第1章エピローグ①:見守る者たち
――イギリス・アストラル・オーダー本部。
薄暗い作戦室を、青白い照明が静かに照らしていた。
壁一面に並ぶ大型モニターには、世界各地で発生した魔法事件の情報が次々と映し出されている。
静まり返った室内に響くのは、低く鳴り続ける電子音だけ。
その中央に置かれたデスクには、未処理の報告書が山のように積み上げられていた。
エレノア・ヴァレンタインは、そのうちの一枚へ静かに目を落としている。
銀色の前髪を耳へ掛けると、表紙に記された事件名を見て、小さく息を吐いた。
――漆黒の流星事件。
ここ数日、日本政府からの問い合わせが後を絶たない原因だった。
「日本から、また問い合わせが来てるわね……」
もちろん、確認の対象は零本人ではない。
日本国内で『漆黒の流星』を名乗る偽物が現れたことで、その正体やアストラル・オーダーとの関係について、日本政府から正式な照会が届いているのだ。
それでも、その名を見ると真っ先に零の顔が浮かんでしまう。
本人が何もしていなくても、なぜか周囲で騒ぎが起きる。
昔から、そういう星の下に生まれた子だった。
「相変わらず人気者ね、あの子は……」
呆れ半分、心配半分。
エレノアの口元に、僅かな苦笑が浮かぶ。
その時、作戦室の扉が静かに開いた。
「その件なら、俺が引き取るよ」
聞き慣れた低い声に、エレノアが顔を上げる。
入ってきたのは、黒神玄一。
零の父親であり、第2執行部『蒼穹(Azure)』の幹部を務める男だった。
危険な魔法犯罪を力で制圧する第1執行部『星刻(Stellar)』が、組織の“剣”ならば――情報収集や潜入捜査を担う『蒼穹』は、その“目”に当たる。
同じ執行部であっても、両者の役割は大きく異なっていた。
黒髪に僅かな白髪が混じり始めた長身の男は、いつもの豪快な笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。
そして、日本政府から届いた問い合わせ資料を、慣れた手つきで受け取った。
「ちょうどいいところに来たわね」
エレノアは手にしていた報告書を閉じ、玄一へ視線を向ける。
「日本で起きた漆黒の流星事件。結局、どう処理したの?」
玄一は資料へ軽く目を通してから、気楽そうに答えた。
「表向きは、魔力暴走による自爆だ」
一枚ページをめくり、その内容を確認する。
「現場にいた風紀部の少女も、そう証言してくれたらしい」
アストラル・オーダーは、表向きこそ国際魔法研究機関として知られている。
しかし、世界各地の魔法犯罪へ介入する執行機関としての実態は、公にはされていない。
当然、第1執行部に所属する特別執行官・黒神零の存在も機密事項に含まれている。
そのため今回の事件は、犯人たちが引き起こした魔力暴走による自爆として処理されていた。
「風紀部の少女……ね」
エレノアが静かに目を細める。
詳しい経緯について、零本人からの正式な報告はまだ届いていない。
それでも、零が日本にいる以上、今回の事件と無関係のまま終わるとは最初から思っていなかった。
玄一は別の資料へ視線を移すと、どこか楽しそうに口元を緩めた。
「しかも、その少女――現場ではアストラルのコートを着ていたらしい」
その一言に、エレノアの表情が僅かに動く。
アストラル・オーダーの執行官用コート。
一般人が簡単に手に入れられるものではない。
ましてや、事件現場で風紀部の少女へ自分のコートを渡せる者となれば、考えられる人間は一人しかいなかった。
「現場で、そのコートを渡せる人間なんて一人しかいないだろ?」
玄一が楽しそうに笑う。
エレノアは額へ手を当て、今度こそ隠すことなく息を吐いた。
「まったく……」
日本へ渡って早々、事件へ首を突っ込んだらしい。
あの子は放っておけば、面倒事を避けてばかりいる。
それなのに、目の前で誰かが困っていれば、結局は放っておけない。
そんなところは、昔から何も変わっていなかった。
「日本へ行かせたのは、失敗だったかしら」
口ではそう言いながらも、エレノアの表情はどこか穏やかだった。
玄一は迷うことなく首を横へ振る。
「いや」
その返事に、少しの迷いもない。
玄一は腕を組むと、一本ずつ指を折りながら数え始めた。
「偽物を倒した」
一本。
「一般人も守った」
二本。
「ついでに、女の子まで助けた」
三本目の指を立て、満足そうに頷く。
「むしろ大成功だろ」
誇らしげというよりも、それが当たり前だと言わんばかりの笑みだった。
「さすが俺の息子だな」
エレノアは呆れたように玄一を見つめた。
あまりにも自信満々なその様子が少し可笑しくて、口元に小さな笑みが浮かぶ。
「親バカね」
「否定はしない」
迷いのない即答だった。
その堂々とした返事に、エレノアは苦笑するしかなかった。
その瞬間――。
机の上に置かれた端末が、小さな通知音を鳴らした。
静まり返った作戦室に、電子音が響く。
エレノアは端末へ視線を向け、僅かに目を細めた。
送信者は――黒神零。
「珍しいわね」
今回の事件について、何か追加の報告でも送ってきたのだろうか。
そう思いながら端末を開く。
隣では、玄一も興味深そうに画面を覗き込んでいた。
だが、そこに書かれていたのは、事件の報告でも任務に関する連絡でもなかった。
僅か一行。
『日本でも楽しくやれそうだ』
二人の間に、短い沈黙が流れた。
ほんの一文。
それだけの短いメッセージだった。
けれど、その言葉だけで、零が今どんな顔をしているのか、不思議とはっきり想像できた。
きっと、いつものように気怠げな顔をしながら――ほんの少しだけ笑っている。
エレノアは額へ手を当て、困ったように息を吐いた。
「楽しく……ねぇ」
零が「楽しい」と口にする時は、大抵ろくなことにならない。
これまでに何枚もの始末書と報告書を処理してきた経験が、そう告げている。
これから先、再び頭を抱える日々が始まるのかもしれない。
そんなエレノアとは対照的に、玄一は楽しそうに笑った。
「いいじゃないか」
腕を組み、満足そうに頷く。
「楽しいと思える場所が、あいつにもできたってことだろ」
その言葉に、エレノアは僅かに目を見開いた。
日本へ送り出す時、不安がなかったわけではない。
普通の高校生として生活できるのか。
誰かと笑い合える毎日を送れるのか。
結局、事件ばかりを追い掛けることになるのではないか。
何より――あの子はもう一度、自分の居場所を見つけられるのか。
そんな心配ばかりしていた。
けれど、零が自分から「楽しくやれそうだ」と伝えてきた。
その短い一文が、胸の奥に残っていた不安を少しだけ軽くしてくれる。
「そうね」
エレノアはふっと肩の力を抜き、穏やかに微笑んだ。
「……あの子が楽しいと思えるなら、それでいいわ」
作戦室の窓の向こうには、ロンドンの夜空が広がっている。
その遥か先。
遠く離れた日本の空を思い浮かべながら、エレノアは静かに目を細めた。




