第34話 スピードをつける(その10)
僕がととっ、と駆けていくと、芝生のスペースに、さっき橋の上から見た連峰と同じように、逆光を浴びて輪郭がくっきりと浮かび上がった小柄な人影が走っている姿が見えた。連峰ほどのスケール感はもちろんないのだけれども、僕にとってはとても存在感のある影だった。さつきちゃんは、芝生の区域を、コンクリートの縁石で区切られた外輪をなぞるようにして走っていた。ととっ、とっ、という、ゆっくりしたペースで走っている。多分、クールダウンだと思うのだが、僕はお世辞でもなく、気になる人への欲目でもなく、本当にきれいなフォームだと、驚いた。
陸上部の中でもこんなにきれいなフォームで走る選手はそんなにたくさんはいない。
僕は、しばらく見とれていた。
その内に、さつきちゃんが僕に気づいた。たっ、たっ、と僕の方に駆け寄ってくる。
僕も、さつきちゃんの方にゆっくりと走って行った。
「おはよう」 さつきちゃんは僕の3mほど近くに来ると、足を止めて挨拶をしてくれた。
僕も、おはよう、と返す。
「クールダウンしてたの?」
僕はさつきちゃんの額の汗がかなりひいているのではないかと思い、随分長いこと、クールダウンに時間を割いて僕を待っていてくれたのではないかと、気にかかった。
「うん。だいぶ汗かいたから、ぶらぶらと走ってた」
ぶらぶら、という感じではない。走る動作ひとつひとつがとてもスムーズで、力が抜けていても、とてもきびきびした走りだった。ぶらぶら、というぐらい無意識にあのフォームができるということは、運動神経がとてもいいか、フォームがきれいなままで固まるくらい走り込んでいたか、その両方かだ。
僕たちは、芝生の上で、それぞれストレッチを始めた。これが、以前、さつきちゃんが言っていた、‘自主トレ系マラソン部’の活動の一部だ。9月のマラソン大会までの間、それぞれのコースを走った後、親水公園の芝生の区画で、ストレッチをしながら、それぞれのトレーニング状況を報告しようということになったのだ。
ただし、毎日、という訳にもいかないので、夏休みの間、不定期だが、週一度くらいのペースで、早朝走り込みの後、集合しようということになった。いつ集合するかを決めるのは、さつきちゃんに任せることにした。前日の夕ご飯くらいの時間に、さつきちゃんが僕の家に電話をくれることになった。僕から連絡するよりは、さつきちゃんから連絡を貰うようにした方がいいだろうと考えたのだ。もし、僕から連絡するとなったら、週に何回も集合しようとしてしまいそうだったので。もちろん、そんな理由はさつきちゃんには言っていないけれども。
僕も部活とは別に毎日10km走るのはさすがにきついので、基本的には集合の日を10kmランニングの日として、それ以外の日は、部活前の朝に5km走ったり、気分が乗れば夕方に10km走ったり。コースは今朝走ってきた10kmちょっとのコースをベースにアレンジすることにした。
さつきちゃんは、家の向かい側ということと、早朝でも結構な数のランナーや散歩をする人がいて安心だということで、一部がこの親水公園の中を流れる運河沿いに作られた、デッキ張りのジョギングコースを走ることにした。ジョギングコースは、100m、500mと、スタート地点からの距離を示す立札が立っており、5kmくらいのコース設定をするのにとても都合がよいと、さつきちゃんは言っていた。
僕たちは、夏休みの学習の課題のことや、昨日見たテレビなんかの他愛無い話をしながら一通りストレッチを終えると、お尻についた芝生の草を払いながら、立ち上がった。
「じゃあ、わたし、朝ごはんの準備があるから」
さつきちゃんが言うと、じゃあ、と名残惜しくはあるが、僕も朝ごはんの時間に遅れないよう、家の方に足を向けた。
「あ、かおるくん」
ふとさつきちゃんが僕を呼び止めた。
え、と振り返ると、さつきちゃんが、にこにこ笑って、
「来週の花火、観にいかない?」
と、想像もしなかった誘いを受けた。




