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芝生の魔女  作者: なつる
第4章 4コーナーの魔法
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2:各務の迷妄

 オレは目を疑った。


 和弥は何をしてる?

 何故アイツが先頭なんだ?


 なんであの馬が逃げてるんだ!


 一枠の白いヘルメット、栗毛の牝馬、小柄な背中……集団を突き放して加速していくその後ろ姿は……五年前の彼女そのものじゃないか。

 ふざけるな……挑発してるのか? オレについてこいと。


 いい度胸だ。五年前のむらさき賞と同じ状況を作り出して、その上でオレに勝負を仕掛けるとは。

 上等だ──なら、お前の作った土俵の上に乗ってやる。それで負けても文句はあるまい。 望みどおり、四コーナーまではついていってやる。だがその先は──オレが勝つ。

 大体、その馬で逃げ切れるとでも思ってるのか? 運良くハナを切れたようだが、その馬で一八〇〇を逃げ切るのは無理だ。四コーナーにたどり着く前にスタミナが切れて失速するのがオチだろう。


 目の前のアイツはグングンと後続を突き放し、逃げていく。オレはそれを追いかける。

 和弥のパブリックエネミーが出遅れ、二頭が抜きん出て大逃げをかます予想外の構図に、スタンドから悲鳴にも似たどよめきが起こった。

 風と、馬と一体になり、空気を切り裂いて芝生を駆け抜ける。鐙を踏みしめ、手綱を強く握って、仕掛けるべきその時をただじっと待つ。

 鞍上のアイツがチラリとこちらを振り返った。そしてオレを見て、慌てたように前を向く。ムカつくくらいに何もかもが一緒だ。


 今のお前には……あの日彼女が見ていた風景が、同じ光景が見えているのか?

 突き抜ける青空、風になびくけやき並木、艶やかな栗毛の背、誰もいない芝生の道……


 いや……お前に一体何がわかる……

 彼女があの日何を想い、何を考えていたかなんて、お前にわかるはずがない。

 いつもふざけて、ヘラヘラ笑って、競馬が戦いだってことを完全に忘れてるようなヤツにわかってたまるか。真剣にやる気がないなら、オレが馬から引きずり下ろしてやる。

 オレはお前が大嫌いだ。その浅はかな薄ら笑いをオレに見せるな。何の辛苦も味わうこともなく、幸福な日々にどっぷり浸かって生きてきたような笑い顔にはヘドさえ出る。


 お前にはわかるまい。

 彼女の苦悩が、そしてオレの苦悩が。


 彼女を失った傷心を引きずり、骨の砕けた右足を引きずり、死に場所を求めてあちこちを彷徨った日々。死に切れず、生にしがみつくように壮絶なリハビリに耐えた後、逃げるようにして渡ったアメリカで目の当たりにした厳しい現実。僅かに残っていた騎手としてのプライドを粉々に砕かれ、全てを投げうってがむしゃらに生きたアメリカ修行──


 そしてオレはここに戻ってきた。

 オレは勝つ。勝たなければいけない。彼女の命を、明るい未来を奪ってしまったオレにはそれしか道がない。

 勝つためなら、どんな手でも使う。どんな誹謗中傷だって甘んじて受ける。地獄に堕ちたっていい。

 他人に恨まれ、嫌われ、疎まれても、オレはオレの道を行く──


 様々な想いは流れる景色にまぎれて、忘却の彼方へ去っていく。もうすぐ三コーナーだ。

 名物の大けやきはあの頃と何も変わらない。深い緑の葉を風になびかせ、何かを囁くようにざわめいている。

 大けやきだけじゃない。きらめく夏の到来を喜ぶように、全ての植物が生き生きとして眩しい光を放っていた。

 芝草の匂い、樹木の匂い、土の匂い、馬の匂い。いろんな匂いが吹き付ける風に乗ってやってくる。


 ふと──甘い、懐かしい香りがした、そんな気がした。

 花の匂い? いや、違う。これは……この香りは……由佳里?

 オレはそこでやっと気がついた。


 アイツの、ラブリーウィッチのスピードが落ちていない。


 じき四コーナーだぞ? なんで……何故だ。スタミナが切れるんじゃなかったのか?

 全身に鳥肌が立つ。目が醒めるような痛みがこめかみに走った。


 残り八〇〇の標識を過ぎ、馬が四コーナーに差し掛かる。

 おかしい。前との差が詰まらない。その一方で、後ろからは後続馬の気配が迫ってくる。アイツを……アイツを早く捕らえなければ!

 頭がガンガンする。吐き気さえしてきた。痛みは視界を狭め、歪める。

 アイツの背中がブレて二重に見える。重なって見えるあの背中は……


 違う! あれは「由佳里」じゃない!


 わかっているのに、アイツの背中に由佳里の背中が重なる。目をしばたかせても、残像は消えない。

 あれは幻だ。熱気が見せる、陽炎だ。あれは断じて由佳里なんかじゃない!


 ……待て、待つんだ由佳里……そこから先に行っちゃいけない。


 これはオレの意識が作り出した幻覚なのか? それとも……アイツが見せているとでもいうのか? 

 ああ、オレは狂っているのかもしれない。

 もう何だっていい。前を行くのが誰だろうと構わない。

 由佳里の幻を見せてオレを惑わそうというのなら、オレはそれを乗り越えるだけだ!


 四コーナーの出口。オレはムチを取り出し、レールフレックスの尻に一発入れた。手綱を捌き、ラブリーウィッチをかわすようにすぐ横に出る。

 一心不乱にムチを入れ、レールフレックスの首を押す。オレはただひたすらに馬を追った。

 横を走るラブリーウィッチも応戦するように併せて加速してくる。

 アイツとの勝負も、今がダービー直前だということも、もはやオレには関係なかった。少しでも前に出ることしか、首一つでも、ハナ差でも、とにかくアイツよりも前に出ることしか考えられなかった。

 しなるムチが風を切り、乾いた音を立てて馬の尻を打つ。何度も、何度も。千切れんばかりに右腕を振るいながらも、左手で手綱とタテガミを握り締め、グイッ、グイッと力強く押した。

 一完歩、一完歩ごとに、隣を走るラブリーウィッチとの差が徐々に開いていく。

 あと一〇〇──スタンドの怒号も大歓声も、疾風と蹄が織り成す轟音に掻き消される。


 もう少し……もう少しだ。これが終われば、オレはこの幻から抜け出せるんだ。

 早く……終われっ!





 華やかに飾られたゴール板の前を通り過ぎたとき──ラブリーウィッチはオレの半馬身後ろにいた。前に他の馬はいない。

 オレは──オレは勝ったんだ。


「ハ、ハハ……勝った……勝ったぞ」


 鞍上でラブリーウィッチを振り返り、オレは独り言のように叫んだ。

 オレは勝ったんだ。由佳里に、あの日の幻に勝ったんだ。

 何もかも、今となっては遠い日の幻に過ぎないんだ。由佳里と一緒に初勝利を喜んだあの夏も、悔しさに涙を滲ませたあの夜も、ダービーの前夜に彼女に告げた、あの言葉も──


 だが、オレはまだ気づいていなかった。


 自分が犯した大きな間違いに。


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