暁よ、我らの旅路を今はまだ知らないで
埋野暁火が組長に就任してから一週間がすぎ、諸々の整理はある程度済みつつあった。
飯綱会の構成員たちはその多くが夜行組にて面倒を見ることが決まり、先んじて数人の妖が支部などにも配属されつつある。
新組長就任の報も管理下にある妖衆全体へ正式に通知がなされ、埋野暁火の存在は妖の世界において公然のものとなった。
表面上においては夜行組は完全に復活し、すでに通常の業務もほとんどが再稼働している。とはいえ先の騒動に関しては、まだ全てが終わったというわけではないらしく、葉蔵や張を始め幾人かの者たちは何やら裏で行動をしているようだ。
彼らとしては埋野暁火という一般人、しかも女子高生が組長となったというインパクトのあるニュースを隠れ蓑にして、何らかの計画を進行させる思惑があるらしい。
組織は通常の在り方に戻り、また暁火の日常は多少の変化はあれど以前同様、穏やかになりつつある。まだまだ覚えることも多く、学業とバイトに加え、組長としての職務と使命、さらに妖の世界で生きていく上で身につけるべき数多くのこと――やるべきことは山積みで忙しないばかりだが、それでも暁火にとっての新たな日常と呼べる様相となってきた。
片付けがなされた組長の部屋、私服に着替えた暁火はパーカーを羽織り、姿見でフードの形を整える。聴き慣れた洋楽のメロディーを鼻唄で歌いながら、ポケットにチュッパチャップスと携帯電話を詰めていく。
黒い瞳がちらっとテーブルの上に置かれた銀の腕時計へと向けられた。
長年使い続けた腕時計はまるで新品のような光沢で輝いている。母親の形見である時計は、暁火が初めて身につけた時よりもずっと綺麗な姿で正確な時を刻んでいた。
笑みが失せ、暁火はじっとその時計を見つめる。哀しむわけでも、悼むわけでもない、平坦な表情だ。
毛利金次郎は逃げることなく、罰を享受した。
あの日、毛利との話を終えた暁火は寄り道をしながら、ゆっくりと屋敷に戻り、真実は菖蒲や張を始めとした夜行組の幹部たちへ説明をした。すぐに組員たちが毛利のアパートに差し向けられ、その身柄を拘束。彼はその時まで、丹念に時計を磨いていたそうだ。
彼は除名となり妖の力を失った。今はもうどこで何をしているのかも分からない。
きっと暁火がどれだけ先延ばしにしても、毛利は逃げなかったのだろう。
それは彼なりのけじめだったのかもしれないし、そもそも彼にはもう逃げてまで妖の世界に留まり続けるだけの理由がなかったのかもしれない。
あれは彼が考え抜き、悩み抜いた末に辿りついた自殺だったとも思える。
毛利は真実を抱えたまま、どこかへと消え失せ、知る術はもうない。
見えない答えと向き合うように時計を見つめ続けていた暁火は、やがてゆっくりと息を吐き出し、そっと笑顔を作った。
「よし、行くか」
手に取った時計を腕に嵌め、暁火は部屋を後にする。
少しずつ変化の生まれた日常。暁火には新たな日課ができていた。
向かった先は仏間。暁火は床の間の隣に設えられた仏壇の前に正座し、鎮座する先代組長、夜行鷹緒の写真と向き合う。
「おはよう、お父さん」
朗らかな声で暁火は語りかける。
未だに慣れない呼び方だ。生まれてからの十七年間、暁火は父という存在を全く知らなかった。
見ず知らずの肉親を父と呼ぶことはどうしても違和感があり、まだ実感さえ湧いていない。
それでも暁火は、写真に映るその人物を父と呼ぶことを選んだ。
「少しずつ新しい生活にも慣れてきたよ。張さんに妖の世界の歴史を教えてもらったり、おじいちゃんや菖蒲さんに妖術を教えてもらったりで大変だけど、何とか上手くやってけそう。お父さんはそっちで上手くやれてる? アタシはお父さんのこと、実際よく知らないけど、みんな気前がよくてお人好しだってお父さんのこと言ってたから、きっとそっちでも上手くやってるのかな。お母さんもいるだろうし、むしろ楽しんでたりする?」
暁火は声も知らぬ父親がどんな言葉を、どんな声で、どんな表情で返してくれるのか、心の隅で考えながら語りかける。
少しでも娘である自分のことを知ってもらおうと、綴った言葉で父の姿を象ろうと。
「もしアタシのことを心配してくれているなら安心してね。ここの人たちはみんな優しくて、アタシのことを支えて、助けてくれてる。だから、この場所でやっていけると思う。いきなり組長なんて責任重大なポジションになっちゃったけど――うん、みんながいるから大丈夫。今はまだ、みんなに助けてもらってばかりだけど、アタシお父さんが遺したものを、大切にしてきたものを守ってみせるから。だから、安心して。そんで、なんなら見ててよ。アタシの活躍を、さ」
この組は、この屋敷は、そして何より暁火が管理することとなったこの場所は、その全てが実父である夜行鷹緒の遺したものだ。
暁火は父の遺したそれらによって妖の世界に巻き込まれることとなったが、妖の世界においては無力で無知なただの小娘であった暁火を守ってくれたのも父が遺した者たちだった。
父が傍に置いた仲間が暁火を助け、導いてくれたのは事実だ。
次に紡ぐべき言葉を探し、暁火は一度俯き、どこか所在なさげな顔で写真に映った父の不敵な笑みを見つめる。
「お父さん、アタシが組長になって、どう思ってるのかな? こんな危険なことして怒ってる? それとも、喜んでくれてる? 何も知らなかったアタシには分からないよ。お父さんとお母さんは、アタシにどうしてほしかったのかな……」
ほんの少し前まで、暁火は妖の世界を知らなかった。
母がそんな世界に関わっていることさえ知らずにいた。
隠していたのはどうしてなのだろうか。何故父は母と娘の前に姿を見せることなく、母が亡くなった後も娘の前に現れなかったのだろうか。
分からないことばかりだ。
もしかしたら、二人は暁火がこの世界に関わることをよしとしていなかったのかもしれない。
時期が来たら、全てを話そうとしていたのかもしれない。
二人がもうこの世にいない以上、暁火にはそれすら知る術がなかった。
「て、弱音吐いたら、お父さんのこと心配させちゃうね」
不安を払拭するように頭を振り、暁火は笑顔でもう一度父の写真と向き合う。
「お父さん、アタシはアタシの行きたいと思った方へ進むよ。今はまだ、どうしてこの道がいいと思ったのか分からない。でもきっと、アタシの心が行きたいと思わせる何かがあったんだと思う。だから、信じて進むよ。今までそうしてきたように、アタシはアタシの心を信じてやりきってみせるから」
自分に言い聞かせるように、決心するように、暁火はうん、と一度頷いて立ち上がった。
父と見つめ、暁火は写真を倣うようににっと不敵な笑みを見せる。
「ま、八代目組長の活躍に乞うご期待ってわけだね。お父さんのことなんてすぐに追い抜いちゃうから覚悟しておいてよ」
まだまだ、全てがこれからだ。
暁火の組長としての日々は始まったばかり。
この先、何が待ち受けているのかも分からない。しかし、どこへ向かおうと行く先はいつだって不確かだ。
だから彼女は、いつだって前を見て、進み続けるのだろう。
暗い旅路の先、野に埋められた暁の火が迎えてくれることを信じて。




