第35話 8月へ(その1)
親水公園から家に着いて、着替えて台所に入ると、お父さんが朝ごはんを食べているところだった。お母さんは目玉焼きを焼いた後のフライパンを洗っている。
僕は、お父さんとお母さんに、おはようございます、と言って、ご飯をよそい味噌汁をつけてテーブルのお父さんの席の斜め左の定位置についた。
いただきます、と言って、小松菜のお浸しから食べ始める。
うつ病になる前、お父さんは、毎朝とても早い時間に会社に行っていた。実際、仕事が忙しいというのは僕にはよくわからない別の世界のことのような気がしていた。
今思い出すと、亡くなったおばあちゃんは、僕が幼稚園の頃は、「幼稚園はどう?」と毎朝必ず聞いた。そして、幼稚園に出かける前に、「仏さんにお参りして」と、ほんのちょっとの短い時間でもいいからと、必ず仏壇に僕を向かわせ、手を合わせさせた。
小学校になると、「小学校はどう?」となり、仏壇に向かわせた。
中学校でも同じだった。中学2年の時に亡くなるまで毎日そうだった。
おばあちゃんは、僕が中学2年の冬に、肺炎で亡くなった。今でも覚えているのだが、お母さんが風邪をひいていた。そのお母さんの風邪がうつったのか、おばあちゃんが珍しく熱を出して寝込んだ。熱を出した時、お母さんがおばあちゃんを病院に連れて行こうとしたのだが、「寒いから、外に出るのは嫌だ」と、行かなかった。
そのまま家にあった配置薬の風邪薬を飲んでいたのだが、熱を出した翌日に咳がひどくなり、夜近くなると呼吸がぜいぜい言う感じだったので、いつものかかりつけのお医者さんに電話して往診にきてもらった。お医者さんは、
「多分、肺炎を起こしている。すぐに市民病院に連れて行かないとだめだ」
と、救急車を呼んで、市民病院に行き、入院した。
そして、次の日の朝に、それこそあっという間に亡くなった。
お母さんは、自分が風邪をうつしたのではないかと一瞬落ち込んでいたが、お通夜、お葬式の準備と、落ち込んでいる暇もなかった。割と近いところに住んでいる小姑も臨終の席から常に一緒にいたので、気も張らざるを得なかったと思う。
でも、実は、おばあちゃんが亡くなる少し前から、僕はおばあちゃんやお母さんよりも、なんだかお父さんがおかしいな、と、漠然と気になっていた。
もともとそんなに明るい朗らかな人柄ではないのだけれども、その頃は特に寡黙で俯いているような気がした。時折、便所の中から、お父さんの唸り声が聞こえることもあった。
便秘か何かで唸っているのかな、と最初は思っていたが、よく聞くと、むせび泣いているようにも聞こえた。多分、泣いていたのだ。
お父さんが、精神科を受診したのは、おばあちゃんが亡くなり、お葬式が終わってしばらくしてからだった。お葬式の後、お父さんは、参列してくださったり、忌引で休暇をとっている間に仕事で負担をかけた、会社の職場の人たちへの挨拶に、お饅頭を持って行った。
そして、忌引休暇明け、仕事に戻って二週間ほどした頃の月曜日の朝、お父さんはいつものように早くに職場に出て仕事の段取りなんかをしていたのだが、始業の時間の少し前、お母さんの携帯に電話をかけてきた。
「ちょっと、もう、だめだ。医者に行く」とお母さんに言った。お父さんは部長さんが出勤してくると、頭痛がひどくて我慢できないので病院に行きます、と許可をもらい、そのまま、家に歩いて帰ってきた。
きっと、お父さんとお母さんの間では、何らかのやり取りがそこまでにあったのだろう。
もし、便所でお父さんが唸っていたようなことが、お父さんとお母さんの寝室で、毎朝早朝に繰り返されていたとしたら、お母さんが気付かないはずがない。また、お母さんもどうすればよいのかと、悩んだだろう。
はっきりと断言はできないが、おばあちゃんが亡くなったことと、お父さんがうつ病になったことは関係ないと今でも僕は思っている。
おばあちゃんは僕には「学校、どう?」と聞いたりしていたが、お父さんにそんなことを聞くことはなかった。お母さんは、姑であるおばあちゃんに気を遣ってなのか、僕のことも、お父さんのことも、自分からは、おばあちゃんも揃った家族の中では、話題にあげなかった。
だから、僕は、お父さんが会社で何をしていたのか知らないし、会社にどんな人たちがいるのかも知らなかった。ただ、会社や大人の世界は、無秩序な、もっと極端に言えば無法な僕たちの学校の世界や、学校の外での更に危険な生活とは違うものだと思っていた。
それこそ、‘大人’な人たちが、相手のことを表面上だとしても配慮し、一応は気遣い、私企業としての利益や、うまくいけば公としての国の利益、さらには、世の中のためになるようなことをするといった世界だと思っていた。小学校の時の道徳の教科書に載っていたようなことが、心からではなく、打算からだったとしても、少しは実現されている世界だと思っていた。
もちろん、そういったことをしている人たちもいるだろう。ただ、そういったことをしないでいる人たちの方が圧倒的に多いのではないかということを、漠然と感じたのだ。これは、僕は早い段階で薄々悟ってはいたように思う。小学校の時、道徳の授業は担任の先生ではなく、教頭先生が僕たちのクラスに教えに来ていた。僕たちのクラスだけだったのか、他のクラスもそうだったのかは、忘れた。道徳の教科書は、とても優しく、僕はその世界に憧れすら抱いた。そこでは、登場人物たちの様々な葛藤は描かれてはいるが、最終的には誰も傷つかない。少なくとも、合理的でない理由では傷つかない。登場人物たちは、秤にかけて合理的な方を必ず選択する。たとえば、意味もなく小動物をいたぶるのは、ちょっと分別があれば合理的な行為ではないのは分かるはずだ。それは自分の心をやせ細らせる行為であるとともに、もっと現実的な話をすれば、周囲から批判されるという結果だけとっても、合理的な行為ではない。
けれども、僕や僕たちがたどってきた幼稚園から小学校、中学校を振り返ってみて、合理的な行為以外の、不合理な行為を取る人間がやたらと多かったという記憶が強烈に残っている。
‘面白い’から鉄パイプで人を殴る。‘楽しい’から給食の汁物の残飯をいじめられている人間の机の中に流し込む。‘むかつく’から、あの連峰の、神様が祭られている頂上から人を突き落そうとする。ひょっとしたら‘’の中は、‘辛い’とか、‘寂しい’とか、‘怖い’という言葉に置き換えられるのかもしれない。不合理な行為には、それをする本人には何か合理的な理由があったのかもしれない。けれども、道徳の教科書に憧れるような、現実逃避タイプの僕にとっては決して合理的な行為ではなかった。
でも、大人の社会人の世界は、打算でも世間体でもあるいは本当に心からでも、他人をいたぶったりするような不合理な行為をする世界ではないと考えていたし、そうあって欲しいと思い、それだけを頼りに、小学4年、5年、6年、中学1年、2年と、少しずつ社会に近づくごとに、不合理な世界は面積を狭めていくのだろうと思っていた。それが例えば、人間の激情や熱い想いやガッツなどといった感情を犠牲にした覚めた、温度のないお愛想の世界であったとしても、自分がいたぶられたり、自分の同類がいたぶられているのを見て嫌な感情になるのよりは、ましだと思っていた。
だから、お父さんが精神科に行った時は、ショックだった。いや、お父さんもお母さんも、‘うつ病’という病名を口にはしていないし、精神科へ行ったとも言っていない。ただ単に、病院へ行った、と言っただけだった。
病気になった原因も、一言も僕には話していない。
ただ、僕が聞いたのは、お父さんが病院に行った翌日も休まずに会社に出勤した時、お母さんがこう言ったことだ。
「お父さんの会社に規則ができて。病気で休んだ人は、会社を辞めさせられても仕方がないんだって。かおるの学校に、病気で休んだら、学校をやめなきゃいけないっていう校則ができるのと同じかな」
僕は、最初は意味がよく分からなかった。義務教育とはいえ、出席日数が足りなければ進級できなかったり、卒業できなかったりということはあるだろう。会社は義務教育ではないから、辞めなきゃいけないことがあるのは仕方ないのかな、くらいにしか思わなかった。
お父さん、お母さんは、その後も一言も僕に何がどうなったのかは言わなかった。
お父さんはその後も、会社を休んでいない。月に一度、病院に行くときに、午前か午後、半日の休暇を取るだけで、病院に行く日も出勤してきた。
それから1年ちょっと経っている。その間、お父さんがどのように会社で仕事をし、上司や同僚の人たちと接し、また、お客さんとどのように接してきたのかは分からない。
ただ、僕は、時折、ベランダに折り畳み椅子を置いて腰かけ、月を見ているのか、雲を見ているのか分からないが、30分も1時間も夜空を見上げて動かないお父さんを何度も見かけた。声をかけて一緒に座ってあげればよかったのかもしれないけれど、僕とお父さんの間にはやはり距離が昔からあったし、自分自身、お父さんのことをそれほど心配していなかった。はっきりと、僕自身、面倒くさかったのだ。僕は、薄情な家族だ。
だから、お父さんがうつ病になったのは、おばあちゃんが亡くなったこととは多分、関係がない。
お父さんは、お父さんなりの何かの事情があったのだろう、と思っている。
そして、僕が小学校の頃から、心の中では否定しながらも、漠然と抱いていた不安が、お父さんのうつ病によって、急に現実として目の前に晒されたような気がした。僕は、お父さんではなく、自分自身の不安を膨らませ、心配をしていた。その不安とは、大人の世界も、不合理なんだろう、ということだった。
小学校の頃、薄々感じていた。道徳の授業を受け持っていた教頭先生は、先生方の間で、‘無能’と軽蔑されていた僕たちのクラスの、若い男の担任の先生のことを、その教え子である僕たちの前で、侮蔑した。その侮蔑の仕方も、「この間、~先生がトロいので、そのまま置いて帰ってきました」と、先生方の職員旅行の時の、‘いたぶり’の話を軽い笑いでするというものだった。
既に、その教頭先生自身が、そして、置き去りにしたという場に居合わせたであろう先生方自身が、大人のくせに‘不合理’な人間たちだったのだ。




