5
使用人全員が、屋敷中を隅から隅まで捜した。キットがいつも過ごしているお気に入りの場所や、納屋、物置の奥、食料を保存する地下室まで、子どもが隠れるのに適していそうな所も、くまなく捜した。
しかし、どこにもキットの姿はなかった。
もしかして、屋敷の敷地内から出てしまったのではないか。
心配のあまり、この世の終わりと言わんばかりの表情で、メレディスは言う。
その可能性も、充分考えられる。アルバは、キットの捜索班と、屋敷に残る待機班に使用人を分けた。メレディスは捜索班に、カーロッタは待機班に振り分け、自らは捜索班に入った。
私も行きます、と申し出るミラベルを屋敷に止まらせ、アルバは捜索班と屋敷を出た。
屋敷の裏手には森がある。この森に入り込んでしまった可能性もあった。
アルバは捜索班を、町方面担当と森担当に分けた。
夜の帳が下り、ランプの明りだけを頼りに、キットの捜索が始まった。
(僕のせいだ)
森の捜索に就いたアルバは、罪悪感にさいなまれながら、弟の名を呼び続けた。
(僕が、あの子を分かってやれなかったから)
鬱蒼と茂る闇の森の中、キットを呼ぶ使用人たちの声が響き渡る。
一時間ほど、そうやってみんなで呼び続けた。しかし、幼い子どもの姿は見つからなかった。
時間が経てば経つほど焦りが募り、厭な想像ばかりが浮かんでくる。
(頼むから返事をしてくれ)
弟の無事だけを祈り、アルバは森の奥へ進んでいった。
ひゅう、と風が吹きつけた。風は森の外側から奥に向かって吹いていく。
不思議な感覚を覚えたアルバは、その風に背を押されるかのように、風の流れていく方向へ、どんどん歩いていった。
やがて開けた場所に出た。そこには、深闇の入り口のような大穴が、地面にぽっかりと穿たれていた。
アルバを導いた風は、その穴の中に向かって吹き降ろしている。
(まさか)
アルバは穴の縁に駆け寄り、ランプの明りで穴の中を照らした。
果たして穴の底に、うずくまる弟を発見した。
「キット!」
呼びかけると、キットが顔を上げた。兄の姿を見るや、立ち上がり、悲しげに「うう」と唸った。
「待ってろ、今助けるから」
アルバはランプを掲げ、穴の深さを目で測った。かなりの深さがあるようだ。腹這いになって手を伸ばしても、キットには届くまい。
ロープの代わりになりそうなツタも、周辺には見当たらなかった。
アルバはランプを地面に置くと、穴の側面の、足がかりになりそうなところを確認しながら、慎重に降りた。
わずかに射し込むランプの明りの下、アルバが大穴の底に降り立つと、キットが走り寄って腰に抱きついてきた。
アルバは弟を抱き、震える肩や背中をさすった。
「よしよし、怖かったね。もう大丈夫だから」
キットは、掌や膝にかすり傷を負っていたが、それ以外に目立った怪我はないようだった。
かすり傷程度で済んで幸いである。アルバは天の守護司に感謝を捧げた。
あとは一刻も早く、この穴から脱出するのみだ。アルバはキットを背負い、降りてきた時のように、足場を確保しつつ、ゆっくりと登り始めた。
降りる時より、登る方が体力がいる。キットを背負っているからなおさらだ。アルバは全身の筋力を使って、穴を登る。
しかし、半分ほど登った時、左手をかけていた石の突出が、非情にも土ごとはがれてしまった。
バランスを崩したアルバは、両足も足場から滑らせ、穴の底に落ちていった。
その際、とっさに身体をよじって、自身がキットの下敷きになる体勢をとった。
身をよじったために、キットは地面に転げたものの、怪我はないようだった。
アルバは左足首に、強烈な痛みを覚えた。うっ、と呻き、しゃがみこんで、痛む足首に触れる。挫いてしまっている。
心の中で舌打ちし、穴の上を見上げた。この足では、キットを連れて登ることはできそうにもない。
(仕方がない)
左足首が熱を帯び始めた。腫れて膨らみつつもある。あまり時間を置いては、もっと腫れあがって、歩くのも困難になるだろう。そうなる前に……。
「キット、僕の言うことをよく聞くんだ」
アルバは不安げな弟に、ゆっくりと言った。
「屋敷の人たちが、君を捜すために森の中にいる。君を呼ぶ声が聞こえるはずだ。君は穴の外に出て、誰か呼んできてくれ。僕は足を挫いて、このままでは動けない。だから、君一人で行くんだ。いいね?」
キットは、どうするべきか迷っているように、視線を泳がせている。
「今の足では、君を連れて登ることが出来ないんだよ。だから、一人で行くしかない。分かるね?」
アルバはキットの肩に手を置いた。キットの、泳いでいた視線が、アルバに定まる。
弟は、小さく頷いた。
「よし」
アルバも頷き返す。
左足の痛みを、歯を食いしばってこらえ、アルバはキットを肩車した。そのまま穴の側面に移動し、キットに、肩の上に立つように言った。
キットの手が、穴の縁に届いた。よじ登るためにキットが身じろぎするたびに、左足首に激痛が奔る。脂汗を流しながら、アルバは耐えた。
脱出に成功した弟が、心配そうに見下ろしている。
「行くんだキット。僕なら平気だから。さあ、そのランプを持って」
強い意志を示すために、やや口調を荒げた。そのお陰でキットは決心したらしい。ランプを持ち、森の方へ駆けていった。
(それでいいんだ)
キットは喋らない分、耳がいい。自分を呼ぶたくさんの声に、まもなく気づくだろう。合流できた使用人を連れてきてくれれば……。
キットが一人だけで逃げるとは、アルバは微塵も考えなかった。
たくさん叱り、手も上げてしまった兄を、嫌ってはいるだろうけれど。
(信じているよ)
アルバは穴の壁に背を預け、深く息を吐いた。
ランプの明りがなくなった今、月も厚い雲に隠れ、穴の中は真っ暗だった。
時間の感覚が薄れ、どれだけの時が過ぎたのか、分からなくなっていた。
左足首は、二倍の太さに腫れていた。だが、折れていないだけ、まだましだ。
どこからか吹く風で、木々が、ざざ、と啼く。
その風に乗って、遠くの方から何かが聞こえてきた。人の声のようだった。
アルバは、閉じていた目を開ける。穴の向こうから、アルバを呼ぶ複数の声がした。
声の集団は、穴に近づいてきている。やがて、明るい光が穴の中に注ぎこまれ、アルバは眩しさに、片腕で目を覆った。
「アルバ様、ご無事ですか、アルバ様!」
男の使用人が、大きな声で呼びかけてきた。
穴の縁に、五、六人ほどの人影が集まった。その人垣をかき分け、キットが顔を見せる。
アルバは目を覆っていた腕を振った。
「足を挫いた。ロープはあるかい?」
「今しばらくお待ちを。ロープを持て!」
使用人たちが、慌ただしくロープの準備をしている中、アルバとキット、二人の兄弟は無言で見つめ合っていた。
アルバが笑うと、キットも笑った。
アルバは、何か満ち足りたものを感じた。
キットが無事に屋敷に戻ると、屋敷中は歓声に包まれた。
キットは、メレディス、カーロッタ、そしてミラベルに順に抱きしめられ、鬱陶しそうに顔を歪めたものの、逃げることはなかった。
アルバが足を怪我してしまったため、翌日のピクニックは延期となった。
ミラベルは、ピクニックを予定していた次の日に帰ることになった。ミラベル本人は、アルバの足を心配し、側で看病したいと申し出たのだが、アルバはやんわりと断った。自慢の娘が、予定通りに戻らないとなると、クウィントン伯爵が心配するだろう。
ミラベルがハーンの屋敷を出る際、キットは彼女に、薄いピンクの可憐な花を贈った。
おそらくは、自分がだめにしてしまった帽子の代わりにという、キットの精一杯のお詫びなのだ。
ミラベルは大層喜んで花を受け取り、キットの額に口付けするのだった。
兄弟は、ミラベルを乗せたビークルが去っていくのを、揃って見送った。
*
森での迷子騒動から、一週間。
怖い思いをしたというのに、キットは反省どころか、暴れっぷりにますます磨きがかかっていった。
ヴェルゼン氏のお陰で得た知恵を駆使し、あの手この手で罠を仕掛けては、使用人たちを引っ掛けて遊んでいる。主な被害者は、メレディスとカーロッタである。
この頃になると、使用人たちも慣れたもので、キットのいたずらに振り回されつつも、徐々に向上していく仕掛けの完成度に、キットの成長を垣間見て微笑むのであった。
相変わらずかと思いきや、明らかに変わった点がある。
キットは、アルバの言うことだけは、素直に聞き入れるようになったのだ。
それは、兄に服従している、というものではなく、絶対的な信頼の上に成り立つ、親愛の忠誠心だった。
兄弟の絆が、たしかに築き上げられつつあった。
そんな中、父イグニスが危篤である、という知らせを受けた。
アルバはキットを伴い、死の縁に佇む父を見舞った。
父の横たわるベッドの側には、主治医と看護士が控えている。部屋の隅では、目を赤く腫らしたメレディスとカーロッタが立っていた。
イグニスは、落ち窪んだ目を兄弟に向けた。口の端が、少し歪む、笑ったのだろうか。
「側に来い」
イグニスの声は、かすれきっていた。
「アルバ」
「はい」
アルバは頷く。これが父の最期の言葉か。胸に迫るこの思いは、どうすれば伝えられるだろうか。
「お前は決して、私のようにはなるな」
「父上……」
「ハーンの長たる者、先代と同じ手法を用いるなどという、見苦しい姿を晒すな。お前はお前のやり方を確立し、見事にやり遂げてみせよ。私と同じ轍を踏むようであれば、即座に領首の座から引き摺り下ろせと、メレディスとカーロッタに遺言を遺している。このこと、忘れるな」
同じ轍……。ああ、父はご自分の失敗を認めていたのだ。それが領首としての失敗か、父としての失敗なのか。いずれにせよ、父は分かっていたのだ。
アルバは必死で涙をこらえた。今泣けば、それこそ父に叱られるだろうから。
イグニスの目線が、キットに移った。
キットは、何の感情も読み取れない顔で、じっとイグニスを見返している。
その無表情さに、イグニスは乾いた咳のような笑い声を上げた。
「その目だ。その、私などまるで眼中にない、と言いたげな目。お前にとっては、私など取るに足らぬ存在なのだろう? そうだ、お前はそれでいい」
イグニスは細った指を、キットに向けて突き出した。
「昔、お前と同じ目をした男がいた。そいつは、権力になどまるで興味がなく、生き物だのなんだのとばかり関わっていた。生まれながらに与えられていた、領首の椅子に見向きもせず、ある朝出て行ったきり、二度と戻らなかった」
イグニスはもう一度、引きつった笑みを見せた。
「お前に、私の兄の名を授ける。家を顧みず、どこかで野垂れ死にしただろう男の名前を。
お前の名は、クロード=クラウディオ。我が道を突き進み、誰にも追随されぬ、ただ一人の大うつけになれ」
その晩遅く、イグニス=イグレシアス・ハーンは息を引き取った。
享年五十九歳であった。
*
アルバが正式に、ラナホルム領首となってから、クロードは一人で外遊びをするようになった。
使用人たちにいたずらを仕掛けるのは楽しいが、アルバの仕事中は、邪魔にならないように静かにしていなければならない。そんな時、じっとしていられないから、外に遊びに出かける。
屋敷を見下ろせる丘の上に、クロードは寝転んでいた。草の感触を楽しみ、花の匂いを嗅ぎ、たゆたう雲を眺める。
春も盛りの、うららかな午後だった。
あたたかな陽だまりに、クロードはうとうとし始めた。眠りが手招きしている。
クロードは目を閉じかけた。
その時、強い風が吹いて、黒っぽくて巨大な何かが空を飛び去っていった。
クロードは重くなっていた瞼を、はっと開き、勢いよく起き上がった。
空を飛んでいったものの影が、遠く東の方へ消えていく。
西からの風が、そのあとを追うように吹きつけ、クロードの背を撫でていった。
図鑑で見たことがある。ダークグレイの体毛に、一対の翼。長い尾をたなびかせ、雲を貫いて翔ぶ、森の竜。
――西風が運んできたんだ。
「西風」
クロードは、弾かれたように丘を駆け下り、屋敷に戻った。
兄の執務室の扉を、せわしなく叩き、中から「どうぞ」という声が返ってくるのも待たず、めいっぱい扉を開け放った。
執務室には、仕事中の兄とメレディスがいた。
兄は机から顔を上げ、クロードを見るなり苦笑する。
「クロード。ノックをするのはいいけれど、返事があるまで開けては駄目だよ」
注意されても、クロードはお構いなしだった。今はそれどころではないのだ。
「西風! 西風来た!」
クロードが嬉々として告げると、兄は椅子から腰を浮かせ、メレディスと顔を見合わせた。執事は、口をあんぐりと開けている。
「クロード、君、今……喋ったのか?」
「ぼ、坊ちゃまが言葉を……」
二人はびっくりした顔で、クロードを凝視している。その顔が面白くて、クロードは腹を抱え、声を上げて笑うのだった。
弟が「西風を見た」という丘に、アルバとクロードは並んで立っている。
空を見上げてみるが、当然のことながら「西風」がやってくることはなかった。
しかしアルバは、「西風」に感謝を捧げた。弟に、“言葉”を取り戻させてくれたのだから。
優しい風が吹いてきて、兄弟の髪を揺らしていったが、それは西からの風ではなかった。
残念そうなクロードの手を握り、アルバは言った。
「いつかまた来てくれるよ。僕も会ってみたいな、君の西風に」
流れゆく雲のように、西の彼方に想いを馳せた。