ、執事の後を追いかけた。お茶会は中庭で開かれているらしい。
「申し訳ございません。所用がございまして……こちらを真っ直ぐ進み、突き当たりを右へお曲がり下さい。皆様のお姿も見えましょう」
「ええ、わかったわ。ありがとう」
リランが礼を言うと、彼はまたびっくりしたような顔をして、ぎこちなく頭を下げると、そそくさと去っていった。
リランは、狭い通路を言われた通りに進んだ。
突き当たりを曲がったそのとき、婀娜っぽい声が聞こえてきた。
「……ふふ、お戯れを。ああみえて夫は嫉妬深いのよ」
密やかな声の中に、甘さが滲む。
思わず顔を向けたリランは、半分ほど開かれた扉の奥に、人影を見つけた。
「――!」
心臓が、止まるかと思った。
窓側で、重なるように密着していたのは、妙齢の夫人とトルトック子爵であった。
「お二人の間には愛がないとおっしゃっていたではありませんか。ああ、俺をどこまで焦らすおつもりです。あなたへの愛は、海よりも深いというのに。伯爵がなんです。あなたを手に入れられるのなら、俺は死を厭わない。決闘だってしてみましょう」
「くすっ。冗談がお上手ね」
「嘘ではありません。俺の愛はあなたのもの……あなただけの……」
熱に浮かされたようにうっとりと呟いたトルトック子爵は、夫人に顔を寄せ、そのまま口づけた。
人目もはばからず深い口づけを交わす二人に、リランは思わず目を背けた。
(な、に……?)
今見たものが信じられなかった。
「ああっ、どうしたら俺の想いを受け止めて下さるのです。あなたを想って、こんなにも胸が締めつけられるというのに」
「あら、可愛い坊や。あなたには、お相手がたくさんいるでしょう? ヴェスタール侯爵家のご令嬢に、アシタール姫、オルヴィアーノ夫人、……そうそう、それに、アノ奇姫もあなたに夢中という噂じゃないの」
親密な様子をこれ以上見たくなくて、逃げだそうとしたリランは、自分の名前が出てきて足を止めた。
なぜかこの先の会話を聞いてはいけないような気がしたが、足が床に縫いつけられたように動けなかった。
「俺は――」
トルトック子爵がなにか言いかけたそのとき、彼の視線が動いた。
見られていることにようやく気づいたのか、さまよった視線が、固まっているリランに定まった。
とたん、見開かれる目。
しまったといいたげに顔を歪めたのは一瞬だった。
彼は、人の良さそうな笑みを貼り付けると、夫人を放ってリランのほうへやって来た。
「ああ、いらして下さったのですね! 今日も素敵な衣装だ。あなたによくお似合いです」
「……」
青ざめた顔で黙り込むリランに、わざとらしくそう言ったトルトック子爵は、リランの手を取った。
そのまま甲に唇を落とされそうになって、思わず振り払った。
先ほど夫人と情熱的なキスをしたあとで、自分に触れるというのだろうか?
そんなのは許せなかった。
「わたくしに、触れないで」
「ああ、可愛い人。怒っているんですね。俺とあなたを繋いでいた想いは、こんなにもあっけなく崩れていくのですか?」
悲しげな顔をされると、リランの胸は痛んだ。
やはり、好きなのだ。
怒りも悲しみも、みるみるしぼんでいくようだった。
「あれは単なるお遊びです。リラン姫は、ご存じないかもしれませんが、あのような大人の駆け引きは、珍しくもありません」
「そう、なのですか……?」
「俺が本気で愛しているのは、リラン姫だけです。信じて下さい」
真っ直ぐな目に射抜かれ、リランの心は揺れた。
トルトック子爵を信じたいという気持ちと、彼の語っていることは事実なのだろうかと、相反する気持ちが交錯する。
「さ、リラン姫。妹もあなたにお会いするのをとても楽しみにしていたんですよ?」
参りましょう、と腕を差し出され、リランは逡巡したあと、そっと手を乗せた。
ちらりと扉の奥のほうに視線をやったが、夫人の姿はすでに見えなかった。




