第37話 8月へ(その3)
お父さんは、ご飯を食べ終えると、ごちそうさま、と食器をお母さんのいる洗い場に持っていき、その後歯を磨き、洗顔をして、会社に出かけた。
僕は、しばらく台所でお母さんと2人になった。
「今日は、部活、ある日?」
お母さんは、昨日切って冷蔵庫に入れてあった西瓜をテーブルに出して、僕と向かい合って座った。
「うん、あるよ」
「何時から?」
「10時から、午前中いっぱい」
「お昼には帰ってくる?それとも、弁当、要る?」
僕は、うーん、と数秒考えてから、答えた。
「今日は、コンビニで買って食べるよ。その後、図書館に行くよ」
僕は、夏休みに家で過ごそうとすることのリスクを中学校までで嫌というほど知っていた。実際は、家にいて何もしない、ということはないのだけれども、24時間の内、1時間ぼーっとする、ということを、家でやってしまった場合、夏休みが終わった時に、‘勉強も、読書も、何もしなかった’という罪悪感が、より大きいのだ。その点、図書館に行ってさえしまえば、周囲は皆勉強や読書をしているので、なんとなく雰囲気でなにがしかしてしまうし、仮に、小休止するにしても、そんなときに書架から何気なく引っ張り出して読む本が、結構、いい本だったりすることがあるのだ。そうしておけば、夜、家に帰ってからも、比較的自分を責めずに、夜、眠れる気がする。だから、僕は、夏休みに入ってから、家を出掛ける時に、部活道具と勉強道具を持って出て、部活半日、図書館半日、という生活パターンを築きつつあった。
お母さんは、そう、と言って、アイロンかける、と、立ち上がろうとした。
「あ、お母さん、」
「はい?」
僕は、ちょっと、言い出しにくかったが、後延ばしにはできない内容のことなので、切り出した。
「来週の・・・8月の頭の、花火大会だけど」
さっき、さつきちゃんが言っていた花火大会のことだ。今朝走ったコースで、僕が連峰を目の前にした橋が架かった、一級河川の河原で、毎年、花火大会が開かれるのだ。その日は、第二次大戦の終わる年に、僕たちの市がアメリカの空襲を受けた日で、その時亡くなった方々の霊を慰めるために、毎年ずっと、開かれているのだ。その河原は、ちょうど、僕が通学途中に遠回りしてお参りする神社の背後にあり、神社では、夕方から花火に先立って、慰霊のための式典も開催される。ベビーカステラやかき氷などの香具師もたくさん出て、参拝の人々も、花火が終わった後も夜遅くまで続く。
中学2年の8月までは、毎年、お父さんが、僕と、市内に住んでいる年の近い親戚の子を、一応、引率する、みたいな恰好で、自転車で行っていた。親戚の子も僕も中学生なので、別に自分達だけで行ってもよかったのだろうが、なんとなく、そうなっていた。きっと、お父さんが行ってみたいと思ったのだろう。
「友達と一緒に行っていいかな」
「誰と?」
お母さんは、ちょっと警戒するような顔になっている。
「太一、と、あと、3人」
「誰?」
お母さんは、曖昧にする気はないようだ。僕は、それでも、嘘ではないが、確信に触れないような言い方を試みてみる。
「遠藤さん、脇坂さん、日向さん」
僕は、わざと、さつきちゃんの名前を一番最後に言った。
「‘さん’ということは女の子だね。陸上部の先輩でもないね」
僕は、うん、と言わざるを得なかった。
「日向さん、って、前、うちに電話かけてきて、かおるが晩御飯の後に出かけて行った、あの子だね」
お母さんは、完全に覚えていた。
「それから、夕べ、かおるが直接電話を取っていたけれど、あれも日向さんだね」
状況からしてそう考えて当たり前なのだろうけれども、僕は、まるでお母さんが、青春ミステリ小説に出てくる、探偵のような役回りをする主人公か、と思った。
「かおる、朝早く家を出てったけど、どこ行ってた?」
僕は、‘自主トレ系マラソン部’という単語は使わないけれども、その概要を説明し、日向さんとはトレーニングを一緒にする間柄だと、説明した。白井市のマラソン大会に陸上部のかなりの人が参加するということは話してあったので、その関係もあって、日向さんと一緒にトレーニングすることになったと、怪しさ満点とは思いながらも、とにかく説明した。
「それで、その日向さんが、日向さんの友達と3人で花火に行く予定にしてたんだけど、僕と太一も一緒にどう?と、誘ってくれた」
実は、太一にはまだ了解をとっていない。さつきちゃんが、かおるくんが男子一人で女子に混じるのがなんだったら、友達と一緒に来て、と言ってくれたのだ。太一には万難を排して参加するよう、これから頼むつもりだ。
「それで、本当は、花火大会じゃなくて、女子3人のお泊り会がメインなんだって」
お母さんの顔が、さらに不審さを増した。僕は、お母さんが色々な反応をする前に、畳みかけるように続けた。
「その日、お昼から、女子3人で晩御飯の準備をするんだって。日向さんのお母さんが女子3人に料理を教えながら準備するんだって」
お母さんは、西瓜を食べながら、一応、僕の話を聞いてくれている。
「日向家で夕食を食べた後に、花火を観に行って、それでその晩、女子はお泊り会」
「どうして、太一くんとかおるが出てくる?」
僕は、不自然な気もするが、事実そのとおりの説明をするしかなかった。
「日向さんのお父さんは、仕事が毎日遅くて、晩御飯を一緒に食べることはないんだって。だから、日向さんのお母さんが、女ばかりで味見をしても緊張感がないだろうから、誰か男子を呼びなさいって言ったんだって」
「だから、そこでどうして、かおるが出てくるの」
「・・・多分、他に男子の知り合いがいないから?」
僕は、そう言うと、この間、土砂降りの次の日にさつきちゃんの家に言ったことのかなりの部分を説明せざるを得なかった。日向さんのお母さんは、学生の分際で好き・嫌いの交際みたいなものは許さない人であること、目の届かない所で会ったりするより、家とか目の前の公園とか、目の届く範囲できちんとクラスメートとしてのやり取りをして貰いたいということ、日向さんが、部活に入らずに、家事全般を手伝っていること(やはり、‘帰宅系家庭科部’という単語は、恥ずかしいので使わずに説明した)、を、言わざるを得なかった。僕がさつきちゃんに、「日向さんが、好きだ」と言ったこと以外は。
お母さんは、到底納得しているようには見えなかった。当然だと、思う。
僕自身も、さつきちゃんのお母さんはとても思い切ったことをする人のような気がする。もしかしたら、さつきちゃんも、その見かけよりも、いざという時には、ぱっ、と跳べる子なのかもしれない。僕が今した説明で、納得する方がおかしい。
「かおると太一くんも、泊まるの?」
僕は、お母さんも、日向家の感覚に巻き込まれて、突拍子もないことを言う、と思い、焦った。
「いや、まさか。僕たちは花火が終わったら帰ってくるよ」
お母さんは、1秒ちょっとの間をおいて、
「分かった。お父さんにも、かおるから言っておいて」




