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 使用人全員が、屋敷中を隅から隅まで捜した。キットがいつも過ごしているお気に入りの場所や、納屋、物置の奥、食料を保存する地下室まで、子どもが隠れるのに適していそうな所も、くまなく捜した。

 しかし、どこにもキットの姿はなかった。

 もしかして、屋敷の敷地内から出てしまったのではないか。

 心配のあまり、この世の終わりと言わんばかりの表情で、メレディスは言う。

 その可能性も、充分考えられる。アルバは、キットの捜索班と、屋敷に残る待機班に使用人を分けた。メレディスは捜索班に、カーロッタは待機班に振り分け、自らは捜索班に入った。

 私も行きます、と申し出るミラベルを屋敷に止まらせ、アルバは捜索班と屋敷を出た。

 屋敷の裏手には森がある。この森に入り込んでしまった可能性もあった。

 アルバは捜索班を、町方面担当と森担当に分けた。

 夜の帳が下り、ランプの明りだけを頼りに、キットの捜索が始まった。



(僕のせいだ)

 森の捜索に就いたアルバは、罪悪感にさいなまれながら、弟の名を呼び続けた。

(僕が、あの子を分かってやれなかったから)

 鬱蒼と茂る闇の森の中、キットを呼ぶ使用人たちの声が響き渡る。

 一時間ほど、そうやってみんなで呼び続けた。しかし、幼い子どもの姿は見つからなかった。

 時間が経てば経つほど焦りが募り、厭な想像ばかりが浮かんでくる。

(頼むから返事をしてくれ)

 弟の無事だけを祈り、アルバは森の奥へ進んでいった。


 ひゅう、と風が吹きつけた。風は森の外側から奥に向かって吹いていく。


 不思議な感覚を覚えたアルバは、その風に背を押されるかのように、風の流れていく方向へ、どんどん歩いていった。

 やがて開けた場所に出た。そこには、深闇の入り口のような大穴が、地面にぽっかりと穿たれていた。

 アルバを導いた風は、その穴の中に向かって吹き降ろしている。

(まさか)

 アルバは穴の縁に駆け寄り、ランプの明りで穴の中を照らした。

 果たして穴の底に、うずくまる弟を発見した。

「キット!」

 呼びかけると、キットが顔を上げた。兄の姿を見るや、立ち上がり、悲しげに「うう」と唸った。

「待ってろ、今助けるから」

 アルバはランプを掲げ、穴の深さを目で測った。かなりの深さがあるようだ。腹這いになって手を伸ばしても、キットには届くまい。

 ロープの代わりになりそうなツタも、周辺には見当たらなかった。

 アルバはランプを地面に置くと、穴の側面の、足がかりになりそうなところを確認しながら、慎重に降りた。

 わずかに射し込むランプの明りの下、アルバが大穴の底に降り立つと、キットが走り寄って腰に抱きついてきた。

 アルバは弟を抱き、震える肩や背中をさすった。

「よしよし、怖かったね。もう大丈夫だから」

 キットは、掌や膝にかすり傷を負っていたが、それ以外に目立った怪我はないようだった。

 かすり傷程度で済んで幸いである。アルバは天の守護司に感謝を捧げた。

 あとは一刻も早く、この穴から脱出するのみだ。アルバはキットを背負い、降りてきた時のように、足場を確保しつつ、ゆっくりと登り始めた。

 降りる時より、登る方が体力がいる。キットを背負っているからなおさらだ。アルバは全身の筋力を使って、穴を登る。

 しかし、半分ほど登った時、左手をかけていた石の突出が、非情にも土ごとはがれてしまった。

 バランスを崩したアルバは、両足も足場から滑らせ、穴の底に落ちていった。

 その際、とっさに身体をよじって、自身がキットの下敷きになる体勢をとった。

 身をよじったために、キットは地面に転げたものの、怪我はないようだった。

 アルバは左足首に、強烈な痛みを覚えた。うっ、と呻き、しゃがみこんで、痛む足首に触れる。挫いてしまっている。

 心の中で舌打ちし、穴の上を見上げた。この足では、キットを連れて登ることはできそうにもない。

(仕方がない)

 左足首が熱を帯び始めた。腫れて膨らみつつもある。あまり時間を置いては、もっと腫れあがって、歩くのも困難になるだろう。そうなる前に……。

「キット、僕の言うことをよく聞くんだ」

 アルバは不安げな弟に、ゆっくりと言った。

「屋敷の人たちが、君を捜すために森の中にいる。君を呼ぶ声が聞こえるはずだ。君は穴の外に出て、誰か呼んできてくれ。僕は足を挫いて、このままでは動けない。だから、君一人で行くんだ。いいね?」

 キットは、どうするべきか迷っているように、視線を泳がせている。

「今の足では、君を連れて登ることが出来ないんだよ。だから、一人で行くしかない。分かるね?」

 アルバはキットの肩に手を置いた。キットの、泳いでいた視線が、アルバに定まる。

 弟は、小さく頷いた。

「よし」

 アルバも頷き返す。

 左足の痛みを、歯を食いしばってこらえ、アルバはキットを肩車した。そのまま穴の側面に移動し、キットに、肩の上に立つように言った。

 キットの手が、穴の縁に届いた。よじ登るためにキットが身じろぎするたびに、左足首に激痛が奔る。脂汗を流しながら、アルバは耐えた。

 脱出に成功した弟が、心配そうに見下ろしている。

「行くんだキット。僕なら平気だから。さあ、そのランプを持って」

 強い意志を示すために、やや口調を荒げた。そのお陰でキットは決心したらしい。ランプを持ち、森の方へ駆けていった。

(それでいいんだ)

 キットは喋らない分、耳がいい。自分を呼ぶたくさんの声に、まもなく気づくだろう。合流できた使用人を連れてきてくれれば……。

 キットが一人だけで逃げるとは、アルバは微塵も考えなかった。

たくさん叱り、手も上げてしまった兄を、嫌ってはいるだろうけれど。 

(信じているよ)

 アルバは穴の壁に背を預け、深く息を吐いた。

 



 ランプの明りがなくなった今、月も厚い雲に隠れ、穴の中は真っ暗だった。

 時間の感覚が薄れ、どれだけの時が過ぎたのか、分からなくなっていた。

 左足首は、二倍の太さに腫れていた。だが、折れていないだけ、まだましだ。

 どこからか吹く風で、木々が、ざざ、と啼く。

 その風に乗って、遠くの方から何かが聞こえてきた。人の声のようだった。

 アルバは、閉じていた目を開ける。穴の向こうから、アルバを呼ぶ複数の声がした。

 声の集団は、穴に近づいてきている。やがて、明るい光が穴の中に注ぎこまれ、アルバは眩しさに、片腕で目を覆った。

「アルバ様、ご無事ですか、アルバ様!」

 男の使用人が、大きな声で呼びかけてきた。

 穴の縁に、五、六人ほどの人影が集まった。その人垣をかき分け、キットが顔を見せる。

 アルバは目を覆っていた腕を振った。

「足を挫いた。ロープはあるかい?」

「今しばらくお待ちを。ロープを持て!」

 使用人たちが、慌ただしくロープの準備をしている中、アルバとキット、二人の兄弟は無言で見つめ合っていた。

 アルバが笑うと、キットも笑った。

 アルバは、何か満ち足りたものを感じた。


 

 キットが無事に屋敷に戻ると、屋敷中は歓声に包まれた。

 キットは、メレディス、カーロッタ、そしてミラベルに順に抱きしめられ、鬱陶しそうに顔を歪めたものの、逃げることはなかった。

 



 アルバが足を怪我してしまったため、翌日のピクニックは延期となった。

 ミラベルは、ピクニックを予定していた次の日に帰ることになった。ミラベル本人は、アルバの足を心配し、側で看病したいと申し出たのだが、アルバはやんわりと断った。自慢の娘が、予定通りに戻らないとなると、クウィントン伯爵が心配するだろう。

 ミラベルがハーンの屋敷を出る際、キットは彼女に、薄いピンクの可憐な花を贈った。

 おそらくは、自分がだめにしてしまった帽子の代わりにという、キットの精一杯のお詫びなのだ。

 ミラベルは大層喜んで花を受け取り、キットの額に口付けするのだった。

 兄弟は、ミラベルを乗せたビークルが去っていくのを、揃って見送った。


       *


 森での迷子騒動から、一週間。

 怖い思いをしたというのに、キットは反省どころか、暴れっぷりにますます磨きがかかっていった。

 ヴェルゼン氏のお陰で得た知恵を駆使し、あの手この手で罠を仕掛けては、使用人たちを引っ掛けて遊んでいる。主な被害者は、メレディスとカーロッタである。

 この頃になると、使用人たちも慣れたもので、キットのいたずらに振り回されつつも、徐々に向上していく仕掛けの完成度に、キットの成長を垣間見て微笑むのであった。

 相変わらずかと思いきや、明らかに変わった点がある。

 キットは、アルバの言うことだけは、素直に聞き入れるようになったのだ。

 それは、兄に服従している、というものではなく、絶対的な信頼の上に成り立つ、親愛の忠誠心だった。

 兄弟の絆が、たしかに築き上げられつつあった。

 

 そんな中、父イグニスが危篤である、という知らせを受けた。


 

 アルバはキットを伴い、死の縁に佇む父を見舞った。

 父の横たわるベッドの側には、主治医と看護士が控えている。部屋の隅では、目を赤く腫らしたメレディスとカーロッタが立っていた。

 イグニスは、落ち窪んだ目を兄弟に向けた。口の端が、少し歪む、笑ったのだろうか。

「側に来い」

 イグニスの声は、かすれきっていた。

「アルバ」

「はい」

 アルバは頷く。これが父の最期の言葉か。胸に迫るこの思いは、どうすれば伝えられるだろうか。

「お前は決して、私のようにはなるな」

「父上……」

「ハーンの長たる者、先代と同じ手法を用いるなどという、見苦しい姿を晒すな。お前はお前のやり方を確立し、見事にやり遂げてみせよ。私と同じ轍を踏むようであれば、即座に領首の座から引き摺り下ろせと、メレディスとカーロッタに遺言を遺している。このこと、忘れるな」

 同じ轍……。ああ、父はご自分の失敗を認めていたのだ。それが領首としての失敗か、父としての失敗なのか。いずれにせよ、父は分かっていたのだ。

 アルバは必死で涙をこらえた。今泣けば、それこそ父に叱られるだろうから。

 イグニスの目線が、キットに移った。

 キットは、何の感情も読み取れない顔で、じっとイグニスを見返している。

 その無表情さに、イグニスは乾いた咳のような笑い声を上げた。

「その目だ。その、私などまるで眼中にない、と言いたげな目。お前にとっては、私など取るに足らぬ存在なのだろう? そうだ、お前はそれでいい」

 イグニスは細った指を、キットに向けて突き出した。

「昔、お前と同じ目をした男がいた。そいつは、権力になどまるで興味がなく、生き物だのなんだのとばかり関わっていた。生まれながらに与えられていた、領首の椅子に見向きもせず、ある朝出て行ったきり、二度と戻らなかった」

 イグニスはもう一度、引きつった笑みを見せた。


「お前に、私の兄の名を授ける。家を顧みず、どこかで野垂れ死にしただろう男の名前を。

 お前の名は、クロード=クラウディオ。我が道を突き進み、誰にも追随されぬ、ただ一人の大うつけになれ」



 その晩遅く、イグニス=イグレシアス・ハーンは息を引き取った。

 享年五十九歳であった。


       *


 アルバが正式に、ラナホルム領首となってから、クロードは一人で外遊びをするようになった。 

 使用人たちにいたずらを仕掛けるのは楽しいが、アルバの仕事中は、邪魔にならないように静かにしていなければならない。そんな時、じっとしていられないから、外に遊びに出かける。

 屋敷を見下ろせる丘の上に、クロードは寝転んでいた。草の感触を楽しみ、花の匂いを嗅ぎ、たゆたう雲を眺める。

 春も盛りの、うららかな午後だった。

 あたたかな陽だまりに、クロードはうとうとし始めた。眠りが手招きしている。

 クロードは目を閉じかけた。

 その時、強い風が吹いて、黒っぽくて巨大な何かが空を飛び去っていった。

 クロードは重くなっていた瞼を、はっと開き、勢いよく起き上がった。

 空を飛んでいったものの影が、遠く東の方へ消えていく。

 西からの風が、そのあとを追うように吹きつけ、クロードの背を撫でていった。

 図鑑で見たことがある。ダークグレイの体毛に、一対の翼。長い尾をたなびかせ、雲を貫いて翔ぶ、森の竜。


 ――西風が運んできたんだ。


西風ゼファー


 クロードは、弾かれたように丘を駆け下り、屋敷に戻った。

 兄の執務室の扉を、せわしなく叩き、中から「どうぞ」という声が返ってくるのも待たず、めいっぱい扉を開け放った。

 執務室には、仕事中の兄とメレディスがいた。

 兄は机から顔を上げ、クロードを見るなり苦笑する。

「クロード。ノックをするのはいいけれど、返事があるまで開けては駄目だよ」

 注意されても、クロードはお構いなしだった。今はそれどころではないのだ。

西風ゼファー! 西風ゼファー来た!」

 クロードが嬉々として告げると、兄は椅子から腰を浮かせ、メレディスと顔を見合わせた。執事は、口をあんぐりと開けている。

「クロード、君、今……喋ったのか?」

「ぼ、坊ちゃまが言葉を……」

 二人はびっくりした顔で、クロードを凝視している。その顔が面白くて、クロードは腹を抱え、声を上げて笑うのだった。


 


 弟が「西風を見た」という丘に、アルバとクロードは並んで立っている。

 空を見上げてみるが、当然のことながら「西風」がやってくることはなかった。

 しかしアルバは、「西風」に感謝を捧げた。弟に、“言葉”を取り戻させてくれたのだから。

 優しい風が吹いてきて、兄弟の髪を揺らしていったが、それは西からの風ではなかった。

 残念そうなクロードの手を握り、アルバは言った。

「いつかまた来てくれるよ。僕も会ってみたいな、君の西風に」

 流れゆく雲のように、西の彼方に想いを馳せた。


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