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第二話

 浣衣局に戻ると、数名の女官が手を動かしながら視線を寄こしてきた。

 彼女らは理由あってここに囚われているので、きれいになった衣を運ぶ役目を担う清鈴や小芽を棘のある目で見る。しかし彼女らは先ほどと違って、清鈴を一瞥すると別の方角へ目をやった。

 清鈴もまた目線の先を追って顔を上げる。

 何やら騒がしいと思っていたのだ。

 一人の若い宦官が洗濯中の中年女官に詰め寄っている様子だった。女官は鬱陶しそうに手で払っているが、彼は頑として引こうとしない。

 清鈴は自ら進み出た。

「一体何が──」

「あっ!」

 女官は清鈴を目に止めるなり、立ち上がってその濡れた手で清鈴を宦官に押しやった。

 じっとりと水気が袖に滲むのを感じながら、清鈴はあえて問わず宦官を見上げる。

 端正な顔立ちをした線の細い青年だ。地味だが後宮で働くどの宦官よりも美しい顔をしているのは違いない。そのまま清鈴は彼の服装を観察した。質のいい黒の衣、琥珀色の帯、硬い木沓。

 そしてもう一度顔を見上げて悟った。

「東宮にお仕えする宦官さまがここへ何の御用ですか」

 宦官は変化の乏しい表情をわずかに動かす。

 清鈴の推測は間違っていなかったらしい。

 しかしここにいる誰一人として、清鈴のようにはわからなかったようで、周囲がどよめいた。側にいた小芽も驚きの声を上げている。

 琥珀色は皇帝の第一皇子・東宮の証だ。衣への使用は何人も許されない。しかし小物は別だった。宦官の身に着ける帯は、その人が東宮の物であるという主張にほかならない。

 後宮にいる人間の教育の程度はさまざまだ。まさか浣衣局を行き来する女官が東宮の色について知っているとは思わなかったのだろう。

 無口そうな宦官はついに口を開いた。

「三寸女官は貴女ですか」

 清鈴は微かに眉を動かしたが、言及もせず頷く。

「そうですが」

「東宮殿下が貴女を連れてくるように、と仰せです」

 今度は清鈴が表情を変える番だ。

 清鈴は瞠目し、言葉を失った。

「今すぐ仕事を中断し、私についてきてください」

「どういったご用件ですか」

「それは殿下から直接お聞きいただくよう」

 きっぱり言うと、宦官は歩き始めた。これ以上の会話をするつもりはないのだろう。

 清鈴が辺りを振り返ると、作業の手を止め注目していた女官らは知らぬふりをして衣を擦り始める。

 一介の女官に東宮が何の用があると言うのか。それより清鈴は三寸女官という異称が東宮の耳にすら入っていることに嫌悪を覚えた。

 小芽が心配に満ちた目を向けてくれる。

「小芽、大丈夫。すぐ戻ってくるわ」

「無事に帰ってきてね」

「わかってる」

 この会話を交わす間にも宦官は先々と歩を進めており、すでに背中は小さくなっていた。

 清鈴は駆け足で後を追った。


 東宮は清鈴が見たことのないほどの立派な殿だった。過剰ではないかと思われるほどの装飾に清鈴は地位というものをまざまざと見せつけられる。言うまでもなく隅々まで掃除が行き渡っており、塗りが剥げたり金属の錆びなど一切見られない。築何年が経過しているのか清鈴の素人目にはまったくわからなかった。昨日建てられたと言われても頷ける。

 この存在感は、そのまま第一皇子を示す言葉となり替わるわけである。

 長い廊下を進み、宦官は突き当りにある扉の前で歩を止めた。

「殿下、三寸女官を連れて参りました」

「入れ」

 扉一枚越しでもはっきりと聞こえる上に立つ者の姿をした声に、清鈴は目が覚めるようだった。背筋を伸ばし直し、ゆっくりと開かれる扉の奥を注視する。

 入室を促された清鈴は、かんばせを拝む前に素早く拱手を取った。

「面を上げろ」

 言葉に従い拱手を解くと、清鈴は彼の佇まいに妙な納得感を覚えた。

 なるほど、上に立つ者はこう育つのか。

 美形だと思っていた宦官とは比にならない。いや、比べるのには少々基準が違いすぎた。

 顔をはじめとして骨格がはっきりとしている。額は平ら、鼻筋は真っすぐに通り、厚みのある唇はしっかりとした口元を引き立てていた。しかし真実を見抜くような色の薄い灰色の瞳、それを囲う瞼は薄く、わずかな端麗さを与えている。二面性、と言おうか、不思議な魅力を放っていた。

 顔の造形の良し悪しにさしたる興味のない清鈴ですら、感嘆の息を漏らしそうになるほどのものだ。

 清鈴はますます、自身が呼びつけられた理由がわからなくなった。

「お前が三寸女官か」

 清鈴はその問いに、目の前の美丈夫から目が覚めるのを感じた。焦点を失いかけていた目は理を取り戻し、後宮での地に足ついた清鈴が帰ってくる。

「僭越をお許しください、東宮殿下」

 清鈴は酷く落ち着いた声で告げた。

「なんだ、申してみよ」

「失礼ですが、三寸女官とは蔑称でございます。東宮殿下が口にされるべきではないかと」

「……」

 東宮は目を瞠り動きを止めた。清鈴の視界の端で宦官がわずかに身じろぐ。東宮は片手で軽く制すと、清鈴へと再び目を向けた。

「ではそなたを何と呼べばいい」

「荀清鈴と申します。殿下のお好きにお呼びください」

「そうか。では清鈴」

「はい」

「そなたは唐律疏議(法律書)を全編暗記していると聞いた」

 清鈴は小さく頷いた。

「本当か?」

「相違ありません」

 即答する。

 東宮は清鈴の淀みない返答とまなざしに、肘掛けへ頬杖をついた。

 清鈴には今ここで口頭試問が行われてもたがうことなく終えられるという自信があった。もしここでひるんでしまえば、三年間開かなかった日がない愛読書に申し訳が立たない。

 東宮はふうん、と値踏みの目つきで足を組むと、額に人差し指を置いた。

「では唐律疏議(法律書)について話してもらおう」

「はい」

 清鈴は一拍を呼吸に使うと、脳内に唐律疏議を思い浮かべるまでもなく並べはじめた。

「唐律疏議は【もちょっと説明いれる】法律と注釈合わせて全三十巻、第一編名例律、第二編衛禁律、第三編職制律、第四編戸婚律、第五編厩庫律、第六編擅興律、第七編賊盗律、第八編闘訟律、第九編詐偽律、第十編雑律、第十一編捕亡律、第十二編断獄律の十二編五〇二箇条からなります。

 ……各律の詳細を述べましょうか」

「いや、いい」

 清鈴の迷いない暗唱に、東宮の微かな動揺が飄々とした面の裏に見えていた。しかしこんなもの、それなりの教養があれば頭に入っていることだ。清鈴は舐められては困る、と改めて彼の顔を見据える。

 東宮はしばし逡巡したのち、本格的な試問を始めた。

「では第八編闘訟律十一条第一段は」

「はい。第八編闘訟律十一条第一段は殴制使府主県令。皇帝の使者、所属先の府主、州の長官を殴打した場合、及び五品以上の官長を殴打した場合は徒刑ちょうえきけい三年、傷害の場合は流刑二千里、折傷した場合には死刑」

 清鈴は前のめりになって答えた。

 すかさず彼は問いを繰り出す。

「戸婚律十六条」

「公有地または私有地を盗み耕作した者は一畝以下の場合笞刑(むち打ち)三十回、五畝増えるごとに一段ずつ重い刑に処す。最高刑は……」

 わずかながら清鈴は疑問があった。最高の教育を受けている東宮とはいえ、唐律疏議のすべてが頭に入っているものなのだろうか。

 東宮は一貫して清鈴の目だけを見つめ続けていた。正誤が判別できているのか不明なところだった。

 ちょっとした出来心だ。清鈴は視界の隅に宦官の姿を捉えながら続きを口にした。

徒刑ちょうえきけい一年」

「……」

 正しくは一年半。

 清鈴には東宮の目の色が一瞬、変わったように見えた。彼は感嘆の息を漏らすと、前のめりになって指を組む。

「可愛らしい名前とは裏腹に随分と大胆なことをする。それほどまでに私が信用ならないか」

 宦官は気づけなかったらしい。東宮の一言で、顔色を変える。

徒刑ちょうえきけい一年半、だな」

 清鈴は目を細め口を噤んだ。

 まさか彼もすべて覚えていたとは。

 清鈴は素早く拱手を取ると、顔を伏せた。

「私ごときが図るような真似を。失礼いたしました、東宮殿下」

「謝るな、適性がよく分かった。これくらい肝が据わっている方がよいからな」

 適正。

 清鈴は彼の言葉を口の中で反芻した。そろそろわかってきた。

 彼は清鈴に何かをさせるつもりだ。今はそれにふさわしいかどうかを判断すべく、面接中なのだ。しかしその「何か」が曖昧なので、清鈴は効かれたことに応えるだけだった。

「なぜ、唐律疏議を全編覚えている。科挙試験の勉強でもしていたのか」

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