第一話
三年前、あの日は視界も白むような豪雨だった。
体に刺す雨粒が無力な自分を責める槍のようで、衛兵に取り押さえられながら泣きじゃくり、叫んだのを覚えている。
父の死刑は多くの人に晒された。体を拘束され、土の上に正座をする姿。駆け寄ろうとすれば、衛兵たちに押し倒され、擦りむいた肌の痛みに奥歯を噛み締めた。
父は今から、それの何倍も、何十倍もの痛みを受けることになる。
けれど彼は笑っていた。
──ちゃんと食べて、真っ当に生きるんだぞ
唇の震えからそう読み取れて、死を既に受け入れていることに腹が立った。
「父さんはやってないっ!」
十四の娘の戯言だ。
誰も耳を貸さず、振り上げられた剣が放り出されることはない。
銅鑼が鳴らされた。死罪を見に来た大衆は、見世物に興奮して沸き立つ。
滝のような雨と歓声にかき消されて、今どれほど泣いているのかわからない。叫びは死罪を喜ぶ誰の心も突き動かせなかった。
剣が振り下ろされる。
見たくもないのに釘付けになった。
首に刃が入り、
横一文字に断たれ、
落とされる。
全てが、嫌にしっかりと脳に刻まれた。
重く鈍い音とともに首が地面に転がる。指揮を失くした体はゆっくりと力なく倒れた。
篠突く雨に負けない号哭がその日、宮廷内に響き渡った。
「三寸女官だ」
荀清鈴は白昼夢から意識を戻し、乾ききった衣で一杯のかごを抱えたまま声の方を振り返った。
言ったのは誰。
明らかに男の声であったので宦官であることは間違いなさそうだが、昼の後宮は人通りが多く誰が陰口を叩いたのか判別つかない。目につく宦官を端から一人一人見遣った。
唯一、二人組がこそこそと肩をすくめて、清鈴の方へ不自然に体を向けているのを見つけた。
誰かを気にしているが、それがばれたくないとき、人は気にかける人間の方へ自然と体が向いてしまっているものだ。
清鈴はかごを抱えたまま彼らの方へ歩み寄りつつ声を張った。
「どこの誰だか知らないけど、言いたいことがあるなら直接どうぞ」
広い後宮に清鈴の凛とした声が響く。宦官らはびくりと体を震わせた後、不愉快に嗤い合った。清鈴は思わず「小心者」と非難してやりたかったが、これは闘訟律11条第三弾(毀辱罪)に該当してしまう。頭に全編叩きこまれている唐律疏議(法律書)を思い出し、清鈴はひとにらみ利かせるだけにとどまった。
三寸、と言っても清鈴は小柄なわけではない。 むしろ背は高い方である。三寸不爛之舌(短い舌でも弁が立つ)という成語に皮肉な意味を持たせ、挙句省略したのが三寸女官、だ。
誰が言い出したのか知れないが、清鈴はこの不名誉な二つ名を呼ぶ者は許せなかった。
しかしながら三寸女官の名を知らない者は、すでに後宮内では皆無と言って等しい。というのも、清鈴がすべての言いがかりから悩みまですべてをその口で一刀両断してしまうからだ。宦官にも物怖じせず食って掛かるさますらこの二つ名に込められていると言っても過言ではないだろう。
清鈴は人知れずため息をついた。
私は正しいことを言っているだけなのに。
時には庇った人すら、眉を曲げて迷惑だと清鈴を責めることがある。清鈴は常に法に従い、事実を口にし、間違いを正しているだけ。
何もおかしなことはしていないはずだ。なのに、ひそひそと笑いものにされている。
心底許せないが、今の法では裁けないので仕方がなかった。
清鈴は衣を指定の宮へ届け終えると、次の衣を取りに引き返す。
そのとき聞きなれた声による悲鳴が鼓膜を震わせた。
まただ。清鈴は嘆息する。
「そ、そんなの知りません、わたし!」
また何か言いがかりをつけられている。清鈴は建物の角を曲がると、陰になってじめじめとした人通りの少ない場所で、三人の女官に清鈴と同じ色の襦裙に身をまとう少女が囲まれているのを目撃した。彼女は清鈴の姿を目にすると、うるんだ瞳で見上げてくる。
弱い人間を数人がかりで叩いて、何故卑怯だとは思わないのだろう。
清鈴は彼女に詰め寄る派手な髪飾りをした女官の肩を掴んだ。
「小芽が何かした?」
三人は突如現れた人物が三寸女官だと知ると、顔を引きつらせて後ずさった。しかし清鈴が肩を掴んだ一人はすぐに一歩前へ出る。
女官であるのに歩揺の簪を身に着けるとは、実家が太いらしい。彼女は不敵な笑みを浮かべて小芽を指さした。
「この子が私の帯飾りを盗んだのっ」
「だからわたしはそんなこと──」
「いくらだって嘘はつけるでしょ⁉」
「口論を聞きたいわけじゃないの。悪いけど、事実だけを話してもらえるかしら」
至って冷静な清鈴に、歩揺の女官は顔色を変える。
小芽は流れを知ったるように清鈴の側に身を隠した。
体が小さいと言うだけで舐められるのだ。女官の中では背の高い清鈴だが、女であるから体の大きい男の宦官らから容易に舐められる。小芽となれば、どの女官よりも小柄だった。
「今この状況は、貴女が小芽に盗窃の罪を問うていて、小芽はそれを否認している。どうして食い違った発言が生まれているのか、私が考えましょうって言ってるのよ」
噛み砕いて説明すると、歩揺の女官はぐっと歯軋りをしたのちに、飽きたと言わんばかりにそっぽを向いた。
「あー、もういいわ。飾りなんてまた買ってもらえればいいし。行きましょ」
「待ちなさい」
さっさと去ろうとする三人を清鈴は呼び止める。後ずさりする彼女らに一歩迫り、清鈴は歩揺の女官の腕を掴んだ。
「は……? これ以上何かあるわけ?」
「あるわ。まだ小芽が盗んだ可能性が晴らされてない。もしこの子が貴女の言う通り盗みを働いたのなら、正当な罰を受けるべきだもの」
「……何言ってんの? あんた、こいつの友達じゃないわけ」
歩揺の女官は怪訝そうに顔を歪めた。
「友達よ。でもそれとこれとは別でしょう。盗みをしていたら賊盗律三十五条(窃盗罪)に引っかかるし、もし貴女たちの言うことが嘘なら、闘訟律四十三条(誣告罪)。法に私情は持ち込めないわ」
女官三人の目は不可解から怯えに変わった。まったく清鈴の考えが受け入れられない彼女たちは超越した思考に恐怖を覚え始めている。
「ほら。いつどこで無くしたのか、そのとき近くに誰がいたのか、詳細に教えて」
清鈴がもう一歩詰め寄ると、歩揺の女官は掴まれた腕を大げさに振りほどき、情けない悲鳴とともに脱兎のごとく逃げ出した。残りの二人も置いて行かれまいと慌てて後ろを追いかけて行く。
清鈴は行き場のなくなった手をじっと見つめてから、腕の力を抜いた。
「……まただわ」
誰にも、無論小芽にも聞こえないようにため息をついた。
誰も最後まで付き合ってはくれない。皆怯えるか、嗤うかして清鈴に取り合わない。
小芽は持ち場へ踵を返す清鈴の袖を軽く引いた。
「い……いつもありがとう、清鈴。同い年なのに情けなくてごめんね……?」
蚊の鳴くような小さな声、もじもじとした仕草、そして何よりもその猫背。清鈴は頭の天辺からつま先までを一瞥して首を横に振った。
「人には得手不得手があるもの。……まあ、こうも毎度逃げられちゃ、得意とも言えないのかもしれないけど」
清鈴が持ち場の方角へ歩き出すと、小芽は短い歩幅で後ろをついて歩いてきた。清鈴は少しだけ歩く速度を落とす。
「そ、そんなことないよっ。みんな清鈴に言い返せなくなってどこか行っちゃうんだから、すごいことだよ!」
昔、近所にこんな子犬がいた。
「そう言ってくれると嬉しいわ。……そろそろ戻らないと怒られちゃうわね」
清鈴は目を輝かせる小芽の頭に手を伸ばして、優しくなでた。




